第7話 吹浦サトコ

◇吹浦サトコ


 吹浦サトコが鳥の声で目を覚ましたのは、いつものように早朝のことだった。

 部屋の反対側のベットで寝ている鬼頭蓉子を起こさないように、音をたてずにそっと抜け出し、部屋着とパジャマ代わりのジャージのままで寮内の洗面室に向かった。


 それから散歩だ。

 吹浦が所属する訓練所は、都内にあってめずらしく自然の残された広めの敷地を持つ。朝の散歩でブラブラするのに充分の広さと静けさを持つ。

 鳥というのは不思議のものだ。こんな都会にさえいる。

 吹浦はぶらぶら歩いて、敷地の中にある池までやってきた。

敷地の中にある池の畔に立って水を眺めるのが、吹浦の朝の散歩の一つだ。そこのベンチに座って、しばらくボウとする。


「……吹浦」

 声をかけてきたのは、文也だ。

 吹浦と同じグループにあって妙にあか抜けていて、なんとなく文化的な香りのする男子だ。早朝なのに、服装はきちんとしていて、吹浦のようにジャージではない。普段着だとは思うが、それさえなんとなくオシャレだ。

 文也は見かけは朝に弱そうだが、実際はそうでもないらしい。朝早く散歩しているときに、敷地内で出くわすことがよくある。


「ここにきてそうなったんだよ。相方が朝から元気なもんで」

 以前、文也はそう言った。相方とは、やはり同じグループの矢倉周人のことだ。周人は、朝からジョギングと体操と何かのトレーニングをする。フィジカル訓練がある日でさえそうだ。

 文也は、そんなことはしない。

 

 隣の元気さに起こされて、文也がだからやることといえば「哲学の道を歩くこと」だと言っていた。博識の文也が言うことは、いちいち何かのバックグランドや背景知識があったり、本歌取りになっていたりする。吹浦はその半分も、わからないが、その声はとても心地よく聞こえる。

 

 とにかく、散歩のときに文也がやることといえば、考え事だ。たまに吹浦のほうから見つけて話しかけるとき、遠い世界から帰ってきたみたいに、わずかな時間をかけて顔の焦点が合ってくる。深く考え事をしていたんだな、と吹浦にもわかる。

 今日は、文也の方から声をかけてきたのだ。


 吹浦は思ったことをいきなり口に出した。

「今日は何がテーマ?」

いま何を考えていたの、と聞いたつもりだ。頭のいい文也は察しもいい。同じベンチに座って言った。

「鬼頭のことだ」

「鬼頭がどうしたの?」

 

 ふつう、男性が女性のことを考えているといえば、恋愛テーマになるはずだが、吹浦にはそんな話題ベクトルの感性はない。というより、吹浦のグループではそんな話にはならない。 

「鬼頭がしていた親父さんの話」

鬼頭は、休みで自宅に帰るたびに、父親と喧嘩して戻ってくる。そしてグループの皆に、怒りをぶちまける。


「大丈夫よ、彼女、全然元気だよ。あれでほんとはお父さんのこと好きだよ」

「それじゃない」

やっぱり君は天然の善良人だな、という顔で文也は返した。

「そんなことじゃない。鬼頭が父親から仕入れてきた話のことだ」


 吹浦はきょとんとした。何のことだがわからない。

「鬼頭が父親にここに来るなといったら、自分が決めることではない、と答えたといい」

 ああ、そういえば。鬼頭は例のごとく父親とやりあって、鬼頭に言わせれば討論だが、とにかくその時に捨て台詞で、間違ってもこの研修所に単科客員教官として来るな、私が恥ずかしい、と言ったら確か父親は……、


「この研修所で講師をするや否やは私が決定できることでない、と親父さんが言ったという話だ」

 そんな一行の文章が、これほどの長考につながるのか。吹浦が覚えているのは、その時の鬼頭の口調や声の様子だ。他は何もない。

「君はどう思った?」

 

 文也が意見を求めても、吹浦に応えられるのは、何もない。

「ええ、っと。親子げんかは……」

文也は吹浦をまじまじと見た。それから、

「言い換えよう。君はどう感じた?」

感じた?それなら応えられる。


「鬼頭親子、意外に仲がいいよね。というか似たもの親子だよね。それから、鬼頭は父親が教官として来たら質問のときに喧嘩吹っ掛ける気でいる、やりたくてたまんない様子」

「どうして似たもの親子だと?」


「へ?だって二人とも嘘つかないし。というか、嘘つかない箇所が同じ」

「嘘つかない箇所?」

「だれだって、嘘をつくでしょう? お店をお勧めされて食事したら美味しくないときに、美味しいと言う人とそうでない人がいるでしょ? そこでは嘘をつけつけない人と、チャンと嘘をつける人がいる」

 文也は面白そうに聞いている。


「どんな時に嘘をついて、どんなところでは嘘をつかないかというのは、個性よね。東京に出てきたときにみんな嘘つきだ、と思ったけど。しばらくたって、違う、都会の付き合いでは必要な嘘をついているだけなんだ、と分かったよ」


 促すような文也の顔つきに、吹浦はいい気になって続けた。

「ほら、このまえ文也は、付き合いで嘘をつくのは社交文化だ、と言っていたでしょう。そういえば、うちの田舎でも、付き合いの中で嘘をつく。ただ都会とは嘘をつく場面が違うだけ」

 

 文也が面白そうに聞いているので、吹浦はそのまま続けた。

「とにかく、鬼頭親子は、同じ個所で嘘がつけないし、嘘をつくときは同じ場面つくと思う」

「鬼頭親子が、嘘をつかなかった箇所とは?」

「え? ああ、お父さんが『自分では決められない』って言ったこと。そこで嘘をつかないところがそっくり。最高裁判所の偉い人が自分で決められないなんて、普通は体面から言わないよね。鬼頭も、いつもそういうところでは嘘をつかない」

「鬼頭は、結構嘘つくけどな」

「あたしだって嘘つくよ。自分が何か恥ずかしくて言えないようなときに、私は嘘をつく。それ知らない、とか言えないときとか。だけど鬼頭は、そういうところでは嘘をつかない」


「へ~。吹浦はどういうところで嘘つくなんだ。僕からすると、相当正直な人なんだけどね」

「文也は何でも知っているのに、知らない振りするとき、よくあるよね。私は、みんなが知っていることなのに自分が知らないときは、恥ずかしくて知っているような嘘をつく」

「ずいぶんかわいい嘘だな。……とにかく君は、鬼頭父はこの件で嘘をついていないと言うんだな」

 

 吹浦は黙ってうなずいた。ほんとは、かわいい嘘という言葉に声が出なかったのだ。吹浦はとこたま、こんな風に文也の物言いにどぎまぎするときがある。何か都会的で、吹浦の育った地域で地域の男子の口からは、ついぞ聞いたことのない言い回しなのだ。


 文也は立ち上がって、

「さて、じゃましたな」

この言い方が、大人っぽいのだ。吹浦とそれほど年は違わないはずなのに。

「何が気になって考え事を?」

「最高裁判所の偉い人が、自分で行きたいとか行かないとか言えないという事実は、この訓練所がそれほど他行政機関に対して強い所なのかと。これでいくつかの謎が判明した」

 

 吹浦にはよく分からないが、文也がそう言うのならそうなのだろう。

文也は、後ろ姿で手を挙げて去っていた。吹浦はしばらく池を眺めて、それから立ちあがった。

 

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