未定

@sayonara32

prologue

 肩にかけたカバンをどさりと降ろし、ため息まじりで男は言った。


「ただいまぁ」


「ん!? にーちゃんもう帰ってきたん?」


 茶の間からひょっこり顔を出した妹が、帰宅した兄に声を掛けた。ただ、ムッとした兄の表情に気付き、失言だったのだと茶の間に顔をひっこめた。


「お母さん、にーちゃん帰ってきたで。なんかちょっと怒ってる」


 勝手元(カッテモト)で夕飯の支度をする母に小声で伝える。すこし苦笑いを見せた母は、大体のことを把握してるみたいだ。


「おかえり。あんたもうじきご飯出来るけど、一緒に食べへん? お風呂も沸いてるで?」


「……すこし疲れたから、部屋で寝る」


 いつものことで、予定日より早く帰宅したときは、決まってこうだ。母もふてくされた息子の態度に、慣れた様子で話しを続けた。


「テーブルに夕飯置いとくから、後でちゃんと食べや。お風呂もちゃんと入りや」


「はい、はい……」


 自室に入るなり、ベッドにどさっと倒れこむ。頭の中ではあれこれ考えているが、どれもこれもが愚痴のようなものだ。ただ、自分が至らなかったところは反省している。愚痴と反省を繰り返しているうちに、男は眠っていた。


「あかん、めっちゃ寒い……」


 彼の目を覚まさせたのは、窓ガラスをカタカタと鳴らす音と、冷たいすきま風であった。ぶるっと震え、起きるべきかまた眠るべきかと、どうでもいい事をボーとする頭で考えてた。毛布を被り数十秒固まる。北海道から旅客機で伊丹空港に着き、タクシーで帰宅したことを思い返していた。


「あ……そっか。 ……腹減ったな」


 ボソっと呟き、茶の間に向かい明かりを灯すと、ちゃぶ台にラップが掛かった夕飯が用意されている。


「……ありがとう」


 寝室で眠っている母親に感謝した。


 静かな夜。北海道って田舎だなんて鼻で笑っていた二日前の自分に、また鼻で笑った。実家周辺も似たようなもので、たまに大阪と奈良をまたぐ道で、若者らが運転するオートバイや自動車の過激なエンジン音とブレーキ音がこだまするくらいで、繁華街のガヤガヤした賑わいをみせたり、目まぐるしく人が行き来する様な場所でもない。


 腹も満たされ、火をつけたタバコの煙を何気なく眺めてた。何も考えることもなく、ただ漠然と。その時――え? 揺れてる?


 彼の身体に微かに感じた揺れ。タバコの煙ほどのものではないが、ゆっくりと左右に揺れている。ただ、この程度の揺れならば、家族を起こす心配も無いだろうと、揺れが収まるまで待った。


 ほっと安心し、食器を流しに置くと玄関先に向かった。ほったらかしにしていたカバンと上着を取り、そっと外に出た。山道を少し下り開けた道を歩いていく。片方には線路が、片方には広々とした視界が広がった。もう朝方ともあって、夜景ほど輝かしくはないが、市内まで届きそうな街並みの風景が、人気スポットのひとつとなっている。ただ、この街で産まれ、この街で育った彼には見慣れたものだった。


「今日はこっちかな」


 広々とした車が行き来する下り道、片や駅前を通ると山道沿いに出る登り道。彼は山道沿いに足を向けた。山道沿いには、古くからの店が並ぶ。カバンから取り出したカメラで、年季ある店を撮っていく。どこの店も明かりは消えているが、いまも昔とは変わらない。地元民の散歩コースにもなっている。


「おはよう。 朝からお仕事?」


 声を掛けられ、男は振り向いた。見慣れた顔に、聞きなれた声。幼い頃からずっとお世話になっている、駄菓子屋のおばあちゃんであった。


「おはよう、おばあちゃん。 んー、これは趣味かな」


「ああそうね。 あんたがそれ持ってるとこ見ると、お父さんそっくりやね」


 大人になってからは、あまり会う機会がなかったが、たまに顔を合わすと昔の事や、世間話で時間を忘れる。彼にとっては、父の事をよく知る人で、慕っている存在だ。


 話に夢中になっていると、日の出が近付き山から光が零れてくる。山道沿いに並ぶ店からも、朝の準備が始まる。男はカバンにぶら下がる小さな時計を見ていった。


「おばあちゃん、もうそろそろ帰らんと、家族心配しはるで」


「もうそんな時間ね。あんたと話してたら時間いくらあってもたらへんな。また、時間あるとき店にでも顔出しや」


 笑顔で別れ、山道沿いを下る男は、昨日の嫌な気持ちが晴れていた。父親の事は何度も聞かされ知ってる。だからこそ、自分も同じ道を歩む事を選んだ。そんな父と、いま自分が悩んでいる事を比較するなんて、父に失礼で仕方ない。――おばあちゃんと話せてよかった。


