魔王位:悪魔と踊る娼婦
曇天からは間断なく雨が降り注いでいる。
遠くから聞こえてくる雷鳴。
けぶる雨霧とぬかるんだ地面。
徘徊する鬼。
絵巻物の世界を四人で走り抜ける。
「ああ、もう!
さっきよりも距離が開いているではありませんの!」
「私に言うなーい!」
叫んでから思ったがきび団子を出したのは私なので犯人は私か。黙っとこう。
しかし先ほどとは違って天使が混ざっていないので幾分か楽ではある。
メロウダリアがめんどくさそうな顔でちょっとしか働かなくなっているがこれなら何とかなりそうだ。
走り続ける墨絵の道の先に見えるのはクルシュナの家。
墨絵が垣根を堺に途切れている。
物質界で見た通りの家だ。確かに領域とやらが分断されているらしい。
「とう!」
垣根を飛び越え畑へと飛び込む。
クルシュナが言っていた通り、確かに鬼が居ない。ここを拠点にするしかあるまい。
走り寄ってドアにしがみつく。
「待て。知らない奴の臭いがする」
「え?」
静止の声よりも先にドアは開いていた。
もっと早く言え。
何があると言うのだ。開いたドアがぎぃ、と軋み音を上げた。
その先、部屋の奥。
全力でドアを閉めた。
「何さ今の」
「オスとメスの番じゃないのか」
「え、いや……そうは、見えなかったけども」
あんまりすぎる爛れた光景に目をこする。きちゃねぇものを見てしまった。
フィリアが嫌なものを見てしまったとばかりに顔をしかめている。さすがのフィリアも嫌だったようである。
まぁそりゃそうだ。どうしたものか……。
アホが大きく頷く。
「幼児性愛の青年と幼気な幼女であったな!」
「言うなよ……」
誰しも口にしなかった事を。
明らかにアレだったし普通であれば助ける為に飛び込むべきなのだろうが……突撃するのは躊躇われる。
何せ、あれだ。口にはしたくない。終わるまで待とう。
よいせとドアの横に全員で座り込んだ瞬間、ドアが内側から蹴破られた。
「…………お?」
唖然として彼方へ吹き飛んだドアを眺める。原型を留めぬ程にひしゃげている。
ドアがあった場所からはにょっきりと小さな足が生えている。
向こうでプスプスと煙を上げるドア。この幼い足からその威力がもたらされたとはとても思えない。
プルプルとしながらそろーっと顔をあげる。
そこに立っていたのは先ほど見た小さな女の子である。肌色率の高すぎる服はどことなくフィリアの仲間である。
しかもただでさえ肌色率が高いのに今はほぼ肌蹴ているので用を成していない。裸マントな私が言えたことではない気もするが。
というかもうちょっと身体を整えてから出てきていただきたい。あちこちねちゃねちゃで非常に嫌だ。
紫がかった青色の髪の毛がゆるふわウェーブって奴だな。金色の目がぱちりとこちらを見た。
なんとなくだがマリーさんやウルトに似ている気がするな。
というか色合い的にマリーさんと悪霊カミナギリヤさんと三人並べたら百合の花咲き誇る麗しのロリ系アイドルグループとしてメジャーデビュー出来そうだ。
「なんじゃ。先ほどの小娘ではないか」
「む?」
さっき?
会った覚えはないのだが。
「先ほどこの家に来たであろうが。余のアケミをもいで食っておったじゃろ」
「むむ!」
アケミ、畑に生っていたアレだろう。誰も見ていないと思ったのだが。バレている。何故だ。
「次元がズレておったからな。
そちからは姿が見えなんだか。余らにはしっかり見えていたぞ。
窯を覗いて井戸の水をがぶ飲みし、アケミを食い散らかして家の中を漁っていたじゃろう」
「むむむむ!!」
「卑しいですわね……」
「いーけないんだーいけないんだー!!
