神は降臨せり
「……竜か!!」
広げる翼が竜の独特のシルエットを描く。カミナギリヤさんが射抜くものの、当たった気配はあるが効いた様子はない。
逆光の中にあってその色は判然としない。いや、竜だけならばそこまで問題ではない。
問題はその運搬物。何かが居る。確かめようとするまでもなく遥か上空からそいつらは降ってきた。言葉通りである。
何の魔術もなく、生身であの高度から。土煙が上がる中に二人の男女。どちらも人間、男の方は異界人だが種族的には人間と言っていいだろう。
イースさんや綾音さんとは違い、まっとうな人間種族に見える。
「あのおっさん……教団が飼ってやがる異界人か……!!」
カグラが呻くようにしながら距離を取る。
炎の如き紅き髪の毛を棚引かせる軍服のようなひっつめた服装の女性と、同じく軍服を着た、黒目黒髪の見た目ならばごく普通の眼光が異様に鋭いおっさん。
手に持つは両人共に剣である。女性の方が大剣で男の方はサーベルだが。
とはいっても観察の時間が取れたのは僅かだった。ずしん、大地が揺れたのがわかった。踏み込みなどという表現は生ぬるいであろう。
砕けた大地、舞い上がった砂塵の中に姿はもう無い。男はこちらの懐に既に入り込み己の距離にこちらを捕らえている。
太陽に照らされ銀の煌めきが視界を焼く。反応出来たのはブラドさんだけであった。以前に紳士のやることじゃ無いとかなんとか言っていたがそんな事に構っている暇は無いらしい。
巨大な狼と化したブラドさんがその猛攻を唯一人で凌ぐ。風圧に煽られるままに砂がその軌跡を描く。一合打ち合う度にばぎゃんと重い金属音が空気を焼いて火花となって宙に幾つもの花を咲かせた。
間断なく繰り出される斬撃は既に視認など出来るものではない。あれを凌げるのは他ならぬブラドさんだからだろう。
どう見たって斬撃の速度が人間の反応速度を越えている。私から見ても筋肉の動き、視線の動きを読むなどと出来る技量じゃない。ブラドさんが反応出来ているのは人狼の勘だろうか?
僅かな空気の揺らぎ、金属音、そこから見える極々細い糸。小さな針に通すが如くの、視界の一切合財を捨て去り、培ってきた経験、それだけを縁に只管に音を置き去りにする剣を無手で受ける。
見逃されたのかブラドさんが隙を見出したか、一際大きな火花を散らして両者は跳ね回る駒の如くはじけ飛ぶ。
こちらに歩み寄るは女性の方である。女性だからと男の方よりも弱いなどとはとても思われないが。前に立つはカグラ、聖銃は既に抜いている。その手の甲が手袋越しにも僅かに光っているのが見て取れた。
氷雪王シルフィードの神器とすら真正面から撃ち合えたカグラが剣を構えもしていない女性を前に撃たないのはあまりにも隙がなさすぎるからだろう。
口元に血が滲んでいるあたり、僅かなりとも瘴気を吸い込んでいるのは明白だがその動きは一切それを感じさせない。
「お初にお目にかかる、今代祈主、茨の王よ。私の名はジェダ=シュヴァルツヘルハルト。手合わせ願おう、ゆくぞ」
「剣聖が来るかよ…!ちっ…!!しかたがねぇ、剣聖は俺が相手する、アンジェラ!!
