ふあぁ――と。


 晴れた朝空の下、初老の男が大きなあくびをした。

 彼は都内にあるワンルームマンションの管理人。

 長年勤めた会社を定年退職したものの、毎日家でゴロゴロしているのは性に合わないと、知り合いにこの職を紹介してもらった。

 給料は安いが、人間関係にとらわれない仕事がこんなに気楽で楽しいものとは思ってはおらず、現役の頃より顔つきが良くなったと妻に笑われる日々。

 日の光を浴びながら、今日も一日頑張ろうと、気合いを入れる。

 まずは掃除だと、モップとバケツを持って、エレベータに乗り込んだ。


 マンション各階の共有廊下を、丁寧に水洗いしていく。

 世の若きビジネスマンたちはとっくに出勤している時間。

 故に人の気配はなく、普段から通行を気にせず掃除を進めることができる。

 しかし――

 とある階、見慣れぬ光景。

 

「あ……?」


 男が一人、うつ伏せの姿勢で倒れている。

 その場に清掃用具を置いて、慌てて駆け寄った。男は若く、半袖のシャツとスウェットのズボンという、寝間着のような恰好をしている。

「おい……アンタ、どうしたんだ……?」

 声に反応して、男は、床に手をついて立ち上がろうとする。しかし足元が酷くふらついたかと思うと、ばたん、と、近くのドアを背に座り込んでしまった。

 その顔には何となく見覚えがある。

 このマンションの住人であるのは間違いない。

「お……おい……大丈夫か?」

 手を貸そうとするも、その男の異様な姿に、思わず動きが止まる。

 その目は血走り、頬はこけ――そして何より、右手の甲に傷を負っているらしく、ひどく出血している。そのままあちこちを触ったためか、男の顔や服をまだらに赤く染めてしまっていた。

「――大丈夫」

 男はだらりと座ったまま、荒く呼吸をして。

「ちょっと……眠れないだけだ……」

 そんなことを言った。

「眠れない……? 不眠症か? いや、しかし……」

 眠れないなら、布団に横になっていれば――と、そんなことを思うも、すぐに思い直す。眠りたくても眠れないからこそ不眠症で、それが原因で暴力的になったり、わけのわからない行動をとったりすることもあるだろうと。

「待ってろ、すぐ救急車を呼んでくるから……」

 管理人は男をそのままにして、エレベータに向かって駆け出した。



 取り残された男は、ひとり――自分自身の眠気と、戦っていた。

 今の管理人らしき男は勘違いしていたようだが、不眠症でもなんでもなく。

 ただ、自分が眠ってしまわないように、耐えているだけなのだ。

 実際、丸三日、眠っていない。

 なぜなら――


 冷気でも受けたかのように、寒気が全身を襲う。


 その理由を、思い出すだけで――恐怖によって――精神が覚醒する。

 しかし、肉体は、脳は、もう限界に近く……


 があっ! っと、右手の甲に噛みついて、そのまま引きちぎった。

 赤い血が噴出し、痛みが襲う――しかし。

 肉体を覚醒させるほどの痛みを得るのは、もう無理だったらしい。


 日の光を浴びれば、目が覚めるかも知れない、と。

 朦朧とした頭で考えたそんな方法は、間違いだったことに今更ながら気づく。

 ぽかぽかと陽気な日差しは、人を眠りに落とすのには最適で――


 ふらり、と、身体が揺れたかと思うと。

 ばたん! と、ついに男は、その場で横向きに倒れてしまった――



 一階の管理人室で電話をかけようとしていた管理人は、大きな音を聞いた。

 思わず受話器を置いてしまうほどに、それは奇妙な音で。

 獣の叫びのような、金切り音のような……

 人間の声だとしたら、さっきの男だろうかと、妙な胸騒ぎを覚える。


 すぐに同じ音が聞こえた。

 それはやはりこのマンションの上の方からで。

 何か恐ろしいものを見たときの悲鳴のような、そんな風に聞こえなくもなく――


 不安、恐怖――そして死。


 少なくとも絶望を含んだ声であるのは、確かだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る