先生に言っちゃおーう!」
いかん、私の株が大急落である。
「俺の家に勝手に住み着いている奴らに言われたくない」
「そ、そうだ!!」
それだ。そこを突くべき。矛先を逸らさねば。
が、クルシュナの言葉に目の前に立つ人物ははっと鼻をならして顔を僅かに上に逸らした。
絶妙な角度と表情。なんという堂に入った見下しポーズであろうか。
お子様の耳に入れるにはとても相応しくない事を喚きながら足元に縋りつく裸の男の人を踏みにじるのは見ないふりである。
「控えろ下郎。余を誰と心得る。
名はクロウディア、性はノーブルフラーム。
天と地の狭間に在りて星を詠みて森羅万象を紐解く星の智慧派の10=1の魔導師にして、この世全ての真理を求め続ける本物の錬金術士じゃぞ。
本来であればそちの如き下郎が口を利けるものではないわ。
家は中々住込心地が良かったので許してやる」
「ほーん」
「何じゃ、小娘。その気のない返事は。
傅いて頭を垂れるのが道理であろうが」
「えー……」
めんどうな人だなぁ。そもそもそんな偉そうな肩書の人がなんでこんなとこに。
後ろを振り返る。
フィリアが唖然としていた。
「どうしたのさ」
「…………」
唖然としたまま返事はない。変な聖女である。
じーっとこちらを見詰めるクロウディアさんはふと顔を顰めた。
「……貴様、何じゃその体たらくは」
アホだった。アホと知り合いらしい。
「はて、わたくし、貴女のような前歯に覚えはありませんが、何でしょう。奥歯の少女よ」
「誰がどこぞの歯じゃ。前歯か奥歯かはっきりせんか気持ちが悪い。白黒はっきりせぬ事象がいっとう気持ちが悪いわ。
……完全に壊れておるな。何ぞあったか知らんが、余を此処に封じた時分の面影が微塵も残っとらん。
次に出逢うことがあれば必ずや首を生きたホルマリン漬けにしてくれようかと思っておったのじゃが……」
「へぇー」
アホに封じられるとか残念な娘さんのようだ。
足元の男の人を眺める。ぺろぺろと足を舐めている。
つんと枝で突いてみた。芋虫のように悶えた。ん、ちょっとおもしろいな。
つんつん。
「これは気にするでないわ。
ただの余の奴隷よ」
「そのようですな」
見ればわかる。しかも奴隷の上に肉とつくだろう。ふむ、不死者……魔族か。
あちこち傷だらけだし、真っ赤な首輪ががっつり付けられている。
そういう趣味なのだろう。
つんつん。
「小娘、このクズにあまり近寄ってはいかぬぞ。
このクズは余が物心も付かぬ時分から余の股に顔を突っ込んでおった真性のドクズじゃぞ」
「あ、それは近寄らないデス、ハイ」
さっと離れる。それは完全にクズである。
ちらっと見た。目があった。
「こっちみんな!!」
鼻息荒いクズさんから隠れた。
ブルルッ!ウルトの方がましである。
「……どこを、見ておるのじゃ?
このクズ!余よりもこの小娘の方が良いと申すかこのクズが!!」
ん?
クロウディアさんが何やらデレた。
「……ツンデレ?」
「なっ……!なにをいいやる!たわけた事を抜かすでないわぁ!!
余がこのクズに不埒な感情でも抱いているとでも申すつもりか!?」
「え、いや、別に」
そのクズさんとは言及していないが。
言わないでおこう。
「……っ!クズ!!何をしておるか!余の足が汚れておるじゃろうが!
さっさとその舌で清めんか!何を惚けておるのじゃ!
余に触れさせて欲しいと鼻水と涎と涙を流しながら這いつくばって懇願してきたのはそちであろう!
それを許しておるのじゃ!相応に奉仕せぬか!!クズ!外道が!
何故、そちと二人でこの異界に閉じ込められねばならんのじゃ!最悪じゃ、余の人生においてもっとも最低最悪じゃあ!!
最悪のクズが、死ね!」
「ブヒッ……!ヒィ、ヒィ……!」
ひでぇ。顔面蹴られまくったクズさんは鼻血を吹き散らかしながら必死に足を舐めている。
何てアブノーマルな二人だ。世の中は広いな。
クルシュナがため息を付きながら呟いた。
「もういいか?」
「あ、はい」
クルシュナに場を収められるという人として有るまじき事になってしまった。
アホは踊りだしてるし。
しかし、フィリアはいつまで固まっているのだ。
「フィーリアー。しっかりしろー」
「…………はっ!?」
漸く正気に返ったらしい。
「大丈夫かー。この指は何本だ!」
ばっと指を三本立てた。
「え?十四本?」
駄目だこりゃ。
しかし、クロウディアさんは面白そーなお顔でフィリアを眺めている。
「ぬ、お主の魔力の流れには見覚えがあるぞ。
クロウディア王国の者じゃろう?どうじゃ?
シルフェストの小僧に余が契約のもとにくれてやったあの国よ。
余との契約を果たさなくなってから随分と時が流れた。
あそこの王族はそろそろ限界じゃろ?」
「…………そう、ですわね。魔力も霊力も失い、子も残せず、王族の血はとうに途絶えていますわ。
……今、あの国を収めているのはアーガレストア家ですの」
「アーガレストアか。あの家の男児は呪われておるじゃろ。
ケダモノよ。畜生じゃ。始祖が霊獣とまぐわい子を成したのが始まりの一族じゃからのー?
霊獣とは言え、畜生は畜生。畜生とまぐわった業は何代血を重ねたとて洗い流せぬわ」
「否定はしませんわ。私はアーガレストアの分家のノーブルガードですけれど。
アーガレストア家に引き取られてからというもの碌な事がありませんわ!」
「ふん!
ノーブルガードか。余もようく覚えておるぞ。シルフェストの隣におった陰気な男。
そしてその足元で鎖に繋がれて地を這いつくばるノーブルガーディアンと呼ばれておった娘共をな。
高貴なる者の守護者とはものは言いようじゃのォ。己の意思でそうなった者など一人もおらんかったじゃろうて。
アーガレストアの獣の血を慰める為の生贄、神の炉に投げ込む為の松明、魂を奪われ傀儡の術を掛けられ、望むと望まざるに関わらず奴らのいい様に使われる。
白の子供達、じゃったかのう。お主もまぁ、その人間にしては異常な霊力もおおかた非人道的な手段で身につけさせられたんじゃろうが。
霊力だけならば……魂の混成の秘術じゃろ。余が教えた禁術をよくもホイホイ使うもんじゃ」
「…………お詳しいですのね。
当然、なのでしょうけど」
「あったりまえじゃろが。
余を誰と心得る。そちの故国を作り上げた存在じゃぞ。
クロウディア=ノーブルフラーム。
悪魔と踊る娼婦、魔王が一柱よ」
「ま、魔王……!?」
まさかの告白に呆然と呟く。
目の前に立つ魔王さんはぐぐっと胸を自慢気に逸らした。
ねぇけど。
「そうじゃ。ほれ、崇め奉らんか」
「…………」
「何をぼけーっとしとるんじゃ」
一拍置いて力いっぱい叫んだ。
「…………駄目だ!!」
「な、なんじゃとう!?」
両手を振り回して地団駄を踏んだ。
「マリーさんとキャラが被っている!