そっちの異界人の男を抑えろ!!クソ人狼、アンジェラの間合いに入るな!!」
再びこちらに打ち込んできた異界人の男の剣を、カグラの激に従いアンジェラさんは柔らかそうな腕でいとも簡単に受ける。
火花が散った。
ただの人間にしか見えない姿ながら、まるで鉄で出来ているかの如く。
四肢が展開し、蜘蛛のように広がる。
内部から現れた凶刃が視界に収めるなど不可能な速度で幾重の風となって振るわれた。空気が焦げる音が響く。
「お姉さんと遊びましょうねぇ」
「天使の複製品か。解せぬな。何故そちらにつくのだ。
自律兵器なのだろう?与えられた命令をただ実行し続ける、魂無き機械である筈だが。
それとも彼らの監視の任務でも受けたか?」
「お姉さんはねえ、カグラちゃんの監視と聖銃の守護を受けているのよ~」
キリキリキリキリ。
歯車の音がする。
展開された四肢が巨大なシルエットを大地に落とした。
異形の身体の中にぽかりと浮かぶいつも通りの穏やかな笑顔は普段と全く変わる様子もなく、機械の容赦のなさで攻撃の手を緩めることもない。
アンジェラさんは多分これカグラより強いのでは。浮き上がった石礫がアンジェラさんの攻撃に巻き込まれて消し飛び閃光のような光を断続的に放つ。
「貴様の頭蓋に詰まった箱はそれが理由になっていないとわからんのかね。何故アルカ家に戻らぬ。
アルカ家はまだ何も知らんが。お前は現状を理解しているのだろう。聖銃の回収をした上で戻るのが人形らしい判断だが」
「お姉さんと遊ぶのは嫌なのかしら~?
……あらあら、クーヤちゃんの監視は受けていないのよ~。何処に居るかなんてアルカ家の人達は知らなかったのだもの~。
カグラちゃんはギルドの不穏分子の監視と報告、クーヤちゃんの捜索を言われていたの~」
「全く、話が合わんな。何処ぞの捩子でも外れたか。
回収してアルカ家に恩を売るのも悪くはないが――――」
「ヒトは約束を守るものなのだもの~」
「人間でもないのに、かね?」
「ちっちゃなカグラちゃんがお姉さんをヒトとして扱ったのだもの~」
「笑み以外に表情が変わらぬ。
受け答えは遅く、戦闘行為以外の動作も遅い。
人の感情の機微を理解している様子もない。人間の真似事すら出来ていないな」
目を焼くほどの巨大な火花が散る。男の首元に刃を滑り込ませようとしたアンジェラさんの動きを予測していたのか。方や首を、方や武器を狙った攻撃が互いを弾く。その勢いのままにアンジェラさんの間合いから逃れた男が私を見た。
あの男、恐らくわざとアンジェラさんに隙を見せたのだろう。僅かな隙だったのだろうがアンジェラさんはその正確さでそれを捕らえてしまったのだ。
アンジェラさんが再び攻撃体勢に入り、後肢が僅かに地面を噛むのが分かった。
その予備動作の刹那に男は既にアンジェラさんの間合いを遥かに外れて私の眼前に。二人が襲撃してくるより永遠にも似た僅か数分、こちらにまともに立て直している奴は未だ皆無に等しい。
この場の者達に宣言するかのように、目の前の男は私の前に立ちサーベルを掲げて布告する。
「深淵なる混沌、独り眠る静謐の夜。暗黒神アヴィス=クーヤ。
私の名はゲルトルート=ガントレットという。
さて、貴様の首を貰おう」
「ぬぬ……!!」
漸く身体が動く。本を抱えて後ろに飛ぶが、私の足の短さでは殆ど距離など稼げはしない。ちらりと男の視線が横を向いた。
視線の先に居るは、フィリア。
「ノーブルガードの娘。私の今の声が聞こえただろう。
ただの逃避に付き合う程我々は暇ではないのだよ」
その言葉に、フィリアの顔から表情が削げ落ちた。
「……暗黒神アヴィス、クーヤ、そう、そうですの……」
「フィリア?」
声を掛けるが、フィリアは動かないままどこか遠くを見るような眼差しで静かにこちらを見つめている。
その目に映る物が何であるか、イマイチよくわからない。
感情の揺らぎも何も伺えない瞳は彼方の空をまるで酷く眩しいものを見るかのような。
永遠に手の届かないものを見つめるような、谷底の縁でつま先立ちで微笑みながら闇の底を見つめるような、星々が遠くに瞬く宇宙の中に一人きりで人を求めて彷徨うような。
「クーヤさん、私、知りたくありませんでしたわ。
どうして……」
「……フィリア?」
「だって、そうでございましょう?
