混雑する通勤電車。すべての人間が薄暗く見える。


 灰色のオフィスビルに向かう道、空は晴天。

 プリズムを通したかのように、太陽の光が七色に分散されて映る。

 目が眩み――頭が、重い。


「おい、てっちゃん……お前、大丈夫なのか……?」


 自分の席についた途端、上司の木谷がそんな声をかけてくる。

 腐った泥のようだ。


「ひでぇ顔だぞ……なあ、昨日も早退したんだってな。無理すんなよ?」


 違う。こいつは人間だ。

 自分のことを心配してくれるような上司では、ない。

 ずっと返事をせずにいると――木谷がゆっくりと近づいてきた。


「一昨日の会議の件は……俺が悪かった。お前ばっかりに責任を押しつけて――」


 バンッ! と、机を叩いて立ち上がり。


「そんなことを言うな。お前は――俺に、不快を与え続ける存在であるべきなんだ」


 低く、抑揚なく。

 それでも静まり返ったオフィスに、その声はよく響いた。


「はあ? お前、何を言って……っ!」

 木谷は震え上がる。

 うつむき加減の哲也が見せたその表情を見て、寒気すら覚えていた。

「やっぱり……お前、猫かぶってやがったんだな……悪鬼みたいな、顔……しやがって……」

 明らかに声が恐怖で震えている。

「くそっ……やっぱり――さんのアレは、お前がやったんだろ……何が事故死だ……普通に考えりゃ、あんなところから落ちるわきゃねえんだ……畜生」

 

 黙れ、と。

 無意識に発すると同時に――急に我に返ったかのような。

 はっ……と、哲也は慌てて周りを見回した。

 無言で自分を見つめる社員たち。

 困惑と、恐ろしいものでも見るかのような視線。


 自分は一体、何をして、しまったのか……


 急に呼吸が荒くなる。心臓がどくんどくんと早鐘を打ち始め。

 慌てて逃げるように、哲也はそのままオフィスを飛び出していた――



 その後、どうやって自分の家まで戻ったのか、覚えてない。

 いや、家に戻ったのかどうかすら――



 気付けば、夜に。


 月も星も見えない、暗い空。

 あの神社の境内を歩き、かつん、かつんと、誰もいない空間を進む。

 たどり着いたのは、境内に隣接した家。

 古きよき日本家屋といった趣きで、いかにも――神職の者が住んでいそうな。

 

 敷地内に入り、正面玄関のカギを、慣れた手つきでこじ開けた。

 物音を立てないようにして、素早く中へと入る。

 灯りは点けない。

 見たこともないはずの家の中、なぜか見覚えがあるような感覚に襲われる。

 

 足音を立てないように、ひっそりと玄関を上がって。

 板張りの廊下を歩く。

 距離感が分からなくなるような暗がりを、どれだけ歩いたのか。


 やがて行き止まり、正面には白紙が張られたふすま。

 すっ、と、横に開くと、畳が敷き詰められた広い和室が目に映る。

 灯りもなく暗い中、はっきりと見えたのは。


 白い布団の上で寝ている、少女の姿だった。


 こんな場所まで容易に侵入できるわけがない。だから――

 哲也は改めて確認する。


 これは夢だ、と。


 足音を忍ばせて近寄り、布団の横に膝をつく。

 目を閉じた少女は、穏やかに寝息を立てている。

 両手をゆっくりと、その美しい顔の近くに伸ばし――そっと掛布団をはぎ取ると。

 少女は、巫女服を着ていた。

 呼吸と共に上下するその胸の膨らみに、激しく興奮を覚える。

 

 少女が、目を覚ましていないことを、確認して。

 そして――自分も目覚めないことを、理解して。

 哲也は、少女の頬に、そっと手を伸ばした。


 柔らかさと、温かさが、甘い香りのように。

 そのままゆっくりと、優しく、なぞるようにして。

 少女の首元の方に、手を下げていく――


 目は、覚めない。


 だから、その細い首を。

 簡単に折れてしまいそうなほど華奢な首を。

 両手で、しっかりと押さえ込んで。

 徐々に、徐々に。

 ぎゅっと。

 力を加えて。その度に、自分の呼吸は荒くなって。

 強く、強く。

 

 ぎゅうっと――絞め続けていくことで。


 唾液が口からこぼれてしまいそうな、とてつもない恍惚感が――







 ――警告は、したはずですよ。



 かっ、と、少女が目を見開いた。

 