許さーん!」
「マリー!?マリーベルか!?
あの戦闘狂のボインボインのババアと余のキャラが被っていると申すか!!
余のどこが被っているのじゃ!とんちきな事を申すでないわ!!
このトンチキ娘が!」
「全部だ!!」
「何じゃと!?
……ええい、鬱陶しいわァ!!
その汚らしい舌を余の足に這いずらせるのをやめんか!!」
どげん、蹴り飛ばされた男は吹っ飛んでいった。
飛んでいった先にあった壺が割れて中身が散乱する。
人骨だった。
クルシュナがボソリと俺のカルシウムと呟いた。
それはまあいい。
「許さん!
今直ぐキャラの方向性を改めるべき!
アイドルグループメンバーのキャラが被るなんて許されないのだ!」
「あいどるぐるーぷ!?何じゃそれは!?
トンチキ娘め、訳のわからぬ事を……!」
「断じて許さーん!!」
くわっと叫ぶ。
ビシッと指をさす。
「お前のイメージカラーはクールな青なのだ!
カミナギリヤさんがピンクでマリーさんは紫なのだ!
緑が足りないので緑成分を要求する!!
目指せ世界一のアイドル!」
「意味がわからぬわ!!変な薬でもキマっておるのかえ!?」
「む」
否定は出来ない話だ。
流石にもうきび団子は残っていないと思うが自信はない。
頭をブンブンと振って取り敢えず思考を振り出しに戻しておいた。
「なんだっけ?」
戻しすぎた。
何を考えていたのかさっぱり綺麗に忘れてしまった。
脱力したようなクロウディアさんが疲れたように手を振る。
「疲れる娘じゃの。もう良いわ。
問題はこのような些末事ではないからの。
して、おんしら、余と協力しようではないか。
この世界に囚わるはぬしらも望むところではあるまいて。
どうじゃ?」
「え?そうなの?」
意外と楽しいのではなかろうか。
「ふははははは!よかろうよかろう!なぁに、少しだけ宇宙が小さくなるだけだ!!」
高笑いする変態が踊り狂った。
こいつはどこでも楽しそうだな。
「腹減った。肉」
クルシュナは肉があればいいようだ。
ふむ、協力する意味あるのかこれ。
「その三人は気にしないでくださいまし。頭の中にお花畑が咲き誇っておりますの。
それで、出られる算段がございますの?」
「……まともに話が通ずるはおんしだけかえ?
苦労するのう……」
うむ!
フィリアに全てを任せるか。
幸せそーなツラで完全に寝入っている襟巻き蛇を巻き直しててってけと部屋の中を散策である。
むにゃむにゃと何やらぬしさまのくびだの何だのと寝言が聞こえてくる。よくわからんが幸せそうで何よりである。
もう地獄に投げ込むかコイツ。役に立ちそうもない。
まあいい。ガサゴソと壺の中を漁くり、掘り出したるは干し肉。
悪魔の食欲に負けて脊髄反射であわや口に入れるというところで何とか踏みとどまる。
この家にある肉を食ってはいかんのだ。何の肉かなどわかりきっている。
ぺっと壺の中に投げておいた。
「この異界の主よ。そやつを誅滅するか、説得するか。
何れにせよ、彼奴をどうにかせねば余らはここを出られぬ。
その居場所を余は知っている。協力するに悪い話ではあるまいて?」
「……何故、居場所を知っておきながら放置しておりましたの?
魔王クロウディアともあろうお方が。
この異界の主がどれほどのものかは存じませんけれど、脱出する程度であればなんとでもなったのではございませんの?」
「おうおう、過分にあまる過大評価じゃの。
さしもの余も魔力が枯渇した状態では打てる手も少ないわ。
この異界の主にも何度も接触を試みたがのう。
ルールがあるようなのじゃ。即ち、五人以上であること。
こればかりは余とそこのクズ奴隷だけではどうにもならぬ故の」
次の巨大な壺を漁る。
ガサゴソ。む、一番底に何かが入っているのはわかるのだが。
微妙に手がとどかない。
このっ!
このっ!!
てしてしと暗黒神ちゃんパンチを繰り出すが、届きそうで届かない。
むむむ!