知らなければそれで済んでいたのです。目を閉じて耳を塞いでいれば幸せな夢に浸っていられたのに」
例えばそれは祈りが届かないと悟った信者のようであり。
「救世主はどこにも居ない。命と願いと欲望、絶望と苦痛と死、その果てにあるただ一つの祈り。
祈りの奥義。光の神は顕現する。
大教皇セレスティア=クラドリール、彼女はただの人間でしたの。肉体はいずれ朽ち果てる。だから―――――」
例えばそれは自らの全てが何の意味もないと突き付けられた老人のようであり。
「肉体は彼女のものに。
ここにいるのは仮初の肉体を動かすだけのただの亡霊。
この器はセレスティアが世界に干渉する為の端末の一つ―――――」
フィリアの顔が引き攣る。何か、恐怖を象徴するものが近づいて来ている事を知っている、そのような顔だった。
ぎゅぅと私の手をフィリアの手が握りこむ。必死の形相でフィリアは私を見つめ、言い募った。
「クっ、クーヤさん!
わ、わたしの名はフィリアフィル=フォウ=クロウディア=ノーブルガード…っ!
じゅ、十九年前にノーブルガードの家に生まれましたの!!
生まれて直ぐに聖女の苦行に入って、他の姉妹も居たけれど生き残ったのは私だけで!!そして肉体は彼女のものになった……!
白の子供達は皆行き着く先は無尽蔵の魔力を生み出し神を生み出す神の炉、身体から魂が離れればそこにしかいけない…!
私の魂もまたあそこに居る、けれど精神はこの器を動かす為に呼び戻されましたの……!
それからずっと当主のフェラリアス様やっ、あの、聖獣の血を継ぐエルマイヤ様をお慰めするノーブルガーディアンとして生きてきましたわっ…!
自己嫌悪と苦しみと痛みしかない毎日で、ずっと、ずっと、何もかもが終わる事だけを祈って生きてましたの!!
そ、そして、聖女として勇者バーミリオン様に付けとの命に従って冒険者になりましたのよ…っ!!ぼ、冒険者の生活はすごく、楽しくて……っ!!生まれて初めて楽しいっておもいましたの!
外に出て、クーヤさんに出逢って、何もかもがかわりましたのよ…っ!!聖女じゃなくなったんですの!!私、生まれて初めて自由になったんですのよ…!!
色んな人に逢いましたの、色んな事を知りましたの、世界を見て回るのは楽しくて…!!
この身体を通じて皆さんにご迷惑をお掛けしているのは知っていましたけれど、どうしても離れられなくて、それで…!!
す、好きな食べ物はグラタンですわ!!飲み物は柑橘系の果実を搾ったのが好みですの!!香草は嫌いですわ!!
好きな本はこねずみちゃんの大冒険という絵本で、ああでも最近はクルコの実が一番好きで、ク、クーヤさんお願い私の事を忘れないでくださいまし……!!
あと、それと好きな舞台はオリーヴィエの戯曲で、他には、この大地で自分の自由意志で生きる人達が好きで」
繋がれた手が離れる。
眩しいばかりの光が世界を満たす。
最後に。
微かな声が聞こえたのだ。
「クーヤさん、ねぇ、私、あなたとお友達に――――――」
伸ばした手は届かない。
吹きすさぶ風の中、彼女の背中に輝く光を見た。
ああ、そうか。その瞳が映すもの、その胸に宿るものが何であったのか、私は悟る。
彼女が覗き込んでいたものを、人は絶望と呼ぶのだ。
「フィリアアァァァアア!!」
ただその名を叫ぶ。
彼女の精神がもう彼処には居ないと知ってはいても、名を呼ばずにはいられなかった。
目の前に居るのはもはやフィリアではない。
その名を呼ばわる。
私は彼女を知っている。
「レガノア」
それは刹那にも満たない邂逅だったろう。
ほんの僅かな時間だったが、確かに彼女と目があった。
彼女があの不完全かつ彼女に相応しいとはとても言えない器に無理に宿り現世に顕現できたであろう時間は無に等しく。それでも確かに目があったのだ。
吹きすさぶ風と逆光の中に、唯独りきりで立つ彼女の唇が薄く弧を描いて――――――。
