第七話 「本の虫の挑発」
「本の虫……」
「うん、そうだね。とても本が好きで、読書に没頭してる人の例えだ」
そのことはもちろん葉月も知ってる。
しかしそれが怪異だとは思わないし、そもそも本の虫とは人を現す言葉だ。
それなのに先程のシミが怪異だなんて。
「あのシミが……。あれ? シミ……? 確か、古い本によくいる小さな虫もしみって名前じゃ……」
「へぇ、知ってるのか」
葉月が思い出したことを口にすると、幹哉が感心したようにこぼす。
自分も割と本を読むことがある葉月は、一時期古本屋でいろいろと買っていたことを思い出した。
その本を開いた際に、中から小さな虫が這い出てきて酷く驚いたようだ。
無意識に身震いをした葉月を見て、直斗がくすくすと笑う。
「急に出てきたら驚くよね、あれ。女の子は特にかな。そう、そのシミが元だね。今回の怪異はあの虫の特徴を備えている」
そう言いながら直斗が預かった本を指さした部分に、葉月はじっくりと目を凝らす。
言われてみれば、それは確かに虫食いのように見える。
ということは、先程の墨をたらしたようなシミが書かれている文字を食べたのだろう。
しかし文字を食べるとは……。
いや、そこが怪異たる所以なのかもしれない。
「本来、本の虫っていうのはそんなに強力な怪異じゃない。はっきり言って取るに足らないよ。でもね、今回は最悪の事態だ」
最初はにこやかに話していた直斗が、急に深刻な声色になる。
葉月は良からぬ気配を察して、ちらりと幹哉に視線を向けた。
すると幹哉も深刻な顔をして、じっと本を見つめている。
「水無瀬さん、この本の表紙には何て書かれてたかな?」
「え? えっと……。三原家、魔封じ之書……です」
「うん、そうだね。じゃあ、魔封じってなぁに?」
「魔を封じている……あ!」
「そう、魔を封じるための強力な呪文を、この本の虫は食べちゃってるって訳」
直斗に誘導してもらってはっとした葉月は、思わずちゃぶ台に乗った本に目を落とした。
まだ何も始まっていないのに疲れたようにため息をついた直斗は、開いた頁をとんとんと叩きながらなおも言葉を続ける。
「さて問題です。魔を封じている強力な呪文を食べられたこの本は、一体どうなっているでしょうか」
「封じる力が、弱くなっていると思います! それに、そんなものを食べた本の虫は、通常なら考えられないほどに強力になっているかもしれません!」
「大正解! 筋がいいね、水無瀬さんは」
手を叩いて葉月を褒めた直斗だったが、またすぐに疲れたような顔になる。
ぐでっとちゃぶ台にもたれかかるようにしながら、ぺらぺらと頁をめくっていく。
「通常の本の虫ならば、特別な香でいぶしてやればすぐに解決です。むしろその場で祓った後に封じ直してすぐにお返しができます、が! 今回はまず本の内容を把握して、それに適した方法を考えて、実行して、封じ直して、しかも必要があれば三原さんの元に出向いて蔵自体に対策を取らなければならないかもしれません!」
「そ、それは相当……」
「はい、面倒くさいです!」
最初は教師のような口調だった直斗も、これから取らねばならない手順を並べ立てていくうちに、段々と駄々っ子のような口調になる。
それだけ大変なことになっているらしく、自分が手伝えることはあるだろうかと葉月は不安になった。
実際に依頼者である三原に実害が出ていているのだ、対処は一刻も早い方がいい。
しかしまさか、本の虫という弱い怪異のせいで強力な魔が害をなすという構図になるとは。
まさに、風が吹けば桶屋が儲かるである。
「こんな大事に、私が関わっていて大丈夫でしょうか……」
思わず本音をこぼすと、直斗が顔だけ動かして葉月を見る。
そして幹哉に視線を向けると、大きくため息をついた。
「そうでなければ君に残業を頼んだりしないし、ただでさえ厄介なんだから手伝ってもらわないと僕が疲れちゃう」
「大丈夫だ。何をすればいいかは俺たちが指示するし、危険な目にはあわせない」
「そういうこと! さて、じゃあ僕はこの本を一通り読んでみるよ。ミーちゃんたちは夜食を用意してくれる?」
ということになって、葉月は幹哉と一緒に勝手場に引っ込む。
