第6話 鬼頭蓉子
◇鬼頭蓉子
鬼頭容子は、最初「こども省」に入省した。
子ども省は、厚生労働省と文科省、経済産業省、外務省など複数の省庁にまたがった子どもに関する課題を、子どもという括りで解決しようと、新しく設置されたものである。旭日の大改変が始まって最初にできた省である。
それまでも、幼稚園と保育所の統合が課題になって等しかった。認定子ども園ができるにはできたが、幼稚園は文科省管轄、保育所は厚生労働省管轄で、様々な点でそれが障害となっていた。
また、子どもの経済格差は喫緊の課題となっており、それに集中して取り込む省庁が必要になった。
財務省は、子どもにかける予算、経費が老人のそれの6分の1しかなっていないというデータをもとに、子ども省の設置に賛成した。本当は厚生労働省の予算が金食い虫になっていると思いから、どうにか削減する方法として首を縦に振ったのだ。
スポーツ庁はあるのになぜこども省はない、いまや13組に一人が国際結婚という時代の子どもの問題はどこが対処する、などという子ども省の必要性を解く論議は多かった。
だが最も大きく無言の推進力になったのは、日本の人口減少の問題だった。いまや、子どものための専門の省庁を作らないとこの重大な課題に立ち向かえないほどに、人口幻想への対策は無策であった。
その子ども省に、鬼頭は喜んで入省した。
恵まれた家庭で育ったが、裁判官の父の意向で、小学校は地元の公立である。
その公立小学校で、鬼頭は自分が他の子どもたちとはかなり違う環境にいることを悟った。
それなりに周囲の子どもたちと友達になったが、鬼頭の経済的にも知的にも高度にあった鬼頭の家庭環境は、子ども心にも分かるかすかな見えない壁を作っていた。
マリーアントワネットが、ストライキの群衆を見て「パンがないのならお菓子を食べればいいのに」と言ったエピソードがあるが、鬼頭もそれと似たことを幾度かしたことがある。
「うちのお父さんも刑務所と関係している仕事だよ」親が刑務所と関係しているらしいと噂に聞いたクラスメイトに言った言葉だ。
その子は、不思議な顔をした。周りの子どもたちは、黙っている。その子はその後、引っ越していった。
「そんなに好きな服なら、やっぱり何着も買っているの?」これは毎日同じ服を着てくる子に行った言葉だ。
鬼頭の父親は、全く同じ仕立ての洋服を、毎回4着は作るし、買う。あるいは仕立てが違う服であっても、基本的に同じ形だし、色もほぼ似ている。
だが、その男の子は、たった1着しかない学校に着ていく服を毎日着ていた。母親が居なくなったことを、彼は隠していた。そのとき彼は、黙って立って、どこかに言ってしまった。
古い木造のアパートで、洗濯機が廊下においてある友人の家を見たときは、「どうして洗濯機が捨てたままなの?」と聞いた。
洗濯機は外の風雨にさらされて所々錆びていたので、鬼頭は壊れた洗濯機を廊下に出し業者が引き取りにくるのを待っていると思ったのだ。廊下に洗濯機をおくタイプの古いアパートをそれまで見たことが無かった。
とにかく、学校で浮きまくりながら、しかしそれなりに友人ができて、鬼頭の小学校生活は過ぎた。
小学校6年の時に事件が起きた。鬼頭の小学校をある不審者がうろついているという噂がたった。しかもそれは鬼頭の父親が関わった犯罪の関係者らしいというのだ。家で滅多に見たことのない両親の言い合いを鬼頭は初めて見た。話し合いはどうなったか知らないが、父親は急に鬼頭蓉子に向かって、私立の中学を受験しなさいと言った。
鬼頭はらくらく私立中学に合格し、小学校の卒業式では児童代表の別れの言葉を述べることになった。
挨拶をするために体育館の壇上から、皆を見たとき、意外にも自分はここで本当はとても幸福だったのだ、と感じた。
実際、鬼頭が折々に思い出す学生生活は、私立の中高でも無ければ、進学した名門大学でもない。この小学校だ。
貧しいものも社長の息子も、外国人労働者の子どもも通っていた、この地域の公立小学校だ。子どもが減って、地域の二つの小学校が統合して5年であった。その小学校が結局、自分の『何か』を作ったのは確かであった。
