7─偉大な先輩
日の光が、まぶたに透ける。
「…、」
ゼータは、重たい体をよじり、寝返った。
ここは…長椅子の、上。
見慣れた、部屋。
自宅の居間。
「っと…あれ」
記憶は、ローの工房で途切れている。
「…俺、…何してたっけ」
鍵に魔法を込めて、
…その後は…どうしたのか。
自力で戻ってきたのだろうか。
空腹。
濁る意識の中、それだけははっきりと感じる。
最後に口にしたものは───酒場での、あのカクテルか。
彼はふと、時計に目をやった。
11時。
…?!
「えっ、…?」
確か、会合で、ローが依頼人と会うのは午前中と言っていたはず。
11時…もう終わっているか、あるいは応対の最中か。
「あああ!寝坊したやばい!」
着ているものは昨日のままだ。
ということは、風呂に入っていない。
さすがにこれでローの客に会うわけにはいかない。
彼はソファーから飛び起きた。
魔力をこめて、指を振る。
テーブルに乗っていたロールパンの袋が開封された。
パンはひとりでに、オーブントースターの中に突っ込んでいく。
それを見届け、ゼータは風呂場に直行。
服を脱ぎ捨てて洗濯機に投げ入れ、浴室に飛びこんでドアを閉める。
イプシロンに貰った、シャンプーとリンスにボディソープ。
「ふふ、いい匂い」
これがとても気に入りだった。
だが、
「──っと、急がなきゃ」
大してゆっくりしている暇もないので、取り急ぎ一通り洗って流して、入浴はおしまい。
タオルを取って体を拭きつつ、洗濯機に洗剤をぶち込み、スイッチを入れた。
「あーー着替え!服!」
服は2階、寝室のタンスの中だ。
なぜ着るものを支度してから風呂場に向かわなかったのかと自分で自分を叱咤しつつ、腰にタオルを巻いて、風呂場を出るべく扉を開けた。
「よう」
「~~~~~?!!」
一人暮らしなのに、まさか風呂場の外に人がいるとは誰が思うだろうか。
ゼータは思いっ切り飛び退いた。
飛び退いて、後ろ向きにこけて、こっぴどく尻餅をついた。
「何だ、びっくりした?」
目の前のシグマはけらけらと笑う。
「おはようさん。
よくお休みだったじゃねえか、ん?」
「ど、どどどっから入った?鍵かかってたろ?」
「お前昨日ローの工房で寝たろ。
ここの鍵なら、お前のポッケに入ってたよ。俺がここまでお前運んできたの」
ローの工房で寝た。
つまり、そこからずっと寝っぱなしで、
…当然、魔法を使った以降の記憶などないわけである。
「寝落ちして、シグマに送ってもらった…
うわ…めっちゃ情けねえ俺…」
「まあまあ、いいんじゃねえの」
シグマが、手を差し出す。
「なかなか可愛い寝顔だったぜ、お・ち・び・ちゃん」
「うぜえ…つかキモい…
せっかく今ちょっと感謝したのに…」
ぼやきつつも、ゼータはシグマの手を借りて立ち上がった。
「あー、ったくフルチンじゃねえか。早く着替えろよ」
「フルチンじゃねーよ、タオル巻いてんだろ!」
「わかったからパンツ履け」
まったくもって、反論できる余地がない。
ゼータは、シグマをリビングへ促し、自分は2階へ着るものを取りに走った。
寝室。
しばらく、服を取ったりしまったりという作業にしか来ていない。
ここで生活はしていないから、あまり汚しはしない。
だがつまるところ掃除もしていないため、微妙にほこりが目立ってきている。
今度暇なときに掃除をやろう。
そう自分に言い聞かせる。
…これは多分、しばらくやらないやつだ。
そんなこんなはともかく、ひとまず身支度を整えた。
まだ濡れた髪は適当に団子にしてまとめあげ、肩にタオルをかける。
「あとでちゃんと拭く。うん」
階段を下り、居間に入る。
…シグマが、冷蔵庫を覗き込んでいた。
「お、来た。ちゃんとおパンツ履いたか?」
「履いたよ!ったり前だから!
ていうかお前、何やってんの?」
「いや、冷蔵庫すげえ何もねえなって」
彼は思い切り──多分、ゼータに聞こえるように、ため息をついた。
「お前何?霞食って生きてんの?」
「冷蔵庫何もなくないだろ、牛乳入ってただろ?」
「消費期限おとといの飲みかけ牛乳瓶が一本入ってるだけな状態は、普通世間一般じゃ何もねえっていうんだよ。よっく覚えとけ」
「えっ…期限切れてた?」
「切れてたよ。
お前今俺が言わなかったら今日、腹壊して仕事になんなかったぜ?