初めて入る勝手場は、どうやら完全に幹哉の領域のようだ。
てきぱきと動く幹哉に、葉月は声がかけづらい。
食器棚の皿の配置から付近の置き場所に至るまで、流れるように動く幹哉に口を挟む余地がないのだ。
「あ、あの! 明智さん!」
勇気を持って声を掛けると、幹哉ははっとして動きを止めた。
どうやらすっかり葉月がいることを忘れていたようだ。
「私は、何をすればいいですか」
「あぁ、悪い。じゃあ米を三合、研いでくれるか」
「は、はい……!」
そうして米びつの場所を教えてもらった葉月は、お釜を膝に抱えて戸を開けた瞬間に手が止まってしまった。
目の前には一合升。
普段目にすることのないものに、一瞬目を見開く葉月。
使い方が分からない訳ではないが、実際に目にすると戸惑ってしまった。
「使い方は分かるか?」
葉月の後ろからひょいと顔をのぞかせた幹哉に声を掛けられ、思わず肩が跳ね上がる。
急いで振り返ると、幹哉が真っすぐに見つめていた。
「わ、分かります! 初めて実物を見たのでびっくりしただけですから」
「そうか、三合頼むな」
「はい!」
元気な返事を聞いた幹哉は、すぐに引っ込んで手を動かす。
どうやら今は副菜を作っているようで、規則正しい包丁の音がし始めた。
葉月は一合升を手に取ると、慎重にお米の量を計る。
特に難しい作業ではないが、一粒たりともこぼしたくないというのが窺えた。
しっかり三回お米を移し終えると、流しへ持って行く。
そこには古民家でよく見かけそうな、タイル張りの広い流しだった。
葉月は先程の直斗の話を頭の中で反芻しながら、お米を研ぐ。
直斗は封じ直すといっていたが、あの本をどうするつもりなのだろうか。
紙と共に食われたあの文字たちを、また元に戻すとなると確かに重労働だ。
三原が危ない目に遇っている状況から考えても、一刻を争うだろう。
直斗だって、できれば今すぐに危険を遠ざけたいはずだ。
それに夜食を用意している時点で、今夜は徹夜かもしれない。
そんなことを考えながら、葉月は幹哉の手伝いをする。
考え事をしながら豚汁を掻きまわしていると、幹哉が声を掛けてきた。
「怪異なんて、よく受け入れたな」
「……はい?」
「いや、怪異なんてオカルトめいたもの、よく信じる気になったなと思ってな」
「オカルトめいた……」
確かに、本の虫と聞けばそれはただの本好きの人を現す言葉だ。
それが本当に自らの意思で動いて、害をなす存在をも表しているだなんて思ってもいなかった。
しかし葉月が目の前で実際に困り果て、藁にもすがる思いで頼りにしてきた依頼人を見ている。
本人と言葉を交わし、その空気に触れているのだ。
それをオカルトという言葉一つで片付けていいとは思っていないし、そんなことはあり得ないし気のせいだとも思わない。
確かに非現実的だとは思うが、葉月自身もその非現実的なものによって救われているのだ。
「信じるというか、実際にそこにあるものなので……。本の虫も封じられている魔も、私が知らなかっただけでずっと存在していたんだと思います。そういう世界に私が好き好んで踏み込んだんですから、新参者の私が拒絶するだけ無駄なんだと思います。だったら、私にできることはしっかりと学んでいくことかなって」
くるくると鍋を掻きまわしながら言う葉月に、幹哉は少し驚いた表情をする。
しかしそれに葉月は気付かない。
葉月がいかに落ち着いていて覚悟のある言葉を口にしたのか、その本人すら分かっていないようだ。
幹哉は何気ないつもりで言ったであろう葉月を見て思わず笑みをこぼすと、そうかとだけ言って食器を並べる。
そろそろご飯がよそえそうなので、膳の準備を進めていく。
葉月が味付けをした豚汁も、自分たちとは違って新鮮な心持ちになる。
長らく自分の持ち場だった勝手場に、誰かが入ってくるというのも悪くないと思ったのだ。
すべての盛り付けが済むと、店の方に持って行く。
本来ならば裏で食事をとるのだが、今回ばかりは特別だ。
食事をとりながら直斗の見立てに耳を傾け、次の手を打たなければならない。
