暗黒が棲まう暗黒

大気が重い。風が逆巻きて土が舞う。雨は止んだ。赤茶けた昏き空、広がる荒涼の大地、暗澹の如き蒼き光が乾いた土の裂け目より覗いている。

血の涙を流す巨大な顔が空に静止し地上を睥睨する。ぽつんと放置される職人の細やかな細工が施された椅子、常人の理解を拒むオブジェの数々。

あちこちに乱立する人が融解したが如き彫像が乾いた風に煽られ、甲高い笛の音にも似た音を立てる。

遥か遠くに蒼く明滅する恐ろしい程に巨大極まる建造物が見えた。押し潰してくるかのような空気に息が詰まりて、一歩も動けぬさまであった。

人の居る所とも思えぬ混沌と狂気と闇に彩られたる荒唐無稽なる世界に女は立っていた。

あまりにも呆気無い。

己の世界を奪われたのだ。抗う間すら有りはしなかった。

此処が如何なる世界か、女にはわからぬ。何も見えぬまま、恐怖だけがその身を焼いている。

追いついたものの、これ以上距離を詰めるは不可能であった。何らかの障害があるわけでもない。結界が張られているわけでもない。

指先が震えている。そう、恐ろしかったのだ。ただただ恐ろしかったのだ。あれに近寄るが、ただ恐ろしかった。

ゆっくりと振り返りたる幼子の顔は逆光で見えぬ。

その色違いの三眼だけがやけに輝いて見えるばかりなりて、女は悟る。


「---------、------」


何か意思疎通でも図ろうとしておるのか、言葉を掛けられるが理解は出来ぬ。

だが十分だった。今こそ、己の本当の願いが叶うのだとわかった。

言葉は理解出来ぬ。だが、目前に座すものがどのような事をこちらに告げようとしたのかはわかった。

ここにあったのだ。真の鬼は。真の邪悪は。

求め続けたるは人であろうが何であろうが、天地の狭間にあるあまねく命を等しく常世の闇へと引きずり込みたる、まことのおに。

混沌へと至る深淵が、今まさに口を開けてこちらを見ていた。

光に満たされた世界の神々が女に手を伸ばしてくれる事はない。

闇に属する者共が崇めたる魔の神、真白の世界で踏みつけられ押し潰されながらもその存在を祈り続けた救いが今、目の前に。

己は覗いているのだ、この世で最も深き闇を。この震えは最早恐怖だけではない。

感動しているとさえ言えた。自分がとうに狂っているのはわかっている。

人など及びもつかぬ、あまりに深き所に棲まうもの。世界の最果てに己は立っているのだ。


「深淵に棲まう闇、まつろわぬ神よ」


声が聞き届けられるとは思うておらぬ。だが、言わずにはおれなかった。


「私の名は壱与と申しまする」


神話にある呪物の依代とならんとて、女は選ばれた。


「貴女と出逢えた、この運命に感謝致します」


幼少の頃に女はその地に伝わる呪術を元に箱に詰められた。

獣と子供はその祟が恐ろしく深い。元来は相手を呪い殺すが為に生まれた邪法であった。

幼子の腹に人魚の肉と清めた水、櫛と女の髪の毛、これらを収めさせ箱の中で放置するのだ。

ただひたすらに。どのような声が上がろうとも箱は開けてはならぬ。

人々は無知であった。欠落も多い口伝をそのままに実行したのだ。

鬼をも祟る外法、その本質は幼子の祟りだともわからぬまま、そこに神の救いがあると信じていた。

その地に伝わるヴィオラ=スーへの祈りの言葉と歌の中、未だ幼かった筈の女は悲鳴を上げながら箱に閉じ込められた。

人間の狂気と言ってよかった。

更なる不幸は箱に入れられる前に口に押し込まれた人魚の肉が本物であったことであろう。

代替品として獣の肉が使われるが常である呪術ではあったが人々はそのような事は知らなかった。

血眼となって探しだした古き人魚を打ち据え、肉を削ぎ落とし、動かぬ人魚の身体が再生し、人に牙をむく前に海に投げ入れた。

呪いと祟は更に巨大に膨れ上がる。

巫として祭り上げられた女の拒絶も神を讃える声に打ち消されて響かぬまま。

