第十一話 「稀な経験」
「この書は封じるためにある」
直斗が固い声で言うと、葉月が震える手で筆を握る。
墨が垂れてしまわないか、文字が汚くなってしまわないか。
ありとあらゆることが葉月の頭を駆け巡るが、もう書くしかない。
そう腹を括って筆を降ろすと、その瞬間に葉月は不思議な感覚に陥った。
先程までの不安や迷いは消え、躊躇いなく筆を動かすことができている。
動いているのは自分の手なのだが、心底驚いているのも本当だ。
そんな不思議な感覚にようやく慣れ始めた頃、直斗の声がぴたりと止んだ。
終わったのかと葉月が顔を上げるが、直斗はじっと一点を見つめている。
その視線を追ってみると、預かった本に注がれていた。
もしかしたら字が汚いと思われているかもしれない。
とても依頼主に返せるものではないと思われているかもしれない。
一気に全身の毛穴が開き、冷や汗が出そうになった葉月。
しかし視線を手元の本から直斗に移そうとした直前、ぐらりと文字が揺れた。
「え……」
何が起こっているのか把握するよりも先に、目の前の文字がどんどんと崩れていく。
せっかく慣れないながらも葉月が書き連ねてきた直斗の言葉が、段々と頁の中央に集まっているのだ。
その異様な光景に葉月の顔が引きつり始める。
そろそろ耐えられなくなりそうになった時、頁の中央から黒いものが生えてきた。
「こ、これ……!」
葉月がその正体を理解した直後、ばしっという鋭い音を立てて目の前に紙切れが飛んできた。
貼り付けられたそれをまじまじと見た葉月は、ようやくそれが札だということが分かる。
しかし葉月がそれを理解する頃には、すでに目の前の札は幾重にも重ねられた後だった。
「水無瀬さん。それ、掴んで持ってきてくれる?」
直斗の言葉に困惑しながら振り返ると、にこにこと胡散臭い笑みを貼り付けているのが見えた。
そして再び手元の本に視線を移すと、こんもりと盛り上がった札の山がある。
要は、このふくらみを掴んで持って来いと言っているようだ。
しかし葉月はためらってしまう。
この札の下にうずもれているものに、触りたくないのだ。
「ねぇ、はやく」
もちろん直斗は葉月の言いたいことが分かっているようで、有無を言わせない口調で言う。
表情は笑っているのだが、雰囲気が全く笑っていなかった。
葉月はぐっと手を握り込むと、意を決して札の山を掴む。
そして勢いよく引き上げると、思いの外それは長かった。
葉月の勢いに負けて少しも抵抗することなく、本からずるりと引っ張り出されたそれ。
最早こぶし大の太さにまで肥大した本の虫が、途切れることなく本から出てくる。
葉月が思わず口を大きく開くと、すかさず幹哉が助けに入った。
引っ張り出された本の虫の胴を掴み、思い切り腕を後ろへ引く。
するとまた勢いがつき、ずるずると伸びてくる。
しかし幹哉はそれで終わらせず、綱を引くようにしてどんどん引っ張り出す。
そうして突然ぬるんと本から離れた本の虫を、直斗が二本の指を立てて刀のような動作で腕を振る。
直後にぼたぼたという音をさせ、本の虫がばらばらになった。
葉月は何が起こったのか分からず、本の虫の一部を握った腕を突き出したままになる。
少しずつ状況を理解し始めると、恐る恐る直斗と幹哉を振り返った。
「ずいぶん育ったな」
「そりゃそもそもあんな本だし、彼女の字を食べたんだからね」
「動きが鈍くてよかったな」
「これだけ太ってれば、流石にねぇ」
先程の出来事などどこ吹く風で、二人がいつも通りに会話している。
葉月はそれについていけず、未だに本の虫の頭部を握ったままだった。
いや、そこが本当に頭部なのか、分かったものではないが。
「お疲れ様、水無瀬さん。君のおかげで一番の問題は解決したよ」
「は、はぁ……」
「でも。まだやることはあるから、それはみーちゃんに任せてこっちに来て」
「ん」
「あ、はい……」
直斗がしれっと言うと、幹哉が手を差し出す。
葉月は何が何だか分からないまま、言われた通りに手に持っていたものを幹哉に差し出した。
幹哉はそれを受け取ると、さっさと奥へ引っ込んでいく。
「ほら、早く座って。時間がないんだ」
直斗にそう言われて、葉月は慌てて座敷に座り直す。
そうして言われるがままに再び筆を握ると、先程と全く同じことをやり直させられた。
しかし先程とは違い、多少の緊張感は残っている。
それは失敗したらどうしようというものではなく、直斗にせっつかれているからだ。
先程と同じく声が固いので、とてつもない圧を感じる。
そうして懸命に直斗の言葉を書き写し続けると、直斗の言葉が途切れた。
何か間違えたのだろうかと思った葉月が顔を上げると、にこりと笑っている。
その笑みの意味が分からず困惑していると、いつもの軽口が飛んできた。
「今度こそ、お疲れ様。初めてなのによく頑張ったね。感心、感心」
「えっと、それは……どういう?」
「終わったよ、水無瀬さん。封じ直せたんだ」
その言葉を聞いた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。
知らず知らずのうちに溜め込んでいた疲れが、一気に押し寄せたのだろう。
思わず深いため息をついた葉月を、直斗がにこにこと見下ろしていた。
「みーちゃんの方も片付けが終わったみたいだし、休憩しようか」
そう言われて店を見ると、もうどこにも本の虫のかけらは見当たらない。
葉月が集中している間に、幹哉が片付けたらしい。
壁に寄り掛かりながらぼーっとしている葉月をそのままに、直斗が預かった本を取り上げる。
ばらばらと頁をめくりながら中身を確かめ、しっかりと頷くと店の奥へ消えた。
いろいろと聞きたいことはあるのだが、今の葉月にそんな気力はない。
店の奥から香ってくる美味しそうな匂いに、暴れ回る腹の虫を大人しくさせる方を優先するのだった。
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