膳を持った幹哉たちが小上がりの座敷に目を向けると、面倒くさそうにちゃぶ台に寄り掛かりながら本をめくる直斗がいた。
どうやら本当に面倒くさい事態になっているようだ。
「望月さん、お夜食ですよ」
葉月がそう言うと、待ってましたと言わんばかりに直斗が身体を起こす。
すぐに本を脇に退けたかと思うと、大げさに深呼吸をして良い匂いを吸い込んだ。
「わぁ、良い匂い! お腹空いた!」
そう言ってにこにこと正座をする直斗に、葉月は思わず笑ってしまう。
大人然とした振る舞いをする時もあれば、こうやって子供のような行動をする時もある。
それなのに違和感を抱かないのは何故なのか。
恐らく、もうそういう人だと割り切っているからかもしれない。
葉月が直斗の前に膳を置くと、幹哉が葉月の分を置いてくれる。
その後で幹哉が自分の手元に膳を置いたのを見た直斗は、改めて手元に並ぶ料理を見た。
炊き立てのご飯にほうれん草のお浸し。
玉ねぎと人参と豆腐の入った、たっぷりの豚汁。
あとはたくあんとほうじ茶。
しっかりとした食事ににんまりと笑みを浮かべる。
三人揃って手を合わせると、それぞれが食事を楽しむ。
どの品も絶品で、直斗の疲れはじんわりと癒されていった。
「この豚汁、いつもと味付けが違うね。水無瀬さんが作ったのかな?」
「あぁ。これも美味い」
「ありがとうございます。このほうれん草のお浸しも美味しいです」
「みーちゃんの料理は美味しいからね!」
「たまにはお前も作れ」
「えー、やだぁ」
「望月さんって、お料理できるんですか?」
「こいつのも結構美味いぞ」
「そそ。僕はね、割とそつなくできちゃうの」
そんな会話をしながら食事を終え、幹哉が膳を下げる。
葉月も手伝おうとしたが、食後のお茶の用意を言い付けられてしまった。
一段落したところで三人が座敷に集まると、いよいよ直斗が本を引き寄せて話を始めた。
「今回は本当に厄介だよ。この本の虫は、重要な頁ばかりを食い荒らしてる。そのおかげで、封じられていた怪異がじわじわと漏れ出してるんだ。これは修繕にかなり手間がかかるだろうね」
「強力なものを食ったことで知恵を付けたか」
「そうだね、だから水無瀬さんを挑発したんだ」
「え、挑発……?」
思ってもいなかった直斗の言葉に、葉月はきょとんとしてしまう。
そんなことをされているつもりはなかったせいで、どういうことなのか理解できないのだ。
「そうだよ? わざわざ僕たちの前に姿を現して、次の瞬間には他の頁に逃げる。それは立派な挑発行為だ」
「あれって、見つかったから逃げたんじゃなかったんですね……」
「本の虫は食った文字を取り込んで姿を成す。この本の文字は墨で書かれているから、見つかりそうになったら文字に擬態してやり過ごすことだってできるんだ」
「それなのにわざわざ動いて見せて、捕まえてみろと言わんばかりににじんで他の頁に隠れる。どう? おちょくられた気分は」
「それを聞くと、ちょっと腹が立ちますね……」
本の虫の行動の意図を聞かされ、葉月は思わずむっとした。
それを隠すことなく、じとっと本を睨みつける。
今この瞬間もこの本の中で自分のことを見下しているのかと思うと、もう一度叩いてやりたくなった。
「現に僕が調べていた時は、一度たりとも姿を見せなかったよ。怖がられてるのかな?」
にこにことしながらわざとそんなことを言うあたり、直斗も葉月のことをからかっているようだ。
本に落とした視線のまま直斗に顔を向けると、にこりと笑って受け流されてしまった。
「そういう訳だからさ、これは徹底的にやってやろうと思います。これから必要なものを言うから、二人は用意してね」
「はい、分かりました」
「じゃあ、水無瀬さんを挑発したらどうなるのか、この本の虫に教えてやろう」
「私が怖い人みたいになってませんか?」
「うん?」
「その延長で、この本に封じられてる魔とやらも対処しないとな」
「明智さん、私の話聞いてます?」
「何はともあれ、また本を引っ叩く前に解決してしまおう!」
「どうして私を怖い人みたいに扱うんですかぁ!」
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