望まぬ糸は搦めとる

小さな手を握って


「餓鬼。何処から来た」

「あっち」


 呑兵衛の彼の元にいきなり現れた童は真っ黒な森の方を指さした。


「御前、俺が恐く無いのか?」

「恐くない。童子さまは優しいって」

「俺が優しい?誰がそんな法螺を?」


 彼はこの界隈を震え上がらせる鬼。額からは見事な角が一本生えている。顔は昼間から煽っていた酒のせいだろう、ほんのりと赤い。どんなに強い酒でも湯水のように食らう鬼、そう彼は酒呑童子と呼ばれていた。

 大江山に住み着いて長いこと経つが、彼自身は酒があればそれで満足だった。他の鬼のように人里を襲う気も無ければ、人を採って食う気も無い。毎日毎日のんべんだらりとしていても、他の鬼が彼の舎弟だのと名乗るせいで全ての悪行は彼が元凶ということになっていた。

 つまりは現在この国に跋扈する鬼の中で一番の悪党である。その己を恐くないと言った童。

 見れば妙な出で立ちをしているではないか。年の頃は十を超えたあたり。ぱっちりとしたどんぐり目に綺麗に結い上げた黒髪。禿の服装の上から裾を引きずる女物の艶やか女物の打ち掛けを羽織っている。


「御前、男か?女か?」

「女って言えって」


 誰の命だ。童子は目を細めた。この山に登る人間など今ではもう武士くらいしかいない。それを返り討ちにしているのは間違いなく童子であったが、それは腕試しのようなもの。やはり鬼である彼と一騎打ちと挑んで勝てた人間は一人もいなかった。目の前の奇妙な童の足元が泥だらけで無かったら、童子はもっと疑ってかかったかも知れない。周囲には他の鬼の気配も無い。それに童は可愛らしい顔に傷まで作っていた。寝そべって瓢箪から酒を煽っていた童子はようやく体を起こした。

 誰の命でも構いやしない。

 どうせそろそろ巷を騒がせたとかそんな理由で、自分は大将首を取られるのだ。この角が生えた他は美男子と言って過言でない鬼の青年。歳は忘れてしまう程に生きたが、その灯火も刈り取られる。


「御前は誰に女だと言えと言われた?」

「お釈迦様」

「お釈迦様?」

「童子さま、童子さまは知ってる?」

「何をだ」

「蜘蛛の糸」


 お釈迦様。蜘蛛の糸。聞いたこともない話だ。釈迦とは確か仏の事を指していたような。童子は鈍る頭で見聞きしたことを掻き集めた。上体を起こしたまま、ううむと唸る童子の前に、童はてくてくと歩み寄ってきた。


「童子さま、お嫁さんにして」

「は?」


 考え込む童子に童は目を輝かせながら言った。一点の曇りもない、美しい青い瞳。ああ、異人の血が混じっているのか。その瞳を見下ろして、童子はまた酒を一口煽る。


「俺にお稚児趣味は無いぞ」

「おちご?」

「御前、男だろう?男と男は結婚出来ない」

「やだ、童子さまのお嫁さんにして」


 童は童子の首に腕を回して抱き着いてきた。羽織った着物から焚き染めた香の匂いと錆び付いた血の匂いがした。鼻はもっぱら良い方だ。血の匂いに、童子は顔を顰めた。


「御前、怪我をしてるのか?」

「してない」

「ならなんでそんなに血の匂いがする」

「女の人を殺したから」


 童子は目を見開いた。この童、何を抜かすかと思えば人を殺した?


「何故殺した?」

「このべべが欲しかったから」


 そう言って童は引きずる打ち掛けを引き寄せ童子に見せた。赤いと思っていた打ち掛けは本来なら白らしかった。その打ち掛けが真っ赤に染まって見えるほど、大量の血が染み付いていた。それが赤に見えたのだ、この打ち掛けの持ち主はどんな凄惨な殺され方をしたのか。


「ごめんなさい、本当は白い着物でお嫁入りしたかった」

「御前、何者だ?」

「覚えてない?覚えていない?」

「異人の稚児に知り合いは居らん」


 童子のはっきりとした言葉に童は悲しそうな顔をした。そんな顔をされても知らぬものは知らない。何故人を殺したのか、何故己の元に嫁ぎたいのか、何故、彼を知っているのか。