こうなれば意地である。なんとしてもこの手の中に収めてくれるわ。
「おりゃー!!……あぁぁぁあ」
中に真っ逆さまに落ちてしまった。
犬神家のなんちゃら状態である。
壺から辛うじて出ている足をバタつかせるが脱出は叶いそうもない。
しかも底にあったブツは何やらにちゃにちゃしている。くせぇ。完全に腐敗した何かだ。最悪だ。
「人数制限……何か理由があるのか……。
条件は満たしているとはいえ、無闇に突っ込むのは得策ではありませんわね。
クロウディア様は何かご存知ですの?」
「うむ、余は会うた事もないでの。何とも言えぬが。
じゃが……こういった異界でこのようなルールを設けておるヤツというのはの。
大概同じよ。暇で暇でしょうがないのよ。
命に飽いて死に飽いて享楽に飽いて何もかもに飽いておるのよ。
故に、娯楽に飢えておるのよ。いきなり殺されるなどと言うことはまず無かろ。
制限が人数なれば、持ちかけられるは恐らくはゲームじゃろ。どのような物かは知らんがの。享楽の限りを尽くした余がおるのじゃ。どうとでもなろ。
この異界の主は全てに飽いておる、それ故にこちらが勝てばあっさり解放されるじゃろうて」
「なるほど……。
ゲームならば、それならば確かにどうとでもなりますわ。
クロウディア様がいらっしゃり、こちらにもお花畑とは言えかなりの強さの二人に加えてこの手のゲームとなれば負ける事が想像すら出来ないクーヤさんがおりますもの」
「ほう、あの小娘か。
中々面白い評じゃの」
「全てがデタラメですもの」
もががが!!
ゴトンゴトンと壺を揺らすが倒れもしなければ抜けることも出来ない。
ヘルプミー!
叫ぶと壺の中で音が反響してぐわんぐわんとした。
ぐぬぬ、おのれ。
足で壺を踏みつけて上体を起こそうとするが、イカ腹あたりがうまい事ハマり込んだらしく一向に取れやしない。
「ノーン!」
ぐぐぐぐと力む。
もう少し、もう少しで抜けそうだ。
頑張れ私!どこかで私を応援する声も聞こえてきた。どう考えても幻聴だ。ヤバイ。
私という蓋が出来たことで酸素という名の有効成分が急激に失われていく。
あるのかどうなのかも分からないが頭に血が登ってきた。ついでに鼻を劈く腐臭が一番の攻撃力だ。
こりゃヤバイ。
この腐臭の中でメロウダリアは完全に熟睡を決めている。役に立たねぇ。あとで地獄に突っ返してやる。
仕方がない、この次の踏ん張りに全てを賭けるしかあるまい。
「居場所はここから遠いんですの?」
「そうでもないぞ。時空が歪んでおるが、彼奴の居場所だけはいつも変わらぬ。
この島の中心部辺りじゃ。ここより南西に一刻程歩いた先にある」
「一刻……距離にすればそうでもありませんけれど。
こちらをつけ狙う者を思えば危ない橋ですわね」
「誰ぞ」
「神龍種の青。
一度は撤退しましたけれど、すぐに戻ってくるでしょう」
「……ウルトディアスかえ?」
「あのペドの破壊竜様ならばどうにでもなりましたわ。
龍の方です」
「汝、会うた事がありや?」
「ええ。
ああいうのを残念と言いますのね」
「まっこと、違いなきこと同意せざるを得ずよ。
龍の方か。厄介じゃな」
「かなり」
「何をした?
龍が下界に降りて人を追うなど早々あるものではないぞ」
「追われているのは私ではなく、クーヤさんですわ」
「ふむ」
行くぞ、ミニマムあんよで壺を力いっぱい踏みしめ、一つ息を吐いて死を覚悟して肺一杯に空気を取り込む。
くせぇ!!むせた。
むせた勢いで唾液が気管に入った。しぬ!
ゴットンゴットンと壺が回る。
この上更に乗り物酔いしてきた。
ぐらぐらと危ういバランスで倒立していた壺はやがて重力に敗北し、ぐらーっと傾ぎ始める。
「ギャーーーーーーーッ!!」
転がった。
頭から腐敗した液体を被った。
ビビりにビビったネコの如く。全身の毛を逆立てて転がった壺から脱出し部屋を走り回る。
くせぇ!!ぐるぐるする!!しぬーっ!!
走り回っているうちにその辺の壺に蹴っつまずいた。
蹴った壺は地面に置かれていた別の壺にぶつかって双方相打ち、中身を散乱させながら露と散った。
ついでに私も露と散った。
どってーんとひっくり返って顔面から壺郡に突っ込んだのである。
「ギエーーーーーッ!!」
「クーヤさん!
少しは謹んでくださいまし!!」
バッチャーンと精霊さんを召喚したフィリアに水を掛けられた。
濡れネズミである。
プンスコ!
腹立ちまぎれに未だスヤスヤとオネムな襟巻き蛇を毟りとってその辺に放り投げた。
「話は済んだかえ?
