第32話「記憶にない名前」

 校門を出てしばらく学校であったことなどの雑談をして歩いていたが、俺は前に先輩に言われたことが気になって聞いてみることにした。

「先輩、そういえば前にお会いした時に名前教えてくれませんでしたよね?しかもその時に、重要なことで私の所に来るって言ってましたけど、あれ何だったんですか?」

「あーそれね。まだもう少しだけ先のことかなー。でもいずれその時が来るよ」

「はあ…そうですか…。名前は教えてくれないんですか?」

「そうだねー。じゃあ苗字が東雲ということだけは教えとこうかな」

 先輩は俺の顔を見ながら少し微笑んでそう言ってきた。ただ俺にはその苗字に心当たりがあったので聞いてみることにした。

「そういえば今日、幼馴染の子に東雲美空って知ってる?って聞かれたんですよね…。先輩同じ苗字ですけど何か知ってます…あれ、先輩どうしました?」

 最初俺は遠い空の方を見ていたのだが、途中で先輩の方を向くと先輩が横にいないのに気が付き少しだけ振り向く。すると、先輩は俯い立ち止まっていた。

「先輩…?」

 俺は立ち止まっている先輩にもう一度声をかける。すると先輩は急に顔を上げ、はっとした表情で俺の見た。

「あ、ごめん。ちょっとびっくりしちゃって。ちなみになんだけどそれを聞いてきた子の名前って教えてもらったり出来るかな?」

「あーいいですけど、多分誰だかわからないと思いますよ」

「構わないよ。もしかしたら知ってる人物かもしれないからね」

「そうですか。鯨井美花です。鯨に井戸の井、美しい花と書いてくじらいみかって読みます」

「あーそっか。そうだよね。うんありがと」

「え、先輩、美花のこと知ってるんですか?」

「まあちょっと昔、縁があってね。まあ君は気にしないでくれ」

「は、はあ…」

 俺が先輩の反応に疑問を感じていると、先輩は歩き出し、俺の隣にくると一旦立ち止まって、俺と向かい合わせになる。

「君がもうその名前を知ってしまっているならもう隠す必要はないね。私の名前は東雲有栖。東雲美空の姉だよ。君は私のことを覚えてないかもしれないけどね」

「東雲有栖先輩…。そうですね、記憶にないですね。ごめんなさい」

「あはは…そうだよね」

「はい。ですけど、その妹さん?にあたる美空さんも記憶にないんですよね」

「え、………」

 俺の発言を聞いた先輩は絶句して、その場で固まってしまっていた。俺は初めて見た先輩の反応にびっくりして戸惑ってしまい、何も口に出すことが出来なかった。

「本当に…覚えてないの…?」

「え、ああ、はい。そうですね…すみません」

「そっか…そっかあ…」

 先輩は何かを察したかのような、それでいて何かを諦めたかのように溜息をつきながら俯いてしまった。だが、すぐに顔を上げる。

「ごめん。もしかすると君は重要なことで私の所に来ることはなくなってしまったかもしれない。でも、もし何かあったら演劇部に遊びに来てくれ。私はあそこにいるから」

 先輩はそう無理した笑顔を作って俺に言ってきた。その顔の裏にどんな感情を潜めていたのか俺にはわからなかった。でも、俺は先輩にとって辛いことを言わせるかもしれないと感じつつも聞くことを選ぶ。

「はい。何かあった時は先輩の所に行かせていただきますね。だけど、今聞きたいことがあります」

「何かな?」

「美花が聞いてきて、先輩が重要なこととして美空さんをキーワードとして挙げていた。このことに何か共通点があるんですか?そこについて教えて欲しいんです」

 俺はこの二つの出来事がとても偶然が重なっているものとは思えなかった。美花は俺の書いた内容を見ると妙に納得しているようだったし、逆に先輩は驚きを隠せないでいる。本当に関わりのない人物だったらこんな反応はしないはずだと思う。俺はそう思ったから先輩に質問をぶつけてみることにした。

 先輩は少しだけためらい俯いて、顔を上げたがちょっとまだためらっているようだけど目は俺の方をしっかり見ていた。

「ごめん。真実は言えないんだけど、あえてちょっと言うんなら過去に君は美空と会ってるんだ。そのことだけは覚えておいて欲しい」

 先輩の目は真剣で嘘は言っていないんだなと感じ取ることが出来た。

「わかりました。教えていただきありがとうございました」

 俺は先輩に言いづらいことを言わせてしまったと思って、先輩に向かってお辞儀をした。

「か、顔をあげてくれ…!」

 俺の頭上で先輩の慌てふためく声が聞こえる。聞いたことのない先輩の声を聴いて可愛いなと思いつつ顔を上げる。

「すみません」

「べ、別に君に感謝されるようなことはしてないよ。さあ、行こうか」

「そうですね、いきましょうか。先輩はこの先にある曲がり角はどっちですか?」

「ああ、私は右だよ。君の家も右じゃなかったっけ?」

「あー、いや実は引っ越してこの先左なんですよね」

「あ、そうなんだ。前はこっちの方だった気がしたんだけどね」

「最近まで右だったんですけどねー」

「最近まで?」

「そうですねーつい2週間目ぐらい前までそこのマンションに住んでました」

「え!?あそこに住んでたの!?」

 俺が前に住んでいたマンションを指差すと先輩が驚いて、声を上げた。

「そうですけど、どうかしました?」

「あ、いや私も今あのマンションでね。つい最近まで君があそこに住んでるとは思わなかったよ」

「え、先輩もあそこに住んでるんですね!ちなみにどの辺とかって聞いても大丈夫ですか…?」

「ああ、大丈夫だよ。二階の一番左だよ。君はどこだったんだい?」

「あーあそこなんですね。自分は4階の一番右です。真反対ならそんなに会うこともなかったかもですね」

「そうだねー。あ、じゃあそろそろこの辺で。また今度ゆっくりお話ししようか」

「はい。また演劇部に遊びにいきますね!」

「ああ。その時は歓迎するよ」

 そう先輩は右手を上げ、身を翻して曲がり角を右に歩いて行った。俺はその背中が少し遠くなるまで見送ってから、曲がり角を左に曲がり歩き始めた。

 今日判明した東雲美空さん。もしかしたら母さんが何かを知っているのかもしれない。この間東雲さんの家のこと知ってるみたいだったし、今日母さんが帰ってきたら聞いてみようかなと考えながら帰路についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る