国家公務員試験に合格して、こども省の面接を受けた時も、父親は賛成しなかった。もともと弁護士試験さえ合格していた鬼頭容子である。父親はてっきり法曹関係に行くもの思っていたらしい。百歩譲って、公務員なら法務省を希望すると考えていたらしい。
父親への反抗心か、それとも小学校への不思議な母校愛からか、自分でも分からないが鬼頭は子ども省に入った。どこにも原籍を移動することなく3年間、とても楽しく有意義に働いた。子ども省は旭日の大改変で最も初期にできた省庁だ。鬼頭は、新しく始めから組織を作る楽しさも十分に味わった。
そこへ、降って湧いたように移動の話しがあった。新しい組織は鬼頭を名指しで欲しがったらしい。まさか父親との関係か? そう思って父親と口論青したが、そうでないらしい。父は子ども省の時よりさらに激しく嫌がっていた。
父が反対した。これは鬼頭にとっては、十分に喜んで移動する理由になった。
何より、訓練期間の一年は宿舎に入ることが指定されているという。これは鬼頭の待ち望んだ状況だ。家を出れる。堂々とあの家を出れる。
鬼頭は、上司に移動を希望することを伝え、残念がる上司は「大きな波には逆らえない」とつぶやいた。
鬼頭が宿舎に入ると、同室の子はまだ来ていない。軽く荷物をおいてベッドを確かめようとしたとたん、ドアが開いた。
「は〜い。待ってたわよ。あなた鬼頭さん、それとも吹浦さん?」
見ようによっては女子の、細身の男性が立っていた。
「私、女の子を待っていたのよ。男性と一緒だと落ち着かなくて」
そう言って、歩き方も美しく入ってきた。そして、
「まあまあ、お化粧もしないできれいな顔がだいなしよ。ちょっと座って」
と自分のバックから化粧ポーチを取り出す。
鬼頭は黙って彼女の、いや彼のされるままになっている。
「あら、そう言えば、あなたどっちだっけ? 私はさくらよ。お姉ちゃんたちが、……、それで……。そう言えばあなた、無口ね。でね……。」
鬼頭が無口な人間なんかではないことを、さくらはこの後知ることになるが、いきなりお化粧をされていた間のこの時は、確かに鬼頭は無口であった。
顔に何か塗られたり、口紅つけられたりするときに、お喋りなんてできやしない。
気がつくと、ルームメイトらしき人がいつのまにか入ってきていて、側で黙って座っている。
化粧されながら横目で見ると、ルームメイトは興味津々で二人を見ている。
目だけで挨拶をすると、素朴な顔で同じように何も言わずに挨拶を返した。
この人、誰かに似ていると思った時にさくらが、パチンとコンパクトを閉じた。
「さあ、出来たわよ。私、一緒にいる仲間がお洒落に構わないのは、我慢できないの。ええ…っと、いまお化粧終わった方が、きっと鬼頭容子さんね。で、あなたが吹浦サトコさん?」
「どうして分かるの?」
鬼頭は鋭く、吹浦はゆっくりと、同時に聞いた。
「あなたの骨格は、あの写真で見たことのある鬼頭判事に似ているから。で……」
そう言って吹浦に向かう。
「あなたは肌の質感がこのへんの人じゃない。東京の人の肌じゃないということ。鬼頭さんが東京出身だってことは分かっているから。消去法よ」
そう言って笑った。
それに対して吹浦は、しごく素朴な顔で聞いてくる。
「ねえ、あなたは誰? どうして、女子っぽいの?」
鬼頭がすでに抑え込んだあるいは忘れていた率直すぎる発問だ。素朴すぎて残酷になる子どもがする質問といっていい。
だが、さくらは笑いながら答えた。たぶん全く差別感を感じさせない、ただただ疑問を口にしただけだという吹浦の態度が瞬時に分かるからだろう。
「あら、自己紹介してなかったわね。さくらよ、大内さくら。お姉ちゃんが四人いてね……で……」
この日三人は、そのまま夕食の時間になるまでおしゃべりをしていた。
鬼頭容子は、何も気にかけることなく何も気遣いをする必要のない、発言したとあとに思わず周囲を見回すこともない、気楽な会話を久しぶりにしたような気がした。
家を出てよかった。この二人がいるグループで良かった。この後、何度も思うことになる感想を、鬼頭はこの日ずっと感じていた。
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