少女
翌日。
会社には出勤したが、まったく集中できず、仕事が手につく状態ではなかった。
そして午後も少し回った頃、同僚から家に帰って休むように勧められた。
よほど酷い状態に見えたのだろう。哲也はそれに従うことにした。
肉体的には何ということはない。
しかし何か、大事なものを失ってしまったかのように……気持ちが不安定だった。
帰路につくも、自宅のひとつ前の駅で降りた。
何となく、すぐには家に戻りたくなかったし、以前から健康のために一駅くらい歩いて帰ろうかとも思っていたので、丁度よい機会だった。
午後三時、空はまだ水色。駅から伸びる商店街は主婦や老人でにぎわっている。
「ふむ……」
徐々に気持ちも晴れ始める。
言ってしまえば、ただ悪夢を見ただけ、と、それだけのことである。
誰でも経験はあるだろう。夜、夢から目覚めて、その内容に恐怖し、暗い自分の部屋が妙に恐ろしくなる。しかし翌朝、なんであんな夢の内容を怖がったのだろうと、ひとり苦笑するなんてことは。
「けど、な……」
そういった恐怖心は拭えたとしても、それとは違う感情が哲也を苦しめている。
ひとつは、薬の副作用的なこと。
昨晩、ベッドの上で目覚めた直後、哲也は呼吸が苦しく、気持ちが落ち着かなかった。あの薬を連用したことにより、何か身体に悪い影響がでているのではないかと、そんなことが頭をよぎっていた。
ただそれは、半日が過ぎ、今、こうやって街中を普通に歩けていることから、特に問題ないように思える。
しかしもうひとつ、やはり、大事なものを失ったというか──信じていたものに、裏切られた、そんな感情が払拭できずにいた。
ふう、と、人通りの少ない住宅街を歩きながら、我知らず息を吐く。
「所詮、夢の話だ……バカバカしい……」
気持ちを切り替えようと、そんな言葉を口にする。
いつの間にか道幅が広くなっていて、道の先、分岐している一方が
公園だろうかと、そちらに歩いていくと、道の先には大きな鳥居があった。
なるほど、どうやら神社らしい。
神頼みでもするか、と、
やがて開けた場所に出る。
緑に囲まれたそこは公園施設のようにきれいに整備されていて、入り口から真っすぐ伸びる灰色の小道の先には立派な本殿がどっしりと構えている。その本殿を守るかのように、小道を挟んで正面左右には、二体の狐の像が鎮座していた。
「ふむ、これはこれは」
なかなかいい場所だと、哲也は思う。
空の水色と、本殿の深い赤色のコントラストが、一枚の写真のような光景を作り出している。
とりあえず本殿まで歩き、奮発して賽銭箱に千円札を投げ込む。
ただ漠然と、この心のモヤモヤを何とかしてくれと、そんな風に祈ってみた。
そして暖かい日差しを浴びながら、境内を散歩する。裏手の方にそれなりに大きな池があり、その淵に設置されていたベンチに腰をかけた。
透き通った水、ゆったりと泳ぐ赤と黒の鯉。
それをじっと見下ろしながら、冷静に考える。
思い通りになると思っていた、夢。
それが、ままならぬ現実によって乱れていた自分の精神を、安定させていたことは間違いない。
けれどそれが、あんな風に崩れてしまっては……
何か、別の、心の安定剤となるものを探さないと……
ストレスに押しつぶされる自分の姿を想像し、哲也は暗鬱な気分になっていた。
いつの間にか、池の鯉たちが、哲也のそばに集まってきていた。
水面にぱくぱくと口を出している。餌を求めているようだった。
あそこに石でもぶつけてやれば、ストレス解消になるのだろうか……と。
はっ、と自嘲しながら立ち上がって小石を拾い、わざとらしくそれを投げる振りをしてみた。
その直後──
「こらあっ!」
背後から子供の、なにやら妙に和やかな怒鳴り声が響いた。
びくりとして、小石を持ったまま振り返る。
少し離れたところ、立っていたのは、小さな女の子。
小学校低学年、いや、もっと幼い感じもする。
前髪がまっすぐに揃えられていて、少し頬を膨らませた表情はそれだけで可愛らしいが、身に着けている衣装が何より目についた。
それは白い小袖と赤い袴、つまりは巫女装束であり、手には小さな竹ぼうき。
漫画か何かに出てくる巫女さんを小さく縮めたような印象で、自分の娘がこんな子だったら毎日家に帰るのが楽しくなるだろうなあ、などと、結婚願望のまるでない哲也に思わせるほど、微笑ましい外見だった。
この神社の関係者の子供なんだろうか、と、不思議がる哲也に、女の子はずんずんと近づいてきて、哲也の顔をじっと見上げると。
「いきものは、たいせつにっ!」
そんな声をあげた。
「あ、いや……」
思わず動揺して、哲也は手の中にある小石を見つめる。
いや、本当に投げようとしたわけじゃ……と、言い訳しようとするも、女の子は哲也の手ではなく、足元に目を向けていた。
「ん……?」
見ると、黒い革靴の下、草むらに咲いたタンポポを、思い切り踏みつけていた。
「あ、ごめん」
すぐに足をどけると、女の子はささっとしゃがみ込み、つぶれたタンポポを両手で優しく立て直す。すっと直立したタンポポを見て、ほっとしたように息を吐く。
そして立ち上がると、きりっと真面目な表情で、びしっと哲也の顔を指差した。
「だめだよ! おじさんっ!」
「お、おじさん……?」
自分の容姿をそこまで気にする方ではないが、まだ三十前。
流石にショックを受ける。