箱はそのまま当時人々が鬼ヶ島と畏れていた島へと打ち捨てられた。

空虚の島であった。大陸より流された罪人が餓鬼の如き様相で住まうばかりの島であったのだ。

鬼など初めからどこにも居なかった。

女は箱の中で耐えた。

最初の十年はだた叫び続けた。

次の十年は壁を引き掻き続けた。

その次の十年は泣き続けた。

その後はもう何もしなかった。

そのうちに即身仏となる道を選んだ神女、八百比丘尼などと呼ばわれたるが。

その胸中に神への祈りなど、最早微塵も残ってはいなかった。

実に八百年。暗闇の中で女は己の役目に気付く。

鬼を封ずるのだ。その為に産まれてきた。

この島に鬼は居なかった。居るのはただの罪人達。

幽鬼の如き姿と獣の如き様相にて鬼と恐れられた只の人間であった。鬼ではない。では封ずるべき鬼は何処に居るのか。

真に現し世より消え去るべき、澱となりてその重みで世界を中心へと沈め続ける漂う者共、その居場所を女は知っている。

この身は神羅大封印、これを以って醜き人の子らを永遠なる闇へと封ずらんと欲す。

躊躇など在ろうはずもない。女は神に乞うた。


「私の願いを、祈りを、どうぞ、どうぞ」


あと一歩、あと一歩で完成する筈であったのだ。役目が果たせる筈だったのだ。

祟も魂も呪いも充分だった。賽の河原にて幼子は八百年もの間うず高く積み上げたのだ。

その果てに己の望みが叶うと信じてこの島で鬼として伝承にある通りの行いを繰り返し続けた。

いつであったろう、それに気付いたのは。見えぬふりをしたままにただ生きていた。

本当は何処かで分かっていた。このままでは永遠に願いが叶わぬ事を。

光に照らされたこの世界。深淵も混沌も穢れも光に炙られその残滓すらもう残っていない。

創生の神が手にしていたという絵巻物語、求めても求めても届かない。

穢れを祓い世界を照らす光輝く封印器、人の手によって闇へと捧げられた女はその抱えたる昏き業故にその一線を超えられぬ。

闇に属する己を神はもう救ってはくれぬ。この昏き場所から救われる術はどこにない。願いはどこにも届かない。

恨みと呪いに焼かれて闇に堕ちた魂が行き着ける先はない。魂の墓場、それがこの世界であった。

だが、それを受け入れてしまえばもう耐えられぬのだ。一秒だとて立ってはおれなかった。

もうこれしかない。これしか。他には何もない。

封ずるべき鬼も居なかった。あの村人達もとうに死に絶えた。神の工芸品アーティファクトにもなりきれぬ。

だというのに、己の苦痛は終わらない。己は今もあの箱の中に居る。

遊戯に興じ続けながらも、その生の終わりを願い続けたる日々。いっそ消滅させてくれとさえ願う。

果たせずに消滅するならばその先を何も見ないで済む。

この呪われた生の果てに自らの祈りを叶え、天命に準ずる日も何れ訪れたかも知れぬ。それを信じながら消え去るならばこれほど楽な事はない。

誰か己を救ってくれと叫び続けた声は誰に届くこともなく闇に反響し消え失せるばかり。

光も何も見えぬ箱の中で絶望を味わいながらも得た答え。

自分が果たすべき役目を知った。生まれた意味に気付いた。それを成す事も出来ずに誰に知られることもなく消え去るならば何の為に生きているのか。

静かなる闇の世界で。

そのか細い糸は唐突に垂らされたのだ。絶望の日々の終わり、女は自分の生が確かな形となって報われるのを確かに感じた。

魔へと堕とされた人間の全てを懸けた抗いと祈り、それを聞き届けてくれる者などどこにも居ないものと思っていた。

己の魂が抱え込みたるカルマを対価としてこの身を彼の工芸品へと変ずるが己の望みなりて、目の前の無明の闇がそれを叶えてくれることを女はもう知っている。

混沌の神へと謁見を果たしたる最も新しき魔王、その願いは叶えられた。






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