「童子さま言った」

「何をだ」

「『御前が鬼になったら俺の所へ来い』って」

「御前が、鬼になったら?」

「童子さま、僕、どうにかなりそうだったよ。父様も母様も殺されて、僕もお寺で殺されそうだった。毎日毎日したくもない事を沢山させられて、殺それそうだった。でもどうにかなりそうな時、童子さまに会えた」


 昔、無鉄砲な頃があった。童の言葉に童子の鈍い思考が唸りをあげて記憶を遡る。確か数年前だと思う。童子は一度、他の山の鬼に頼まれて寺を焼いた。その時に確か、稚児を一人逃してやった。寺とは名ばかりの生臭坊主の巣窟で、どんな酷い目にあっていたのか。その稚児はぼろぼろで痩せこけて今にも死にそうだった。両の瞳は縫い付けられ、縛り上げられ、人間が食うとは思えぬ腐った飯を与えられていた。

 童子は無鉄砲だったが、鬼でも辟易するようなその扱いに寺の坊主を皆殺しにした。

 憎しみの募った死にかけの稚児に、そんな言葉を掛けた気がする。


「御前、あの時の童か」

「今夜でなければ駄目なんだって」

「何がだ?」

「ねぇねぇ、童子さま。僕鬼になったよ。だから童子さまのところへ来たよ。だから今から行こう」

「行こうって、何処へだ」

「僕が大きくなって、童子さまのお嫁さんになれるまで待てる場所」

「御前、角も無いのに鬼と言い張るのか?」

「角が無くても僕は鬼だよ。沢山人を殺したし、沢山人を食べた。童子さま、お願い。僕と山を降りて」

「角の無い鬼、か」


 確かに。見下ろす一点の曇も無い瞳は曇らぬ代わりにどこまでも深い海のように青く蒼く沈んでいる。その奥にほんの少しの黒い渦があって、それには自分より遥かに恐ろしい何かが渦を巻いていた。童子は決して引きそうもない童に押されて仕方無しに腰を上げた。そしてその小さな手を握る。


「御前、俺を拐かしに来たのか」

「違うよ、童子さまのおそばに居たいの」

「なら此処でも良かろうに」

「駄目なの、駄目なの。行こう、行こう」


 握った掌は冷えきっていた。仕方無く、童子はゆっくりと合わせてやる歩幅で山を降り始めた。もうすぐ丑三つ時だ。こんな時間に周囲が静かな事など、あったろうか?

 いつも大騒ぎしては酒を飲む鬼共の声が聞こえない。

 握った掌は下山とは違う方向へと彼を誘った。


「用意はしたよ。童子さまは明日、死ぬの」

「俺が、死ぬ?」


 童は嬉しそうに笑った。


「お寺のお坊さんを食べる時、お坊さんが言ったの。『どんな悪党でも殺生を一度堪えれば、救いの手は延べられる』って。たとえそれが虫一匹だとしても」


 それで蜘蛛がどうのと言っていたのか。

 その坊主も恐らくこの童の胃袋に収まったのだろう。童子は小さな手に引かれるまま歩き続けた。恐らくこの童はその蜘蛛の役割なのだろう。では明日己が死ぬというあの言葉は何だったのだろうか。

 山を三つ超えた辺りで野宿をした。持ってきた酒はもう底をついた。酒がなければ神経が研ぎ澄まされる。そんなのはもう御免だ。そう思う童子の傍らで童は眠っていた。


 いつの間にか眠っていたらしい。目を覚ますと童が大江山の方を見ていた。

 煙が上がり、叫び声や断末魔がここまで響いてくる。


「つな!つなの野郎を出し抜いてやった!童子さまは死なないよ!」


 童子が目を覚ました直後、童はそう叫んだ。

 つな?誰のことだ?しかしあの叫び声は酷い。まるでお山の鬼が全員狩り殺されるような…


「童子さまは殺させないよ!」


 童は気が狂ったように喚き散らした。それから黒い渦の広まった大きな瞳を童子に向ける。


「行こう、童子さま。二人きりで生きられる所へ」


 酒の抜けた童子は身震いした。

 その童が、鬼になって初めて恐ろしいものと感じた。



 小さな手に引かれるままその山を発った二人が何処へ行ったのか。

 知る者はいない。

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文字書き60分真剣勝負倉庫 戮藤イツル @siLVerSaCriFice

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