現実
梅雨の時期、湿った空気が充満する満員電車。
自分と同じようなスーツを着込んだ人間が密着する中、哲也は思い出す。
仕事のやりがいなんてものは、会社の規模や職種だけじゃ決まらない。
大部分は上司の人柄によって決まるもんだ。
大学のときの指導教官の言葉。
就職してから三年目、その言葉の意味を改めて実感し、哲也は月曜の朝からため息をつく羽目になった。
反対側のドアが開き、ドドドド、と、堤防が決壊したかのように人が流れ出て、その後、改札まで続く人ゴミの中を牛歩で進む不快感には、すっかり慣れてしまっている。
夢の中よりも、ある意味で現実感のない、虚ろな気持ちのまま。
巨大なオフィスビルの中に吸い込まれるように入っていく。
社員証を通して入場する優越感は、既にない。
日本有数の大手電機メーカー。今でこそ斜陽ともいわれている業界ではあるが、それでも憧れて入社した会社で、社風も業績も決して悪いものではなかった。
こんな風に憂鬱な気分で出社するようになったきっかけは自明だった。
入社した直後から世話になっていた上司が、事故で、死んでしまったから。
本当に、いい人だった。
仕事の教え方は丁寧で、それでも自立をうながすように指導してくれた。
失敗をしたときも、クライアントに一緒に謝ってくれた。
元々、酒の席は苦手だったが、そういった場で彼と話をするうちに、哲也自身も自然と会話の仕方も覚え──なにより、彼の生きざまを聞くのが楽しかった。
広いオフィス。
自分の席に座り、パソコンの電源をいれてから、再びため息をつく。
窓際、少し離れたデスクから、中年男性の声。
「よう、てっちゃん。俺に挨拶ぐらいしろよなあ」
不快なあだ名で呼ぶその男は、この課の課長で、直属の上司である木谷。
「──すいません。おはようございます、木谷さん」
哲也は立ち上がって頭を下げる。
「おう、おはようさん」
言って、ゲラゲラと下品に笑う。
なんとか目を細め、頬をつりあげる哲也。
苦笑いも板についてきただろうと自嘲しながら着座し、メールの確認を始める。
「それで、今日の定例ミーティングなんだが」
そんな哲也の横顔に向かって話しかける木谷は、急に声のトーンを落とした。
件名に【緊急】という文字が含まれた転送メールを見て、哲也は心臓をしめつけられるような焦燥感を覚える。すうっと全身から血の気が引いていくのがわかった。
「──反省会だ、残念ながら、な」
その日の夜。
哲也は、自宅マンションの近くのコンビニで、缶ビールを買い込んだ。
家に向かう途中、街灯の光を浴びながら、やけくそ気味に一本を飲み干し、マンションのエレベータの中で二本目。そして誰もいない自分の部屋の玄関を開けると、すぐにベッドへと向かい、両手を広げて、仰向けに倒れこんだ。
不快感と、ストレスで、胸の奥が苦しい。
ミーティング中、哲也はお偉いさんたちに、ずっと頭を下げ続けた。
木谷は哲也のことをフォローする口ぶりではあったものの、自分のミスについては一切言及しなかった。それは以前、哲也自身が不安に思い、木谷に何度も確認するように念押ししたことで、その確認を木谷は怠っていた──
天井を見上げながら、何度目かわからないため息をつく。
イライラとか、木谷への怒りとか、そういった感情は正直、あまり沸かない。
不条理に対するやりきれなさ、自分自身ではどうにもできないことに対する不自由さが、全身をけだるくさせ、胸をつぶして呼吸を苦しくする。
愚痴を言おうにも、大学時代の友人と会う機会も少なく、彼女ともだいぶ前に、別れた。いや、そもそも他人に愚痴を言うなんてことが性に合わない。自分の弱さをひけらかすようだし、何よりそんなものを聞かされる相手に対して罪悪感を覚えてしまう。
外に向けて感情を発散できる性格ならば、こんな痛みを味わうこともないのだろうか……と、身体を起こし、コンビニの袋から缶ビールを取り出そうとして。
枕元に置かれた、薬の紙箱が目に入った。
Galantamine 8mg と印字されたそれは、一年ほど前、親戚からもらったもの。
夢見が良くなる薬だと、そう言われた。
半信半疑だったが、一応もらっておいて、ネットで調べてみると、そもそもは認知症の治療に使われる薬だが、特に海外ではそんな目的で利用する者も多いと書かれていた。
すなわち、夢を見やすくするためとか──明晰夢を体験するためとか。
明晰夢。自分自身が夢であることを自覚しながら見る夢のこと。
慣れてくれば、自分の思い通りに、夢を変化させられる──
面白そうだなと、そのときは素直にそう思った。