呆然とする哲也に向かって、女の子はつらつらと。
「花にはみずを! ひとには……あいを! じ、じんせいには……」
格言だか標語だかのようなことを口にするも、そこで言葉が止まる。
どうやら忘れてしまったらしい。
「ユーモアを、じゃないのか?」
「それだっ!」
哲也の顔を指差したまま、忘れていたくせに、ふふんと自慢げな顔をする。
しかしまあ、子供のやることだから良いが、他人を指差すのは失礼な行為だと、大人として教えてあげた方が良いのだろうか、と、そんなことを考えていると。
「あ、こら! 何してるの!」
遠くから声が聞こえた。
目をやると、いかにも学校帰りといった風の少女が、こちらを見ていた。
同じように顔を向けた女の子は、びくっと、その小さな身体を震わせる。
そして哲也に向けていた自分の指に目を戻すと。
「ひとを指さしちゃ、ダメ、なんだっけ……」
そんなことを呟く。どうやら今までも注意されていたらしい。
遠くにいる少女がこちらに向かって駆け出してきた。
ぶるっと身体を震わせて、泣きそうな顔を見せる女の子。
怒られると思ったのか、哲也に背を向けると、ぱたぱたと小走りに、少女とは逆方向、本殿の裏側に向かって逃げ出してしまった。
「あ! 待ちなさい!」
入れ替わりで哲也の前にやってきたのは、その少女。
長い黒髪に細身の身体。身に着けている白いシャツと薄茶色のスカートは、哲也がいつも通勤途中で見かける、女子高の制服だった。
その顔は整っていて可愛らしく、軽く息を切らしながらも自分のカバンを両手で持っている立ち仕草は、いかにも優等生っぽいというか、きちんと躾けられて育ったことが見てとれる。
いやしかし、この少女とは、確かどこかで──
「……まったく、もう」
逃げていった女の子を追いかけるのは諦めた様子で、哲也の前に立つと、丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません、妹が大変失礼なことを……って、あれ?」
哲也の顔を見上げて、きょとんとする。
「あれれ? ええと──哲也さん、ですよね?」
「え?」
哲也は驚く。
「あの、去年……葬儀のときにお会いしたと思うのですが」
「あ、そうか」
どこかで見かけた覚えがあると感じていたが、何てことはない。
去年、自分の母親が死んでしまったとき、その葬儀で顔を合わせていたのだった。
「ええと……ココちゃん、だっけ?」
「はい、覚えていてくれて光栄です」
すっと穏やかな表情を見せるも、思い出した場面が場面だけにか、複雑な表情をのぞかせる。
何でも母方の遠い血縁だという彼女。葬儀のときは、親戚に交じって挨拶をした程度で、話をしたわけではなかった。そのときの彼女は喪服を着ていたため、ずっと大人びた印象で、正直、年齢は自分とさほど変わらないものだと思っていた。
まさか女子高生だったとは……という感想は、失礼だと思うので口にしない。
「ええと……お母さまの件は、ご愁傷さまでした」
気まずそうに言葉を選ぶ少女。
「ああ、いやいや」
しかし哲也は、母から聞いた最後の一言を思い出してしまう。
それは、よりによって──早く結婚して、孫の顔を見せなさいよ、と、そんな言葉だった。
哲也の父は哲也が小さい頃に死んでいて、母は女手ひとつで哲也を育ててくれた。
大学を卒業し、一流企業に就職して、さあこれから親孝行……というところで、自動車事故で、ぽっくり、だ。
ため息をつきたくなるのを
「えっと、君もこの神社にお参りかい?」
「あ、いえいえ。ここ、私の家ですよ」
「……ん?」
意外な答えに、一瞬、戸惑うも。
「ああ、そうか」
彼女の名前はココ。その漢字は──「狐子」。
変わった名前だと、葬儀の後に親戚を通して聞いたところ、何でも神職の一族に生まれた子で、神を守る存在としての「狐」から名前を頂いたと、そんな話をされたことを思い出した。
きっと本殿の正面にあった狐の像が、その名の由来となる存在なのだろう。
それに、さっきの女の子が妹だというなら、姉である彼女もこの神社の関係者だということは容易に推測できることだった。
「なるほど、確かに……狐子ちゃん。君も巫女服とかが似合いそうだ」
色々と気持ちを切り替えるため、敢えて俗っぽい話を振る哲也。
「ふふ、年末年始にはそれを着てお手伝いしてますけどね。人気あるんですよ、私」
そう言って、笑顔を見せた。
嫌味っぽい感じはしない。なるほど、そういった需要はわかっているらしい。
「ま、年配の方限定ですけどね。それに妹の方が人気ありますし」
あははっ、と、目を細めて愉快そうに笑う狐子。
それはまさに年相応の高校生といった感じで──
自分が高校生だったら、間違いなく、一目惚れしていただろう、と。
哲也は、母の最後の言葉を思い出し、目の前の少女を変に意識してしまう。
慌てて目を逸らす哲也。わずかにオレンジ色に染まり始めた西の空を見上げながら、思わず小さく息を吐いてしまう。
笑顔を見せていた狐子は、そんな哲也の姿を見て、ふっと真面目な表情を見せる。
そして立ったまま姿勢を正してから。
「哲也さん」
じっと穏やかな、優しい目つきで、哲也の顔を見つめながら。
「──ひょっとして、何か悩み事でもあるのですか?」
そう訊いた。
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