では、行くとしようぞ。時間は待ってはくれぬ。
その龍が来る前に片を付けて脱出する。脱出さえ出来れば穢れを吸い込みやすい龍などどうにでもなるわ。
血でも頭から被せてしまえば良い。アレ程御しやすい生き物もないわ」
一歩を踏み出す。
「ふむ、準備はええかえ?」
「おー」
「時間が惜しいならその二人は俺とそいつで抱える。
遅い」
「ふっはははは!まかせるがいい!女性と椎茸はソフトに扱うべきだからな!」
「仕方がありませんわ……」
「むぎー……。……その人は?」
ナチュラルにスルーされているお肉な奴隷さんを指差す。クロウディアさんにさんざっぱら蹴られてうれしそーに昇天する人を。
「ほっとけばいいのじゃ」
「……え?いいんですか?」
流石にまずいのでは。
クロウディアさんはふんと鼻を鳴らすとひらひらと手を振った。
「ほっとけ。其奴は余が呪うておる故の、身体はただの器にすぎん。
どうしても気になるというのならば―――――」
言うが早いか、その小さな手が眩いばかりの光を放った。
「これでよかろ」
「うぇ?」
手に握られているは小さな結晶。どこか魔水晶に似ている光だ。
「ほれ」
どげんと再び男の人を蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされた男の人はそのまま塵になった。
「ギャーーーーーーーーッ!!」
「器と言うたじゃろが。魂はコレよ」
「お、おお?」
「……魂の結晶化ですの?」
「そうじゃ。コレが其奴の魂、余が呪うておる故、結晶化したまま余から解放されることはない。
ふん、いい気味じゃ」
かるーい調子ではあるが。
ギリギリと結晶化した魂を握りこむ手にはいっそ砕けろと言わんばかりに力が込められているのであろう事が見て取れる。
その目に深淵を思わせる憤怒と憎悪の炎がちらついているのがわかった。
そんなクロウディアさんにフィリアが目を合わせることもなく髪の毛をいじりながら呟くように言葉を重ねた。
「クロウディア様に私のような小娘がこのような事を申し上げるのも何ですけれど。
復讐など何も生みませんわよ?」
「ふん、言いやるわ。余を誤魔化せると思うてか。
貴様と余は同類よ。貴様の目には覚えがある。嘗ての余よ。
ノーブルガードの小娘共はどやつも死んで腐った眼をしておってからに、余はアレらが嫌いであったがの。
主は好きじゃ。色欲に濁って腐った眼の奥に燻る炎が見えよるわ。
万の呪いを吐き散らしながら世界を飲み込まんと欲する蛇の眼よ。全て燃えて落ちろと願っておる眼じゃ。
何よりも生きる事を願う焔の眼よ。アーガレストアかえ?
その肉体、本物ではないな。魂の煌きも感じぬ。人の尊厳を踏みにじられ、地に這い蹲って汚泥を啜り許しを乞いながら主は何を願う?
余は願ったぞ。心の底からのう。彼の無明の闇は余の声に応えてくれた。故に今の余がある。
聖職者共は口を揃えて抜かしやる。魂の救済と神の名の下に五つに満たぬ魔族の娘を寄って集って慰み者にして嬲り殺しにしながら吐きやる。
神の試練などと。復讐は何も生まぬなどと。ふん、主は微塵も思うておるまい。
余に向こうてそのような妄言を吐きやる輩はその尽くを塵に変えてやったわ。もろともに命の終わりに吐きやるは復讐と怨嗟の声よ。
馬鹿馬鹿しいものじゃ。塵に変えられる寸前で漸く気付くとはのう。
己の命の終わりに抱く憎悪も憤怒もただひとつの渇望から生じるのじゃ。
何も生まぬなどと冗談事では無いわ。炎で焼き焦がすは生きる事よ。ただただ生きる事よ。己の命と魂と肉体を取り戻してただ生きたいというこの世で最も正しき狂おしい渇望。それ以外に何が在りや?
こやつに、地下室で穴を増やされながら乗馬鞭で打ち据えられ続けた余が生きておるはその願い故よ。
こやつが苦しんで苦しんで余に無様に縋り付いて咽び泣く姿に哀れみだとか悲しみだとか、そのようなもの微塵も感じぬわ。それはもう、胸がすくのう。
余の足を舐めずって泣いて懇願して地を這いながら何も出来ずに余に尽くす姿ときたら、幼き余を甚振ってゲラゲラと大笑いして嘲笑っておったなどと想像も出来ぬであろ?
余の手の中で言い様に転がり続ける無様で救いようのないこのクズのこの姿が、何よりも余を救ってくれるのよ」
「…………そうですの。それならば私に申し上げる事は何もありませんわ。
……私は別に、そのような事はありませんけれど」
「ふん。ではそのまま汚濁に塗れて死ぬがよいわ。
その濁った眼のまま亡霊の如く消え去るならば、それもよかろ」
「そうですわね。クーヤさん、行きますわよ。
時間がありませんわ」
「あ、終わった?」
三人で壷製作所で芸術に励んでいた顔を上げた。
うむ、私のが一番輝いている。
史上稀に見る美しき拉げ方、呪われそうなぐにゃぐにゃとした模様と何に使うかもわからん感じの前衛的形状、なかなかのあーとだ。
あーととはこうでなくては。常人には理解出来ぬものなのだ。
全く、話が長い。この私に三行以上の言葉は耳に入らないのだ。とくと知れい!