「アヴィス」
光が溢れる。質量を持った光が荒野を舐めた。
大地から溢れる生命の息吹。罅割れた大地から植物が吹き上がり枯れてゆく。それを眺めてから彼女に意識を戻した時には既に彼女の気配はもうない。
カサカサと枯れ落ちた植物が風に煽られ崩れてゆく。ふと、その枯れ屑の動きが変わった。我に返るがもう遅い。
「…………っ!!」
レガノアに気を取られたのは一瞬のことである。だが気がつけば異界人の男はもはや私では避けようもない程に肉薄し、そして手にしたサーベルを私に振り抜き終わっていた。
肩口から胸部へ、金属の刃がぬるりと滑る感触。斬撃の衝撃に足ががくんと折れた。真っ二つとは言わないがそれに近い状況に肩から先がまあ付いてると言えないくもないのは僥倖なのかどうなのか。
どう考えても即死コースではあったが……あのサーベル、神剣の類かどうなのか。物質的な武器ではない。肩口より覗く断面は真っ黒で血は出ていない。ただの剣だったら今ので死んでいただろう。
しかし、死んでないだけだ。これではどうにも出来やしない。上半身がズレている。横合いから飛んできた一足遅いカグラの銃撃に男は弾かれたが大地に転がった私の身体はこの傷をくっつけなければ立ち上がることすら困難である。
数名が何とか我に返り異界人と剣聖に挑むが、あの二人、強い。シャレにならない。
神の加護に頼り切りであった勇者達とは比較にすらならない。
正しく人の限界を超えた人間、神の加護などなくともこの二人にはなんの意味もないに違いがない。
「ウルトディアス!お前は動くな!!その傷では死ぬ!!」
「ちえー」
「クッソ……!!当たりゃしねぇ……!!」
こちらの攻撃は殆ど届かない。
ある意味頼みの綱のおじさんは未だ固まったまま。クロノア君もブラドさんは攻撃を防ぐので手一杯。クロウディアさんの放つ魔法も意に介さず、これでは打つ手がまるでない。
何とかせねば、周囲を見回せば風に煽られページの捲れる本が視界に入り、そこでそれに気づく。
おそらく純粋な魔力の塊である魔石故だろう。魂とは違うそれは分解に時間のかかる代物ではなかったということだ。
だがそんな事は今はどうでもいい。大事な事はあの魔水晶を取り込みそして私の魔力へと変換した事によりあの約束を果たせるということだ。今此処で。
盤上を返す一手となりうるか、それはわからない。どちらにしても魔王ウルトディアス、魔王クロウディアの現状を思えばこの世界に黒魔力と呼ばれる物が無き今、どうしたって全盛期には程遠いだろう。
魔力の殆どを持っていかれると言って差し支えない量だが、この地に再び戻る事は叶わぬのはわかりきったこと、それならばこの腕に。
魔物達が領域とやらをこの地で広げ続けた筈、一体何処まで範囲が及ぶかはわからない。
というよりも、この地の死霊達は既に自我もない混ざり合い呪いと化しているのならばそもそも巨大な一個の魂という扱いかも知れないが。
これもまたどちらでも構いはしない。地に投げた地獄の穴、地の冥き底へ。手を伸ばしこの地に揺蕩う呪われた人魔の億の魂、その苦痛からの解放を此処に。
吹き抜ける一陣の赤い風、悲鳴はもう聞こえない。
罅割れ枯れた荒野、生命を蝕む怨嗟はもう無い。
抜けるような遥か高い空の最中、どこからともなくこの空にあってなお高く、笛の音にも似た鳥の声が響く。
本を取る。迷いはない。
商品名 マリーの封印解除
マリーに掛けられている封印を相殺し解除する。
封印解除と共に、加護を与える事で全盛期まで能力を戻す事が可能。
あの時の彼女の覚悟と笑顔に、今此処で応える。
「……この魔力、そうか、これが」
剣聖がカグラと相対しながら呆然と呟く。
動くものは誰も居ない。ビリビリとした張り詰めた空気。ニブチンな私でもわかるこの巨大な存在が近くに居るという圧迫感。聞こえてくるのは雷鳴にも似た幾千、幾万の羽ばたき音。
そうか、資材の無いこの大地にどうやってこの街を作ったか。私がマリーさんへ聞いた先程の問いの答えがそこにあった。
結界をおそらくは今は此処に居ないのであろう魔王エウリュアル。そして街を魔王ブラッドベリーが作った。黒のマナが無いならば別の物を使うしか無かったのだろう。
成る程、街のチンピラ共がマリーさんに従う筈である。建物が崩れ万の蝙蝠となって空を覆い尽くす。渦を巻くようにして旋回する蝙蝠達は徐々に金の光となって周囲を照らし出した。
赤い大地が金の光に照らし出され、茜色に染まった。
その光の全てを吸い込んだ金色の光はそのまま異界人の男へと突撃する。甲高い金属と金属が擦れ合うような耳を劈く轟音と共に火花と巨大な光が散った。
「ぬ―――――」
あれほどの強さを誇った男が防戦一方、蝙蝠化と霧化を交えた一分の隙すらない閃光のような連撃に為す術もない様子である。あの様子ならばおそらくあの男の持つ武器が保たない筈だ。
男もそれをわかっているらしいが距離を取る事さえままならないようだった。
雷撃を伴う白い足が頭上から下ろされ、それを防いだのを最後に男の持つ剣は真っ二つにへし折れ刃先はそのまま何処かへと消えた。
それを見届けるように長い白い足がゆっくりと地に下ろされる。凪いだ風が張り詰めているかのような緊張感を持っている。静かだった。
黄金を湛えた髪の毛が舞い上がる。扇情的な輪郭を描く赤のドレスが風に煽られ翻る。血を塗り固めたような真紅の瞳が男を見下ろしていた。
嘗て黄金の薔薇の君と謳われた魔王、吸血鬼マリーベル=ブラッドベリーがそこに居た。
「魂ごと失せなさいな」
何の予備動作もなく巨大な魔法陣が展開される。黒の魔力がないという状況だというのに。本来の威力など想像もしたくねえ。魔法陣から雨あられと降り注ぐ雷が大地に大穴を空ける。土が白っぽいガラス化しているのを見るに直撃すればどうなるものか。
当てる気はそこまでないのであろう、どちらかと言えば動きの制限が目的なのかもしれない。マリーさんの手の平から溢れる紫電の光、扇状に広がるそれは掠っただけで黒焦げになれるのは想像に難くない。
二人が何とか凌いでいるが、あれだけでも何れ力尽きるだろう。このまま決まるか、思ったがフィリアの身体を抱えた異界人の男の方が懐から何やら取り出した。
「回収するべきものはした。分が悪いのでな、ここは引かせてもらうとしよう。
そこの人形は預ける。アルカ家に戻らぬと選択した時点で人形としては壊れている。
それならば私が態々回収する必要もない」
手にしているのはいつか見た黒の勾玉。あれを見るのは二度目だ。なんとなくわかった。あれはウサギ石と同じものだ。悪魔が封印された石。
レイカードが持っていたものとは明らかにその質が違う。ああしてみるとかなり強力な悪魔な気がするぞ。黒い光を発する勾玉は如何にも禍々しく、呪物じみた物を感じる。
「女狐、我々の目的は果たした。力を貸せ」
クォン、獣の鳴き声が響く。マリーさんの雷を黒の波動が消し飛ばす。その隙を付いて上空から飛びかかってくる巨大な生き物。
白銀の鱗をした竜である。さっき乗ってきたのはこいつか。黒い暴風の中、ギルドマスターの爺さんが竜の翼に一刀を浴びせるが……。
「おいおいおい……儂の剣じゃもう通用しねぇか。年は取りたくねぇな……。
あいつらに笑われらぁ」
いや、動けただけマシだと思うが。この中で動くとは何か異界人としての特殊な力を備えているのかもしれない。
竜は大きく羽ばたき、そのまま空へと駆け上がる。追いすがるようにカミナギリヤさんの矢が後を追うが、光とともにそれはあっけなく弾かれた。
そしてそれが最後だった。黒の暴風が止み、そしてあの白銀の竜が残した風が静かに吹き抜けていった。
「………………」
誰も何も言わない。完膚無きまでの敗北だった。
考える。
フィリアの精神は消滅したのであろうか?