「コンビニでも寄ってから帰るか」


 表情がすっきりとしていた。人からすれば一時のことかもしれない。翌日になれば、きょうの気持ちなんて忘れているかもしれない。でも、そのときの彼は救われた気持ちでいっぱいだった。明けたばかりのきょうに、始まったばかりの一日に、いまの自分に何が出来るかを整理する時間が持てた。――また一から頑張ろう! そんな前向きな気持ちになれた。それなのに――。



「ん!? またか!」


 先ほどの小さな揺れではない。身体が大きく左右に振られるほどの、不安が込み上げる揺れ。地鳴りと家屋がギシギシと軋む轟音は、更に規模を広げていく。尋常ではない揺れ幅に、男は立ってはいられない。はっと気が付き坂の上に体を向けた。駄菓子屋のおばあちゃんも建物にしがみつき、しゃがみこんでいる。


「おばあちゃん!」


 声を荒げると、強張るおばあちゃんがこちらに顔を向けた。恐怖から声が出せないでいる。男も四つん這いで体制を取るのがやっとだ。助けに行ける状況ではない。


――いつまで揺れてんねん! はよ止まれや!


 このとき誰もがそんな気持ちになっていただろう。少しでも収まれば、危険な場所から離れられる。広々とした場所まで逃げられる。だが、天災は容赦しなかった。目の前の家屋がけたたましい音と共に倒壊していく。ひとつ、ふたつではない。眼前に広がる家屋が、でたらめな順序で次々と崩れていく。現実とは思えない光景に、ふるえが止まらない。腰が抜け足が竦み立ち上がる事が出来ない。体を大きく揺られ四つん這いすら崩され転がる。


「え……」


 刹那、男の頭上に影が掛かった。録画した映像をコマ送りにてし観ている感覚に襲われた。数秒の出来事の中に、生きて来た中で感じたどの恐怖よりも勝っていた。男は頭上から降り注ぐ、崩れゆく家屋にぐしゃりと潰された――。


 目を覚ました男は、小さな隙間から夜空を見つめていた。――ここは……。 身動きが取れず、全身が麻痺して感覚がない。痛みより、息苦しさが苦痛に感じる。


「だ……れか…」


 掠れるほどでしかない声では、誰にも届かない。パチパチと木が焼ける音。誇りと焦げる匂いで目に染みる。薄れ行く意識の中で、子供の頃の記憶が蘇る。それはまるでカメラに一枚一枚撮られた写真のように。暖かいのか、寒いのかも分からない。自然に身を委ねる事しか出来ない。煙に覆われた夜空を薄れる意識でただ見つめていた。ひとつだけ強い光を放つ星が綺麗で見惚れていた。そのときである――見つめていた星が視界全体に激しく輝き、彼の目を刺激した。光に向かって差し伸ばす腕は、彼の意識とは関係のない、まるで何かに引っ張られているようであった。


「おおおおい! ここに埋まってんぞ! 生きとるか!?」


 人の声、懐中電灯の光。――誰か……いる……。 助けが来た事すら分からない。ゆっくりと家屋の残骸から、男の潰れ体が現れる。救護に来た者は言葉を失った。腰から下、特に大腿部が押し潰され、出血が酷い。


「にいちゃん、もうすこしの辛抱やで!」


 担架を担ぐ者から、次々と励ます言葉が掛けられる。多くの家屋が倒壊し、自動車が入ってこれず、近場の救急施設まで徒歩でいかなくてはならない。家屋倒壊に土砂崩れ、火災が酷く、異臭が立ち込め。彼が目の当たりにした視界には、無慈悲で無残な光景が、まるで地獄絵図のようであった。


西暦2066年、11月29日、日本は有志に刻まれる、南海トラフ地震の被災国となった。

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