 可憐で、明瞭で――聞き覚えのある声。

 困惑、動揺。これが夢なのか現実なのか、哲也は一気にわからなくなる。


「あなたを中心に回っているわけではないでしょう――現世というものは」


 仰向けで哲也に首を絞められたまま、憐れみを込めた声で少女は言う。


「そんなに――嫌だったのですか? ことが」


 曖昧な表現をしているが、この聡明な少女はすべて理解しているのだろう。

 哲也は首元からそっと両手を離すと、開き直ったような口調で。


 ああ、そうだよ、嫌だったんだ――だから全部、消してやったんだ。


 さらりと、そう告げた。



 ずっと彼の下で働きたいと望んでいたのに。

 自分の庇護から離れ――地方部署で働くことを勧めた上司を。


 結婚をするつもりなどないと、散々言い聞かせていたのに。

 どうやっても断れない見合い話をもってきた母親を。


 そして、何ごとにも意見し、口を出し、世話を焼き。

 しかし最後には「別れたい」と、そう切り出した――恋人を。



 少女は心底、悲哀に満ちた表情を浮かべていた。


「それで……あなたの気は晴れたのですか……?」


 さあね。けど、まあ――俺のにはなったよ。


 足を放り出す形で床に座り、漆黒の天井を見上げて、呆れたように笑う。

 対して少女は、鋭い目つきを見せながら、ふわりと立ち上がった。


「自分の思い通りにならないことに対する不満や苛立ち。それは理解できます。けれど……愛する者が思い通りにならなかったからといって、一転、その存在を消し去りたいと……そんなことを強く願うようになるなんてことは――もはや人間の感情として、間違っているとしか思えません」


 そして暗がりの中、見下しながら指さして、告げる。


「あなたは、狂っている」


 どくんと、心臓が不安定な音を鳴らした。

 吐きそうなほどに、嫌悪の気持ちが湧き上がる。

 哲也は困惑し、慌てた様子で立ち上がると。


 やめろ、君が……そんなことを言わないでくれっ!


 声なき声で、そんなことを叫んでいた。

 この少女に――そう、夢でも、現実でも、理想を形にしたようなこの少女に。

 否定など、されたくない。

 認めてくれ。俺は、悪くない。

 悪いのは、思い通りにならない、この世界の方だ。

 だから君が、俺の、思い通りにならないというなら、いっそ――


 ああ、いや……違う。

 そもそも自分しか知らないはずの真実を、なぜこの少女は知っているのか。

 簡単だ。これは自分自身の夢だからである。

 で、あれば……そう。


 夢なら、何をしようが――俺の自由だろうがっ!


 あははははっ! と、声を張り上げて、つい笑ってしまう。

 そうだ、これは俺の夢で、俺が作り出した世界だ。

 少女が何か余計なことを言っているが、しかしそれは夢診断とやらで言われているように、俺の中の深層心理なんてものが、無意識に作り出した言葉なのだ。


 それを否定し、強く意識を持てば――思い通りの夢が見られる。

 

 しかし、それがもし思い通りでなければ、目覚めて――

 再び眠りに落ちて、思い通りになるまで、リセットし続ければ良い。

 その夢の中で、自分がやりたいことを、何度も、何度も――何度も。


 胸が高鳴り、馬鹿みたいに興奮を覚える。

 強い多幸感と共に、哲也はずんと足を踏み出し、少女の方に顔を向けた。

 さて、まずはその巫女服をはぎ取ってやろう、と。

 乱暴な仕草で襟元に手を伸ばしたところで。

 

 ぱぁんっ――! と。


 頬を叩かれた。

 その勢いと―― 心に生じたショックにより、哲也はその場に座り込んでしまう。


 痛い――


 はっきりとそう認識した。

 血の気が引いたかのように急に冷静になる。

 この感覚――とても夢とは思えない。しかし。


 すうっと、周囲が暗くなり――和室の光景が消え去った。

 辺り一面が、不自然なほどに、黒くなる。

 この空間が、現実とも思えない。


 これは、いったい……なん、なんだ……

 

 闇の中、ただ呆然とするしかない哲也に、少女は憐れみを込めた目を向ける。


「わたしは――あなたの罪を知った。あなたのワガママで死んでしまった人たちのためにも、わたしはあなたを裁かなければならない。でも……現世において、わたしに罰を与える権利はないし、力もない。けれど、あなたは言った――」


 すうっと、涙を流す。


「夢ならば、何をしても自由だ、と」


 少女の姿が、闇に溶けるように、ぼやけて映り始めた。

 それはいつもの夢のように、去っていくようで。

 しかし、もう永遠に会えないようで――


 すがるように手を伸ばしていた。

 少女は泣き顔を見せて、ぎゅっと、その手を握りしめてくれる。

 それは温かくも、とても冷たくて――

 

 徐々に、徐々に、感覚を失っていく。


「なぜ、自分という人間を認めるのと同じように、他のひとを認めてあげないのですか――なぜ、自分を愛するように、他のひとを愛してあげないのですか。そんな簡単なことが、どうしてあなたには」


 できなかったのですか、と。

 

 そこで音と感触が、途切れた。

 視覚も、嗅覚も、すべてが曖昧になり。


 周囲の空間、漆黒に、溶けるように。

 

 しかし一点。

 さらに黒く、おぞましさすら感じさせる闇だけが、遠くに見える。

 

 哲也は激しい喪失感と後悔を覚えながら、そちらに向かって歩き出していた――



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