……いや、そんな事はない。あそこでレガノアが出てきたのは……恐らく向こうにとっても想像の埒外もいいとこであろう。現にあの人間の二人も隙とも言えないぐらいの時間だったが固まっていた。
あの身体、どう考えたって無理を通したとしか思えない。セレスティアとかいう人間が世界に干渉する為の端末の一つ、元来ならばその人間の為の器だ。
セレスティアが教会の総本山から遠隔で操作する為の器だっただろう。それを彼女が横合いから制御をかっ攫ったのだ。
ならば精神は消滅などしていないだろう。
立ち上がる。
ぐらぐらとする上半身、ぐいっと横から押し付けて引っ付ける。
竜が去った後、大地に蠢く者が在る。
うぞうぞと這い回りその質量を見る間に増やしていく。
瘴気はもう無い。ならば出て来るのは天使である。
ただの小さな真白の餓鬼であったそれらは甲高い軋み音を立ててぞるぞると生えだした四肢を動かし立ち上がる。
エンジェルスマイル、というらしい。確かな理性も発達した感情も無き赤ん坊が浮かべるそれは。
だが、それもあの巨体にぽつんと面のように張り付いているだけでは愛らしいなどとはとても言えないだろう。
ばふりと広がる背羽から白い光を放つ羽根が舞い上がる。
空へ舞い上がろうとしたそれらを、天より降る雷が焼き潰した。無論、天使ならばその程度で死ぬわけもない。
マリーさんが干渉したのか、街の結界が広がる。
「マリーさん、結界の核にこれ使ってください。僕の取っておきですよー」
ウルトがマリーさんに言いながら渡すのは私がくれてやったあの黒い宝石だ。
む、それならば。
「マリーさーん!」
渡したのは黒いペーパーナイフと悪魔の絵画である。使えそうなもんは全部使うのだ。
暗黒花の種もある分だけばらまきまくった。
それを受け取るマリーさんの背は今となっては実に高いのでしゃがみ込ませてしまった。
その赤い目はもう私が何をするつもりかを知っているようだ。
「クーヤ、三日、いえ、五日は保たせるわ!!此処でわたくし達は貴女の帰りを待つ!!
行きなさい!!」
「任せて下さーい!!」
顔をあげる。巻き上がる風に砂塵が舞い上がる。砂と共に大陸を駆ける風の辿り着く先。
目を開く。荒野が遠ざかる。
彼らが消えた蒼穹の彼方、姿はない。もっと遠くへ。
煌めく海原の中に浮かぶ幾つもの紅き群島。ここではない。もっと遠くへ。
眩ゆく白き雲海、その狭間より覗く人が這いずる大陸。ここではない。もっと遠くへ。
深緑の碧と大地の砂色、創生の傷跡より奔る幾筋もの光。大気の中に求めるものがある。私の目から逃れられるものなど在りはしない。
剣聖と異界人、そしてもう一人。その背中を私の目は捕らえる。渡す道理は有りはしない。引っ掴んでくれようと手を伸ばす。が、私の気配でも感じたのか。
男が振り返る。遅れて剣聖。小さな火花のような物を放って私の手から逃れるようにしてすり抜けていった。なんと小生意気な。
掴み損ねたがフィリアに反応はない。そこにあるのはもはや精神無き肉体でしかない。ならば彼女の精神は何処へ?
見回せば直ぐに視界に入った。人の大陸の中心、プリズムの光を放ちながら煮え滾る巨大な釜。幾万の魂を煮込み神生みを成す、創世神話はここから始まる。混沌と光の坩堝、投げ込まれた魂を飲み込みながら永遠に燃え続ける原初の炎。
人の栄華を支える魂と精神を糧に蒼い光となって中の魂を苛み続ける魔力の炉。その深い底、世界を支える炎に炙られ続け身じろぎもせずに魂を焼かれる苦痛にただただ耐える者達の魂。
神々に肉体を捧げ炉に魂を捧げ人に精神を捧げ塵のようになってゆっくりと長い時間を掛けて消滅していく魂達、消滅しながらもその感情は喜びしかない。炎に焼かれながらその生が終わることを心から喜ぶ、彼らの生きた時間が一体どのようなものであったか。
炎の精霊との契約をしていなかったフィリア、自分の魂が行き着く先を思えばそういう気にもならなかったのだろうか?
炉の中に手を伸ばす。何やら邪魔してくる奴らがいるがしっしと追い払った。鬱陶しい奴らである。
伸ばした手に縋り付いてくる者達もいる。まぁ別に好きにすればいいのだ。大した重さじゃないし。出たければ勝手に掴め。
おりゃーと底に手をつけた所で、横合いからただならぬ視線を感じてそちらを向けば、一人の男。
エルマイヤ=エードラム=アーガレストア、霊獣と人間の血を継ぐ呪われた一族の男。私を認識しているのは霊獣の血のなせる技か?
色が抜けているらしい白い身体に赤い目、そして白っぽい獣の名残が身体のあちこちに残っている。着飾った身体を見るに教団でも重要な地位に居るのであろう。
眺めているうちにガリガリと頭を掻き毟って泡を吹いて痙攣し始めるに正気は失いつつあるようだが。
それにしても、それでもなおこちらに手を伸ばしてくるのは中々の根性だ。しかし残念。もうおめえの出番ねえから。フィリアの運命はフィリアが決める。
聖女の運命に抗い、地獄に身を落とさんと悪魔召喚の奥義に手を出し肉の欲に溺れ妖精王の里を訪れ、楽園の中に潜む悪神なる蛇の姿を求め続けたフィリアに聖女の資格はないと私がお墨付きをくれてくれるわ。
炉の方に視線を戻す。業火に炙られている真っ黒な人型の炭としか表現しようもなく造形など崩れ果て見る影もないが私が間違えるわけもない。
フィリアに差し出した手を精神と魂だけながらフィリアは虚ろな眼窩で確かに見ていた。だが、ゆらゆらと炎の中で揺れながらフィリアの魂は見つめているだけで動こうとはしない。
なんだ、何か不満だというのか。めんどくさい元聖女である。仕方がない。
「クルコの実入りグラタンでもやるからはやく来るのだ!」
更に手を突き出すと、物で釣ることに成功したらしくフィリアが炭化した腕をそっと伸ばしてくる。燃え盛る魂は見るからに熱そうで今のフィリアに触ったら火傷の一つもしそうだがこの炉の業火も私には関係ない話である。
紅の炎を纏った黒い人影、その目玉らしき白い空洞からぼたぼたと白いものが何やら落ちてくる。でっけぇそれをとめどなく落としながら、白く光る私の指先にフィリアの小さな黒い手が乗った。
ん、わかりにくいがもしや泣いているのか?
クルコの実入りグラタンで泣くとはそんなに嬉しかったのか。しょうがない、みかんジュースも付けてやる。だから泣くなよ。何をそんなに泣くのだ。
なんだかその姿を見ていると昔見たものが思い出された。
――――――そういえばあいつらも馬鹿みたいに泣いていたな。私には何をそんなに目から水を出すのかとしか思えないのだが。
短い命で笑っては泣き、運命に抗い心を繋ぎ生まれては死んでいく。眩しい光を目玉から零し続けるフィリアもまた同じなのだろう。
彼女もそうだった。人に憧れ、人を愛し、人を憎悪しながらも、人になる事を願い、その果てに人と添い遂げた。
その名を、同情、怨嗟、憧憬、自分でもよく分からないままに静かに口にする。
「レガノア」
意識が飛ぶ。光指すあの楽園へ。
突然に馬鹿で頭の悪いことを言い出した光の神。
私とは正反対の金の髪に褐色の肌、三つの目はそれぞれ光と天使と調和を表す色。
「わたしはひとになりたいのです」
何を馬鹿な事を。
「おおくのひとがわたしにいのり、ねがい、わたしのめのまえをはかなくうつろう。そのすがたがわたしはいとおしいのです。わたしはひとになりたい」
どうやら彼女は人間に毒されてしまったようだ。
人間などになってどうするというのだ。
人として生き、人として死にたい?