「……………」
「……………」
「何さ」
「何でもありませんわ」
「疲れる娘じゃの」
何でもないと言う割には滅茶苦茶残念なものを見る顔でこちらを見ているが。
何だ、別に何もしてないぞ。多分。
「行くぞ」
クルシュナにぎゅむと襟首掴まれた。
最近思うのだが悪魔共は私の襟首に何か恨みでもあるのか。執着しすぎだろ。
そのジャストポイントを摘み上げられると両手両足丸めざるをえないのでやめていただきたい。
悪魔と思い浮かべてそういやと思い出した
床を見る。元襟巻き蛇が投げられた体勢のまましくしくと泣いていた。
「酷いでありんす、酷いでありんす」
よよよと泣く蛇は実に悲しげにしている。
知ったこっちゃねぇ。
全く役に立たなかった。ルイスにしときゃよかったってなもんである。
あるいはあの新しい二匹か。メロウダリアと来たら最初にちょんと働いただけであとは寝こけていただけじゃねーか。
地獄にポイされないだけマシであろう。全く。
「主様の首が罪深いのでありんす」
「何でさ」
「悪魔をも堕落させるおっとろしき罪深さでございまする」
「意味わかんねぇ」
変な蛇である。悪魔だから変なのはわかってたが飛び抜けて変な蛇である。
私のむちむちな首の何処が不満だ。全く。
襟首掴まれてブラブラとしながら動こうとしないその蛇を指さした。
「クルシュナ、回収するのだ!」
「めんどう」
うむ、それなら仕方がないな。
「だとよ」
「酷いでありんす……。その獣などより主様の愛らしーいお手手で拾い上げて欲しいでありんす」
「めんどい」
なので仕方がない。
フィリアにでも回収させるか。声を掛けようとして気付いた。
「………………………」
目を瞬かせてじっと凝視している。
凍りついていると言っていいな。どうしたのであろうか。
「クロウディアさん、どうしたんですか?」
「………………………」
凝視する先にはもだもだと駄々を捏ねる蛇が鎮座している。
閃いた。ぽむ、と手を打った。
バタバタと暴れて襟首掴む手から逃れ、床の蛇をひっつかんだ。
「あふん」
変な声を出して捻くれて固まった蛇をぐいとクロウディアさんに突き出す。
「……………………な、なんじゃ?」
「あげるー」
「な、何?」
「蛇が好きなんですよね?
あげます」
「好きというわけでは…、いや、そのような事ではなくてじゃな……」
「遠慮するなー!!」
叫んでクロウディアさんの首の巻き付けて襟巻きとした。
「主様、酷いでありんす!」
「うるさーい!」
生意気にも猛抗議してきた。
役に立たなかった癖に何を言うのだ。
「…………お主、いや、まさかのう……アレが人の姿をとるとも……しかし……」
「ほ、ほ、芥虫ながら嘗て魔王に昇り詰めた芥虫の中の芥虫ともあろう虫が、常識に囚われるとはほんに愚かな事。
一度きりとはいえ、お逢いになられたならばこの世界の深淵と混沌をほんの片鱗でも見たでござんしょ。虫如きに理解出来る事など、この宇宙の塵に同じ。それをその目で見たでござんしょ。
主様はここにおられる」
「………………」
なんだかまた小難しい話が始まりそうな悪寒。
頭がスパークするのでやめて欲しい。きりきり動くべし。
ドアを開け放って叫んだ。
「よし、行くぞ―!」
イノシシの如く突撃しようとした瞬間、がっしと襟首掴まれた。
「うぎーっ!!」
暴れた。
「行くぞ」
「よかろうよかろう!この三勇者が一人、アレクサンドライト=ガルディッシュが鬼の首を取ったように叫ぶ!
いざいざいざ、いざ尋常に勝負!!」
「そうですわね。さぁ、こんな世界とはおさらばですわ!
素敵な殿方もおりませんもの!」
「ほ、それでは参りましょ。
鬼の姫、その身体は如何なる味か。ぺろりと飲み込んでとっくと味わってみたいでありんす」
「…………うむ、余が先陣を切る。そうか、そうじゃな。
このような感情は久しぶりじゃ。ウルトディアスもこのような感情を抱いたのかのう。会うてから聞いてみるとしようぞ。
そうとも、この宇宙と魂は巨大にして深淵、何処までも深く、何処までも果てはなく。森羅万象、その全ては常にこの身のすぐ傍に在る。肉体は可変にして精神は自由。魂に限界は無く、神は全てを許してくれる。
久しく忘れておったわ。魔王ともあろう者が情けなや。では参ろうぞ」
クロウディアさんが翳した手から光が溢れる。
それはクロウディアさんの身体に巻きつき、その身を包む漆黒のドレスとなった。良かった。目のやり場に困るので。
しかし、うーむ、ぜひともマリーさんと並んでいただきたいものだ。イイ感じだ。
雨は止まない。
クロウディアさんは心底愉快で堪らぬと言わんばかりの笑顔でぬかるんだ土にその靴を付けた。
その身体が蜃気楼のように揺らめく。
その身体を濡らす筈の雨が蒸発して掻き消える。
これは……。
「ああ、堪らぬものじゃなァ!!