な?だから俺様に感謝しなよ?わかった?」
そう言いつつ、シグマは重たそうな買い物袋を出してくる。
野菜や肉、卵、飲み物やその他諸々を、冷蔵庫に詰めはじめた。
「…え、あれ、何それ?」
「さっき買ってきたの」
「いいのに、そんな」
「よくねえよ。依頼だもん。
ファイからの、俺様への正式なご依頼。ゼータの家にいるならついで、ってさ。
最近買い物に出てる様子がないから食料尽きてるんじゃねえかって、心配してたぜ」
ようやくゼータは、自分の不摂生を恥じた。
「…ごめん、
…ありがとう。助かるよ」
「いいっての。
つーか、さっさと頭拭け。
濡れたまんまにしてると毛根弱ってハゲるってよ?」
「えっ嘘、ハゲはやだ」
「で?パンのおかずは何がお好み?」
「俺たまご好きー」
「了解。くそ美味い目玉焼き作ってやるから、座ってな」
テーブルの上には、さっきオーブンに入れておいたロールパンがふたつ、こんがりと色づいて、白い丸皿に行儀よく並べられている。
ゼータはそれを目の前に、椅子をひいて腰掛ける。
長い薄緑の髪をタオルで挟んで、よく拭った。
シグマはというと─────
テーブルを挟んでゼータの向かいに座り、机上のグラスに新しい牛乳をついでいる。
ガス台の方では、ひとりでにフライパンに油がひかれ、次いでハムが焼かれ、さらに卵が割り入れられていく。
「秘技・勝手にクッキングだ。良いだろ」
シグマがウインクした。
秘技でも何でもない。一般的な魔法だ。
物に擬似的に力を加え、移動させる魔法。
先ほどゼータがやった、ロールパンをオーブンに入れるのもそれである。
ただ、物を運ぶことはできても、ふたを開けたり、卵を割ったりという微妙な作業は困難を極める。また、複数の物体を同時に動かすのも難儀だ。
ゼータもまだ、卵を綺麗に割ってみせることはできなかった。
素直に、シグマは凄いと思う。
「ローの依頼人、結局午後になるらしい。
まだ余裕あるから、ゆっくり食え」
ハムエッグの皿が、ナイフ、フォークを引き連れて、テーブルの上に着地した。
「ほい、お待ちどおさん」
「わーいやった、いただきまーす!」
半熟の黄身を割り、切り分けた白身に絡めて、口へ運ぶ。
絶妙な塩加減、胡椒のきき具合。
「うっま!」
ゼータは思わず、声を漏らした。
「だろ?俺すごい?」
「すごい!」
「ウェーイ俺様最強かっこいい~」
「かっこいいはどうだか」
「は??そこは素直にかっこいいー!って誉めるとこだぞ??」
シグマはちょっとむくれてみせたが、
「あ、そういや」
ちょうど何か思い出したらしく、ゼータの方に向き直った。
「昨日、鍵、すっげえ上手くできてたぞ」
その言葉に、ゼータのパンをちぎる手が止まった。
「まじ?」
「マジ。
お前が寝ちゃってから試してみたんだけど、結界を全く傷つけないで箱開けられた。抵抗ゼロ。
やっぱお前才能あるよ」
「や、でもあれは…シグマ手伝ってくれたから」
「俺は魔力貸しただけ。出力はお前だろ。
よくやったよ」
体の芯が熱くなる。
魔術において天才的な能力を持つシグマ、組合の中でも随一の実力者。
魔法の大先輩だ。
彼に誉められるのは、至高の喜びだった。
「おい、そこは『ウェーイ俺最強かっこいい~』だろ、ノリ悪いな~」
シグマの笑い声が、どぎまぎするゼータを落ち着かせ、肩の力をほぐす。
「食ったら支度して、早めにローんとこ行くか。
昨日、ゼータ寝ちゃってちょっと心配してたからさ」
「そっか。そうする。
あっでも、洗濯物まだだ」
「んなもん、後で魔法でゴァーッて乾かせ、いけるいける!」
「ゴァーッてなんだよ、ウケる」
「ゴァーッはゴァーッだろ、なんかこう適当にさぁ、おわかり?」
わからない。
わからないけれど、楽しかった。
この、何ともふざけた、ひどく適当な、素晴らしい魔法屋。
俺も早く、追いつきたい。
そう胸に秘めつつ、ゼータは、仕上げに牛乳を飲み干した。
「ごちそうさまでしたー!」
「はいお粗末さーん!
さあー今日も仕事だ仕事ー!
テンションくっそ上がんねえー!!」
「うそつけおっさん!超ご機嫌じゃねーか!」
シグマのこめかみに、青筋が入った。
「おっさんじゃねーよクソガキ!
早く支度しろオラァ!!」
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