よくわからないな。
私がこの目で見る人間はとても少ない。
悪魔は多く居るが彼らは私の内側にこそ住まうもの、そう決められている。外側の私が触れることは叶わず見ることすらない。悪魔達が何を考え何を想い生きているかなど私の預かり知るところではない。好きにさせている。
例えば私が触れることが多いのは霊的に恵まれた種族。魔族や竜族などが殆どだ。それも未だ10にも満たない数であったが。
だが彼女はその役柄、その本質において自由を司る存在である人間を見る機会が多い。
その違いだろうか。
人間などどれも同じではないか。小さくか弱く愚かだ。目を凝らしても見分けすら付きはしない。
それとも彼女には違うのか?
「さいきん、ひとりのにんげんがわたしにねがうのです。わたしにあいたいと」
それは無理な注文だ。
どうしたって越えられない壁はあるのだ。
物質界を這いずり回る彼らは最も偉大なる者によって創造されたばかり。私達とは一線を画す存在。
幾つかの次元が創造され、そのうちの一つに私達は創造された。
この次元に新しく物質界が創造され、その箱庭で彼らは箱庭の法則に従い生まれた。
そして私達はそれぞれ物質界での役割を与えられる。
天国と地獄、それぞれの神域を作り、魂の持つエネルギーの方向性に従い流れてきた魂を洗い流し、無意識の海へと流す。
そしてレガノアは霊的な神殿にそれぞれ物質界とのチャンネルを持つ端末を設置し、普遍的に彼らの願いや祈りを聞き届け、魂の多くが同じ望みを持った時にのみ奇跡を起こす。
対する私はたった一つの閉じた端末しか持たず、霊的な能力を究極的に高め、その端末へ至る事が出来た者にのみ力を与える。
それが私達のルールである。
箱庭のルールに縛られながらも、彼らがその命を燃やし、生活を営む事で物質界は既に無限に近い広がりを見せており、私達にはもう及びも付かない物になりつつある。
彼らの意識下の創造に従い、上階層に彼らの意識集合体とも呼べる新たな神々が生まれた。
これからも彼らの魂の有り様と共にこの宇宙は多様化していくだろう。
霊質と物質と自我を備えた、私達とは違う魂と呼ばれる殻と肉体と呼ばれる器と精神と呼ばれる心を持つこの世で最も新しい生き物達。
霊質しか備えない私達に出来ることはこの宇宙に則った方法でのみ、彼らと一方通行で触れ合う事だけだ。
彼らの中でも人間とは可能性を突き詰めた生き物、それ故に、波長が合うのであれば彼女の声くらいは時折聞こえるかもしれないが。
「かれはまいにちいのっているのです。いつもいつもねがっているのです」
だからどうしたというのだ。
貴女も会いたいと?まさか。
「そうです。わたしもあいたいのです。かれのかんじょう、かれのこころにふれたい。
そうすればわたしの…この…よくわからない、しょうどうのしょうたいがわかるきがするのです」
…意味がわからない。
私には貴女の言葉の意味がわからないな。
レガノア。
私の言葉に目の前の彼女は光溢れる慈愛に満ちた眼差しで―――――春を待った花が鮮やかに咲き誇る、そう、まるで人間のような。美しい微笑を浮かべて――――。
「私達には無い、心というものを持つ彼らはとても生命力に満ち溢れていて、祈り、願い、自分が信じる未来の為に、万に一つの可能性にその命を懸ける。その姿はとても尊くて美しいの。いつか貴女にも分かるわ。アヴィス」
はたと我に返った。
何か思い出した気がしたがすっぽーんと頭から消えてしまった。ま、どうでもいいことだろう。大したことじゃあるまいて。
べしょべしょと泣くフィリアを眺める。
「やっぱりわかりゃしないな」
誰にともなく返事をしてから縋ってきた者達とフィリアをしっかと掴んで炉の中に立ち上がり、下を見下ろせば畜生の性を持った人間の男は喚き散らし暴れのたうち、狂気の目でこちらを見つめている。
まあいい、その顔覚えたぞ。
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