さぁさ、余と遊びや!余はクロウディア=ノーブルフラーム、余と火遊びをしようぞ!!」
小さな身体から吹き上がった業火。
周囲にはわらわらと鬼が湧いて来ている。
「爆ぜよ」
一際巨大な鬼の身体が不格好に膨らむ。
次の瞬間、大地を震わせる重い音と共にその鬼から閃光が膨れ上がった。
まるでその鬼が爆発物かなにかだったんじゃないかと思わせるような冗談のような光景だった。
小さな炎の塊を周囲にばら撒き、続いてずどんと爆炎を吹き上げて周囲を赤く染め上げて舐め焦がす。
赤い空気の中に響く幼い少女の哄笑、地獄さながらの光景だ。岩をも融解させる炎は大地に燻り、炎混じりの黒煙と白い火の礫を上げ続けている。
尋常ならざる炎だ。こちらに被害が来ないあたり、忘れ去られて居ないらしい。よかった、本当に良かった。
あの業火の中に何の防御も無く居たらとか考えるだけで寒気がする。
魔王怖い、超怖い。
マリーさんと並んで欲しいなんてもう言わねぇ。むしろ居て欲しくない。
この炎にマリーさんの雷がドッキングとか想像もしたくねぇ。
「ふん、この辺りに雑魚はもうおらんじゃろ。
では参ろうぞ」
カクカクとフィリアと二人で青い顔で頷いた。
小規模な爆発を繰り返す火球にクルシュナとアホは歓声を上げて喜んでいる。
逆にすげぇ。なんであの光景を前にはしゃげるんだ。頭のネジが取れている奴らはわかんねぇ。
雨をも蒸発させる朱き空気の中を、恐る恐ると私達は歩き出したのだった。
どれほど歩いたか。
爆炎を吹き上げて崩れていく巨体を見ながらクロウディアさんに話しかけてみた。
いや、やることが無いのだ。文字通りのついてくだけ状態である。
ここは一つ、この暗黒神ことトゥインクルクーヤちゃんが一肌脱いで宇宙人と異星人混じりのメンバーの親睦を深めるべく、コミュニケーションに励むべきであろう。
「クロウディアさんってウルトやマリーさんと仲良しなんですか?」
「小娘、そのようなわけがなかろう。
敵じゃ敵。特にマリーベルなどと冗談ではないわ」
「え?そうなんですか?」
即答である。
意外な。魔王同士仲良くないのか。
「ウルトディアスは他の魔王になぞ興味が無い。好きに生きておったがのう。
マリーベルは戦闘狂いのババアじゃぞ。こちらの姿を見た瞬間にはもう臨戦態勢で突っ込んできおる。
魔王の中でも随一の血狂いじゃったわ。魔王らしく、吸血鬼らしいといえばらしいがの。
余は黒魔術の奥義を極める事が悦びじゃったから、まぁ、その、なんじゃ。
…………引きこもりじゃ。うむ」
「ああ、そうですか……」
ヒッキーだったらしい。
同じくついてくるだけのフィリアが興味津々とばかりに身を乗り出すならぬおっぱいを乗り出してきた。
私の頭に乗せるんじゃない!!クソッ!!
「私、他の魔王にも興味がありますわ。
どのような方たちでしたの?名前ばかりが残るだけでその本性については全くの謎ですのよ。
星落とす魔女エウリュアル、悪辣なる者ガルーネシア、特にこの二人は一魔道士として実に興味深いですわ……」
「む、そのような事を言われてものう、どちらにも会うたことがないわ。
その小娘に聞けばよかろ」
「え?」
何故に私なのだ。
「主以外に誰が知るというのじゃ」
「えー?」
知らんがな。
「なんじゃ、とぼけておるのか、まことに覚えておらぬのか」
む?
考える。変なことを言われてしまった。
うむむむと唸るが覚えはない。そんな奴ら会ったこともねぇ。
「……余の幻想を根本から打ち砕くそのアホ面をやめぬか」
「えぇー?」
「…………洟を垂らすでないわ。ええい、しゃっきりせぬか!」
「むむ?」
益々わけのわからん事を言われてしまった。
知らんがなボタンがあれば十連打は決めている。
「主様の偉大さがわからぬとはまだまだ芥虫は芥虫でありんす」
「……………………そうは言われてものう」
変なことを言うクロウディアさんである。
しかし、ふむ。
ざくざくと進む最中にも迫り来る鬼達をドカンドカンと炎で蹴散らしながら会話に勤しむクロウディアさんはかなりの魔王ぶりである。
全員やることもなくのこのことついていく。
ちらと思う。……それにしても、強すぎないか。
魔王とはいえ、弱っちくなっている筈なのだが。そのようなそぶりは一切ない。
いや、そういえばウルトがこれでも弱くなっていると言っていた。詰まるところ、これで全盛期に及ばぬという事か。
怖い。魔王怖い。思えば生ける魔法砲台系魔王といえば封印されているマリーさんしか知らない。いや、そも三人しか会ったことが無いのだが。
三人を見るにつけ、他の方々とお会いするのは実に避けたいところである。
星落とすとか悪辣とか聞くだにロクでもなさそうだ。しかし、かっこいいな。二つ名とか羨ましい。そういやクロウディアさんも悪魔と踊る娼婦とか言っていた。
ウルトも破壊竜とか言われてるし。マリーさんはどうなのだろうか。スポンジ脳みそにそこはかとなく血塗られた薔薇の君とか黄金の薔薇とかなんとかの高貴かつ気品のある言葉が残っている気がする。
ぬぬぬ、負けてはいられない。私も何かしら二つ名をもらうべきであろう。
故に、この切なる想いを胸に、熱く、狂おしく、涙ながらに訴えた。
「なんかくれ」
「どうぞ」
鬼のパンツだった。フィリアの手ごとぺっと払っておいた。いらん。
「まっ!何をしますの!」
「いらんわーい!」
まっ!じゃねぇよ!なんだその心外極まりないってツラは!
どっからとってきたのだこのビッチビチ聖女めが。
「くれと言ったのはクーヤさんでございましょう!?
折角私が差し上げると申し上げておりますのよ!?」
「うぶふ、ぶふ、やめ……くさ、や、いや、嫌がらせかー!
ヤメロー!!」
ぐりぐりと顔面に押し付けられるパンツを引っ掴むようにして奪い取って叫んだ。
何をするだーっ!!全く!全く!!何をプリプリしてやがる!プリプリしたいのはこっちだこのやろー!!
何が悲しくて鬼のパンツを顔面に押し付けられねばならんのだ。
「遊んでおるのはいいがの。ほれ、もう着くぞ?
あまりそのように遊んでおると――――――」
「ギャボーーーーーーーーーーッ!!!」
言うが早いか背後から無造作に摘み上げられた。
一気に高くなった視界。眼下に見えるは大口あけてあーんとしている鬼である。涎塗れで実に食欲旺盛そうである。実に宜しい。
その食欲を満たすならば私のようなちんちくりんではなくそこなぼいんぼいんの豚をおすすめしておく。
であるからしてやめろやめてくださいほんとうにもうおねがいします!
鬼のパンツを握りしめて両手両足振り回して暴れた。
「はなせーっ!やめろ―!私は美味しくないぞー!ぎえーっ!!」
あわやつるりと平らげられる、の前に目の前で爆炎が吹き上がった。私を摘み上げる指が引き攣って外れる。
重力に引っ張られて地面に落ち、むっちりごろんと転がった。すべての衝撃をがっちり吸収する万能イカ腹に感謝している暇はない。
見上げた鬼から真白の眩い光を放つ炎が口やら鼻やら眼窩やら、あらゆる穴から漏れ出るようにしてちらちらと輝く。
悪寒を覚えるとはまさにこの事であろう。ごろごろごろと転がって大急ぎで距離を取る。立ち上がって走るより転がった方が早いのだ。
転がり逃げる最中、ついに臨界点を超えたらしき鬼の身体が液体が沸騰したように膨れ上がって歪み、次の瞬間、大気を震わせる轟音と共に火塊を吐き散らす大爆発を起こした。
「ぐえーーーっ!」
あわれ、逃げ遅れた暗黒神ちゃんは煤だらけになってしまった。残念。
「……と、そのようになる故、気をつけるが良いぞ」
「ぐぬぬ……」
煤まみれのまま、涼しいお顔のクロウディアさんを見上げる。
「あんまりだー!」
「良いではないか。ほれ、助かったじゃろ?」
助かるには助かったが別の意味で感謝しきれない。全身真っ黒でまさに暗黒神である。
「なんじゃ、不満そうじゃの。別によかろ。命があるだけめっけもんじゃ。
それよりほれ、見よ。ついたぞ?」
「ぬ?」
くいと指された先。別に何もない。なんだ、今時こんな手に引っかかってしまった。
この上更なる侮辱を喰らって暗黒神ちゃん怒りのバンブーであった。
「ほ、舐め腐ったものだわえ。あちきの愛しい主様によくもまぁ……」
「仕方がなかろ。此奴はまだ若い。深淵なるものなど見たこともあるまいての。
どうせ今より真の冥闇を思い知るわ」
「名乗りを上げろ、そういう事ですのね」
「めんどう」
「しいたけ」
私のバンブーを他所に何やら皆さんしたり顔である。一部を除いて。なんだ。なんかあるのか。
見回すがやはり何もない。しかし、言われてみれば先程までわらわらと湧いてきていた鬼たちは影も形もない。何かあるらしい。
私の頭の周りを疑問符が浮かびっぱなしで解消されないが、そんなことは知ったことではないとばかりに一歩前に進み出たるは我らがクロウディア様である。
目を閉じ、すぅと吸い込んだ息で小さな肺が膨らむ。朗々と歌い上げる涼やかな声が墨絵の世界に響き渡る。
「さぁさ、鬼どもを統べたる異界の姫よ!
余らと遊ぼうぞ!その退屈、暫し忘れたくはないかえ?!
余の名はクロウディア=ノーブルフランム、悪魔と踊る娼婦と呼ばわる魔王が一柱よ!」
クロウディアさんの名乗り口上、それに続いたのはビッチビチ聖女のフィリアである。
髪を掻きあげ、けだるそーないやそーなめんどくさそーな顔で無駄に扇情的なポーズを決めて呟くような声でその名を名乗る。
「……仕方がありませんわね。
私の名はフィリア、フィリアフィル=フォウ=クロウディア=ノーブルガードですわ。
あまり楽しませる事などできませぬけれど……お相手を努めさせていただきますわ。よしなに」
「ふん、下賤な霞ごときに名乗る名なぞ在り申さぬわ。
悪魔に名乗らせようなぞ片腹痛し、万死に値するわえ。地獄の業火でその魂を焼き尽くしてやりまひょ」
「めんどう」
「しいたけ」
「…………むむ?」
この流れはもしや私も名乗らねばならんアレか?
名乗るとぱーっと扉が開くのかもしらん。よし、まかせるのだ。
腕を組んだ。煤だらけのままだが構うまい。全身之真っ黒、今の私はまさしく暗黒神であるからして。
「やぁやぁ我こそは牛乳地獄の魔王な感じの暗黒神ことラブリープリチー夢見るイカ腹、地獄の沙汰も煤次第!
いざやよいよい帰りは怖い、聞いて驚けこの名前、アヴィスクーガブィ!!」
噛んだ。欲張りはいけないとはこの事である。
それでもまぁ目の前にぐにゃりと歪む古ぼけた石造りの鳥居が現れたのだから結構結構。
失敗は次に生かせば良いのだ。うむ。
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