しかし、どうもまったく副作用がないわけではないらしい。それに、認知症の治療に使うということは、つまりは脳に何らかの影響を与えるということ。
漠然とした恐ろしさを感じたものの、それを言い始めたら、風邪薬や痛み止めの薬も似たようなものか、と。
哲也は、まあとりあえずと、一度だけ試してみることにした。
ネットに書かれていた通りに服用して眠ってみると、確かに普段より妙にはっきりとした夢を見ることができた。しかしあくまで夢は夢であって、自分でコントロールできるようなことはなかった。
翌朝、普通に目覚めて、まあこんなものかと、残りは薬箱に突っ込み、そのまましばらく忘れていた。
夢なんか別にどうでもいいと、そのときは確かにそう思っていたから。
しかし、上司が死んでしまって、仕事に対するやりがいがなくなり。
現実での、充実感が、徐々に失われていくと──
哲也は薬の紙箱を手にとった。
すでに十錠近く消費している。
試してみるたびに、コツが分かったとでもいうのか。
今では、すべてを思い通りに──とまではいかないが、同じような夢の光景を再現できるようになった。
それも、現実と区別できないほどに、はっきりとした形で。
そこに現れる少女。
彼女に対する恋愛感情や、ましてや性的な欲求など存在しない。
顔も、身体も、性格も、わからないのだから。
けれど──彼女だけは、自分を理解してくれるのだと。
そう思えるだけで十分だった。
彼女が手を握ってくれるだけで、現実でのつらい気持ちを消し去ることができた。
それこそ夢の中に置き去りにするかのように。
しかし、依存するのはよくないだろうと。
これまでは週末に一回だけ、使うようにしていた。しかし……
哲也は箱から錠剤を一つ取り出すと、躊躇なくそれを飲み込んだ。
ビールで喉の奥まで押し流すと、部屋の明かりを消す。
もういっそ、仕事なんて辞めてやる、と。
そんなことを思いながら、着替えもせず、そのままベッドに倒れこんだ。
肉体的にも、精神的にも、疲れていたのだろう。
間もなく哲也は、眠りに落ちた。
──普段通りのやわらかい光景。なんともいえない穏やかな空気。
そして、ひとりの、少女。
握ってくれた手は、とても温かい。
一緒にいるだけで、幸せを感じることができた。
顔も、身体も、性格も、わからないけれど。
自分の理想とする存在であることは間違いない。
なぜなら、これは──自分の夢なのだから。
いつもよりも長い時間、一緒にいる感覚。
訪れる場所も、おとぎ話のような壮大な城であったり。
花が咲き乱れる高原であったり。
今までに、見たこともない、まさに心が洗われるような光景だった。
しかし、それでも。
いつものように、別れの場面は訪れる。
握っていた手を、少女がそっと放す。
その感覚に、たまらなく歯がゆさを感じていた。
名残惜しい。別れたくない。それに何より……寂しい。
つらい現実に戻りたくないと、そんな気持ちなのだろうか。
いや、違う……この感情の高鳴りは……
正面に、ぽつりと立つ少女。
思わず手を伸ばす。
そしてそっと、頬のあたりを触れていた。
その柔らかさと、温かさが、甘い香りのように脳に吸い込まれ。
湧き上がるのは恍惚感。
そのままゆっくりと、優しく、なぞるようにして。
少女の首元の方に、自分の手を下げていく。
とくんと。
心臓がはねあがったのは、現実のものだったか。
その衝撃で、肉体が、脳が、覚醒を始める。
世界がぼんやりと崩れ始め、いつものように目が覚める感覚。
まもなく視界には、自分の部屋の天井が一面に広が
「──ねえ」
この世のものとは思えない、声。
無理やり、強引に、引き戻された。そんな感覚を強く覚える。
哲也は慌てて、辺りを見回した。
自分の部屋ではない。ここは、まだ……
ぎゅぅぅ、と、右手に、圧迫されるような痛み。
声をあげそうになるのを何とかこらえ、正面を向く。
立つのは、ひとりの少女。
こちらに向かって手を伸ばし、哲也の手を、強く、強く、握りしめている。
顔も、身体も、性格も、わからない。
しかし、その存在感は、現実よりも色濃くて。
少女は確かに。
自分の目の前に、はっきりとした形で、そこにいた。
周囲は、漆黒の闇。
じっと、哲也に向けられるのは、視線のような何か。
その感覚だけが、おどろおどろしく伝わってくる。
金縛りのように動けなくなり、ただ呆然と、立ちすくむことしかできない。
やがて少女は。
すうっと、一歩。
間をあけずに、もう一歩。
それで哲也の前に立つと。
その曖昧な顔つきを、耳元に近づけて。
言った。
わたしは、だれ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます