地球最後の花火

二階堂くらげ

地球最後の花火


隕石の接近が観測されたのはそう最近のことではない。アメリカの宇宙開発局が一番最初にその隕石を見つけた。隕石は遠く銀河系の外からやってきて、何の因果か、この地球の軌道の上に重なっているようだった。

最初は誰もがそれを信じようとはしなかった。衝突の恐れがあるとか、大人もそんな曖昧な表現を使って誤魔化していた。しかし隕石衝突予想日は、悲しいかなあまりにも正確だったらしいということが、科学者ではない僕らにもじんわりと現実味を帯びて滲んできた頃には、もう人類が滅ぶ予定日の前日になっていた。

明日地球が滅ぶ。

正確に言えば、人類が滅ぶ。多分。ベテルギウスが爆発したときは五光年以内の生物は全滅したらしい。微生物から最近に至るまで。いったい今回の衝突でどれくらいの放射線が出るのか、はたまたまったく出ないのか、人類が生き残れる望みはあるのか、それこそ科学者ではない僕にはわかりようもなく、僕はただの一般市民として滅亡を享受するしかない。

僕はひとりの女の子に電話をかけて、家を飛び出した。時計の針はもう夜の七時を回っていた。街は混沌としていて、ルールなんてものは最早存在しなかったが、悲しむべきか、鉄道はまだ走っていた。僕は片道切符を握りしめて、市外へと走る電車に飛び乗った。

特急で三十分。僕は初めてその街を訪れた。

厳密に言えば、目的地までの通過点として、通ったりしたことはある。けれども、こうやって能動的に、意識的に、街を訪れたのは初めてだった。夜だ。暗い。街灯の数が僕の街よりもずっと少ない。寂しさがそこら中を漂っている。「これでいいんだよ」とでも言うような顔をして、だだっぴろい空地に生え放題の草も、電柱も、アスファルトも、悟ったような顔をして眠っている。なんて静かで、穏やかな街だろう。パニックに陥って絶望を絶望で上塗りするしかない僕の街に比べて、ここは僕が最後に居る場所としては、とても相応しいように思えた。

 案内されるがままに僕は初めての道を歩いた。

明日地球が終わるなんて少しも実感できていない僕は、初めての街を楽しんだ。道すがらにも民家しか見えない。ときどきある個人経営だと思われる店も、古びたシャッターがぼんやりした街灯の明かりをしっとりと跳ね返すばかりで、昼まで営業していたのかはまったく見当もつかなかった。

郊外とはこういうものなのか、と思いつつ、結構歩いた。十五分くらいして、僕は目的地まで到達した。

 公園では、彼女がベンチに座って僕を待っていた。僕が彼女の目の前に立つ。彼女がふと視線をあげ、顔を綻ばせる。お互いに最初にかける言葉を探しながら、僕らは微笑みあった。

「ねえ、今日なんの日だかわかってる?」

 僕が尋ねる。

「え、なんのことを言ってるんですか。もしかして地球最後イブのことを言ってるんですか?」

 誤解があってはならないので、という風に彼女が返した。僕はそのわざとらしいまでの慎重さに思わず笑った。

「そうだよ。なのに出会ったら途端になんだか勝手に顔が笑けてきちゃって、ああ、会えてよかったって」

「そうですね」

 自分の顔が綻んでいたことを知覚して、彼女はぎこちない表情になりながら、いっそう笑みを明るくした。僕は照れくさいようでその表情から視線を外して、彼女の隣に座った。

「会ってくれるとは思わなかった」

「どうしてですか」

 彼女はあくまでも慎重で、いつでも誤解を恐れる。彼女ほど聡ければ、僕との付き合いが深ければ、読みを外すなんてことはまずないのに、いつでも聞き返してくれる。

「だって、明日地球が終わるんだよ。時間がないじゃん。残り少ない時間を過ごす相手に、僕を入れてもらえるなんて、思ってなかった」

「ああ。なるほど。そうですね、いつまで居られるかはわかりません」

 バツが悪いように、彼女は視線を地面に落とす。

「家で母が一人なので、やっぱり最後はついていてあげたいですね」

「そっか。それが一番かもね」

 どこかでコオロギが鳴いている。随分早いものだなと遠くに思いながら、僕は漠然とブランコを眺めていた。

「彼氏とは、いいの」

「あの人は、親とか、友達と過ごすんじゃないですか。あんまり連絡、とってないです」

「そっか」

「最後ですからね。一番大切な人と過ごしたいですよね」

 彼女は足元の草を一握り、ぶちっと毟り取った。それからその草をさらにぷちりぷちりと千切って、ひとしきり終わってから、それを思い切り空に放り投げればいいものを、そうしたいのを躊躇うようにはらはらと散らした。

「色々な人と色々な話をしましたけど、会いたいと言ってくれたのはあなただけです。だから、来ました」

「そりゃあ運が良かった」

 彼女が次の葉を毟る。明日の陽が昇る頃には、ベンチの周りはすっかり綺麗になっているかもしれない。

「ずっと思ってた。最後の日が決まってるなら、最後に話す相手はきみがいいなって」

「本当ですか」

「本当さ。ねえ、一応確認しておくけど、本当に明日地球が終わると思ってる? 僕らは、明日死ぬんだって」

「どうでしょう、わからないです。終わっちゃうのかもしれない、くらいにしか思ってないです」

「そっか、そっか」

 良かった、と思った。ありがとう、と心の中で小さく唱えた。

この際最後だから――僕はそう言って、切り出そうとしていた。けれどそれがいかに無粋なことか、気付いた。僕は最後まで今まで通り、何も変わらずに、粛々と生きる。それが、きっと一番美しくて、締めくくるにしても相応しいと、この瞬間に確信して少しも疑わないで済む。ぶれずに済む。僕はこの時間を心から楽しめる。明日地球が終わっても。

「ねぇ、約束してたでしょ。花火するって。持ってきたんだ、やろう」

 良いですね、と二つ返事で僕らは花火に火をつけた。家庭用の花火に興じるのは小さい頃田舎の祖母の家に遊びに行っていた頃以来で、実に十年は昔のことだった。鮮やかな懐かしさが胸に染みわたっていく。あの頃は母が、祖母が、僕に一本一本花火を渡してくれた。姉と同じのを、順番で――。

 ライターで火をつける。しばらくぷすぷすと燻ってから、花火が噴き出した。緑色の閃光が真っ直ぐに夜の公園の闇を貫く。目に見えない何かを焼き尽くすような音を立てて、花火は燃える。煙が立ちのぼる。緑に染められている。

ああ、どうか焼き尽くしておくれ。僕の情けなさも。

そう願うと同時に、花火は緑色から明るい赤に変わった。焼却音も少し変わる。煙の色も赤くなって、少しだけ僕の気持ちがふわっと浮き上がった気がした。

僕の手に持っていた花火が終わる。それから追いかけるように、僕の花火で点火した彼女の花火も終わった。その瞬間、僕は僕らの最後をほんの少し連想した。胸がぞくりとした。急に鼻がつんとして、目が熱くなった。それは僕が初めて、終わりを現実として予感した瞬間だった。

「やっぱり寂しいね」

 ごまかすように言う。声が震えそうになるのを抑えるので精いっぱいで、か細い声だった。気づいてか気づかないでか、彼女はいつもどおりに「そうですね」と返した。彼女は僕の寂しさなんて少しも知る由もないのに、どこか優しい響きがした。

 僕は次の酒を飲むように、次の煙草を吸うように、花火を求めた。僕はさっきと同じ花火を取り出して、躊躇う自分の心から出来る限り目を背けて、無心で火をつけた。火をつけてさえしまえば、あとは綺麗な花火が僕を夢へと誘ってくれる。僕は何も考えずに済むのだった。

「これで最後か」

僕が呟く。

「まだわかりませんよ、って言おうと思いましたけど、そういうあれじゃないですよね。雰囲気じゃ」

「いいんだよ、何を言ったって何をやったって、遠慮することなんてひとつもない」

ねえ、これがもし本当に最後なら、きみはどうするの。そう聞きかけて、僕もやめた。僕も案外、人のことは言えないのかもしれない。

「もし、もしもだけど、もし本当に今日で終わるなら、くらげを飼ってみたかった」

「くらげですか」

「そう。くらげが好きだった。一回飼ってみたかったんだ。それから、フグとか食べてみたかったな。自分で育てているハエトリソウが虫を元気に食べるシーンも、最後まで見れなかった」

 花火が噴き出す轟音が、僕のかわりに「なーんてね」とでも言ってくれるみたいで、僕としては助かった。花火が鮮やかな閃光を放ち始めるとき、僕はいつも笑った。子供のように無邪気なようで、自分を嘲るような、自分でもよくわからない笑みだけれど、彼女との間ではすべてが心地よかった。

「わたしは、そうですね、誰かを心から好きになってみたかったです。ドラマとか少女漫画みたいに、心から、もうなにも、他には見えなくなるくらい。きっと、幸せなんでしょうね」

「今の彼氏は」

「あの人はいい人ですけれど、今日連絡くれませんでしたし」

「はっはっは、そっか。良いねぇ」

「何がですか?」

「僕は彼氏さんに勝った気分になれるよ」

 花火をつけながら話す。今度の花火は少し細くて、少し軽い音を立てて軽快に燃えた。

「誰かのことをわかってるつもりになるのは傲慢だし失礼だって思うから、きみのことはわかってるなんて言うつもりはないんだけどね。それでも僕はきみの良いところをたくさん知っていて、僕は君が好きで、君は僕に会ってくれる。僕みたいな落ちこぼれの凡人にだよ。こんなに自慢できることはないよ。もし明日も人類が滅亡してなかったら、隕石なんて嘘のようにどこか遠くに過ぎ去ってしまったら、僕は今日のことを一生友達に自慢して生きていくよ」

「大袈裟すぎますよ。それに自慢にもなりませんよ。でも、嬉しいです」

 丁度そこで二人とも、花火が消えた。二人で花火の火をつかってお互いの花火を点けていたので、随分と久しぶりの静寂が公園に訪れることになった。

 静寂の合間に、彼女が言う。

「嬉しいなんて思っちゃいけないのかもしれませんけど、思い上がってるみたいに思われるかもしれませんけど、最後に過ごしたい相手に選ばれるって、嬉しいことなんですね」

「そうなのかな、わからない」

「そうですよ。私は親友たちに、会いたいって言えませんでした。心からの友達なのに。会いたかったのに。親友たちは私に会いたくなかったらどうしようとか、やっぱり家族と一緒に居る方が優先だよなぁとかって考えたら、怖くなったんだと思います」

 僕は「そっか」と言って、少しゆっくり、花火を取り出した。次の花火を急かすのは間違っている気がして、僕は花火セットで一番細い花火を取り出して、彼女にそっと手渡してから、ライターをベンチに置いた。

「僕は逆の心配をしていた」

「どういうことですか」

「きみは優しいから、僕が会いたいって言ったら、無理をしちゃうんじゃないかなって。断られる分には、そりゃあ残念には感じるけど、無理させるよりはずっとましだった」

「それなら大丈夫ですよ。母も、もうそろそろ眠ると思いますから」

「そっか。良かった、本当に。ああー」

 僕は耐えきれなくなって、ライターを手に取る。自分の花火に火をつける。一番細くて、華奢な花火。

「今日会えて、本当に良かった。なんだか今、あらためてふとそう思ったよ」

「何ですか急に。酔ってるんですか?」

「実はお酒も買ってあるよ」

「本当ですか、何がありますか」

「ビールとチューハイとハイボール」

「いいですね」

 細い花火は閃光を球状に散らした。色はあまりついておらず、白っぽい。他の花火に比べるとあまり派手でインパクトがあるとは言えなかったが、それなりに明るくて、なんだか安心した。こういう花火が居なければ、花火セットとして成り立たないというか、花火の一連の流れを安心して終えられないような、そんな気がした。

 それからは、古い二人の共通の友人の話なんかをした。その中には僕が付き合っていた女の子や、彼女が付き合っていた男なんかも混じっていた。つくづくどうしようもない連中ばかりで、みんな見栄っぱりで、僕らはそんな一生懸命な彼らを、愛せずにはいられなかった。二人はできる限り友人を褒め称えた。もはやどれほど人を褒められるか、語彙とセンスと愛を競い合っているようだった。思い出は限りなく美化される。思考が百パーセント人に伝わることがない以上二人がそのビジョンを完璧に重ねることはできないが、二人ともそれを理解して勘違いだとわかっていながらも、同じ思い出を共有しているような感覚の心地よさに全身で浸っていた。それに僕たちの思い出がどれだけぶれても、褪せても、忘れても変わっていっても、僕らが同じ時間を過ごした事実は、何一つ変わりようもないのだということが、僕を強く勇気づけてくれた。

「あとは線香花火だけだよ。八本だ」

「あ、線香花火の前に、乾杯しませんか」

「いいよ、もちろん。何飲む」

「ハイボールで」

「そうだと思った」

 プルタグが缶の蓋を押し開けると、気化した炭酸ガスで飽和した缶の中の空気が弾けて外へと溢れだす。その瞬間の音が、何よりも遥かな贅沢に感じた。

「乾杯」

缶をぶつけ合う。缶で乾杯なんて、いつ以来だろうか。今までしたことがあっただろうか。柔らかいアルミ缶、中にはなみなみの液体、鈍い音がほんの僅かに鈍く起こり、衝撃が手に伝わる。僕はじんとして、「もう一回」と言って、彼女が口元に運びかけていた缶をわざわざもう一度出してもらって、もう一度缶をぶつけた。

泣きそうになる。僕らは今まで、いったい何回の乾杯をしてきただろう。

「僕らは最後まで、付き合わなかったね」

 僕がぽつりと零す。

「まだ最後じゃないかもしれないのに、そんなこと言って良いんですか」

「明日もし地球が終わらなくてもいいよ。全然問題ない」

「そんなこと言って、あとから恥ずかしくなってわたしに連絡しなくなったりしないでくださいね」

「はは、それはあるかもしれない」

「ダメですからね」

 笑いながらビールをずるずると啜る。水色の缶に閉じ込められた不格好な三毛猫が、僕らを見ていた。

「あのときのこと、後悔してない?」

「あのときって、いつのことですか?」

「僕を振ったとき」

 彼女はああーと頼りなく語尾を延ばして、そう来たかという感じで考えていた。それでも彼女が次の言葉を探し出すまでにそうはかからなくて、そのことが彼女の言葉の信憑性を裏付けていた。

「わかりません。いつでも付き合えるつもりで居たのに、急に明日最後なんて言われて、あのとき受けてればなーって思う気持ちもありますけど、あのときに申し出を受けるのはやっぱり無理でした」

「いいんだよ、ありがとう。ごめんね」

 僕は慌てて取り繕う。

「ごめん。ちょっとだけ、後悔して欲しかったんだ。ちょっとなんていうか、ルール違反だよね。恥ずかしいよ、まったく。はは、ほんと、いやあ」

 僕はずっとずっと長い間、彼女のことが好きなのかわからないで居た。好きになっても良いのかも。けれども少しずつ自信がついて、僕が社会に復帰し始めた頃、次に会ったら言おうと思いながら、ずっと言えなかった。彼女と僕は既に最高の時間を過ごせる関係で、彼女は僕に絶対の信頼を置いてくれて、しかもそれを打ち明けてくれた。僕はその信頼を裏切りたくなかった。僕と彼女の絆も、今までの最高の時間も、これからつくる新しい思い出も、僕の好意だとか色恋なんてもので安っぽくしたくはなかった。

 そうこうしているうちに、彼女には新しい彼氏ができて、僕らはあまり話さなくなった。彼女みたいな人が放っておかれるわけがないことくらい、僕にはわかっていたはずだったのに。

「あのとき、わたしをさらっていってくれれば良かったのに」

 彼女が言葉を零した。彼女は非常に慎重で優しいほかに、とても誠実なので、それと相反するようなお茶目な心や罪を犯したい気持ちも併せて持っていることは知っていたけれど、それを表出すようなことを言うのは少しだけ意外だった。

「それ、どれくらい冗談なの?」

「自分でもわかりません」

 つくづく、憎い人だなと思う。ますます、愛おしくなる。

「僕は自分が好きになった人が、浮気なんてしない人で良かったって心から思った。あの時は。それが僕の言い訳」

「じゃあ本音はなんですか?」

「僕にそんな甲斐性はなかった」

 彼女は声もなく笑った。会話に一定の間が置かれる。テンポを整えてから、彼女は今日一番の笑顔で言った。

「そうだと思いました」

 僕は顔を苦々しくしわくちゃにして、わざとらしくビールを煽った。中身はまだ結構残っていて、寧ろぬるくなってしまっていた。

「もし本当に今日が最後なら、きみを抱きしめたかもしれないけど、そうしようって気にならないから、僕も心のどこかではまだ明日も世界は続いてると思ってるのかも」

「いや、恰好つけてるつもりかもしれませんけど、今も甲斐性がないだけですよね」

「ほんと良い性格してるよね!」

 僕は笑った。彼女も笑っていた。きっと生え放題の草も、フェンス際に咲いたままの紫陽花も、古錆びたブランコも、一緒に笑ってくれていた。

「僕がきみを彼氏から奪い取らなかったから僕がきみのことをそんなに好きじゃなかった、みたいには思わないでおくれよ」

「わかってますよ。じゃなかったらわたしだってさっきから、そんな自分が好かれてるの前提みたいな調子乗ったこと言いませんよ」

「良かった。よし、じゃあそろそろ線香花火しようか」

 花火を取るためにベンチから立ち上がる。目線が高くなる。空の見え方が少し変わって、僕はふと上を見上げた。花火の煙と公園のど真ん中にそびえる古ぼけた街灯のせいで、星はほとんど見えなかった。

「きみが教えてくれたあの本を、星を眺めているみたいだって言った人が居たらしい。僕がわざわざ取り寄せて買ったもんだから、そのときに一緒だった友達がちょっと調べたんだ」

 線香花火を拾い上げる。今までのどの花火よりも細く、儚い。

「きっと僕らの花火も誰かが見ていたよ。近所のおばさんでも、地球がまだ地球の技術じゃ観測できないような遥か遠くから地球を見ていた宇宙人でも、あるいは神様とかでも良いけど、誰かが。きっとその誰かは僕らの花火を見て、星を見ているみたいだって思ったと思うよ」

「星ですか」

「そう。会話も、ひとつひとつの言葉も、一本一本の花火も、美しく煌いて、小さく輝いて、それはもう星だったよ。じゃなかったら、宝石かな。今日の僕らはあの本に負けないくらい美しかったと思う。僕みたいな落ちこぼれのダメ人間が、誰かが今日も絶望で涙してる地球最後の日に、こんなに小説にも負けないくらい美しい時間を過ごせたことが、やっぱり僕には奇跡にしか思えないよ。幸せだ。もし最後だけが、自分の満足感だけが人生を決めるなら、僕の人生は最高だった。色々あったけど、言う事ないよ。きみには感謝しかない。本当に、本当にありがとう」

 僕は飲んでいたビールの缶を置いて、線香花火に火を点けた。

「きみにとっての一番は僕じゃないかもしれない。それで良いんだ。それで――」

 線香花火が燃える。細い紐の首の先に出来た赤い小さな球は、春に見た赤い星に良く似ていた。赤い球は泣き出す直前の子供みたいにぷるぷると震えて、僕はそれを、一緒に泣いてしまいそうな気持ちになりながら見ていた。彼女は何も喋らずに、ただしっとりと僕と一緒に僕の線香花火を眺めていた。今日初めて、機知に富んで思慮深く聡い彼女が、僕に返事をすることができなかった時間だったのかもしれないと、ぼんやりと遠くに思う。

「ねぇ、手を握るくらいは、許されるかな」

 僕が言うと、彼女は返事をするよりも早く、僕の左手をとって両手で包み込んだ。

「許されないと思います」

 僕は笑って、ありがとうと一回だけ言った。線香花火は佳境にさしかかって、その小さな体に精一杯の火花を散らしていた。ぱちぱちと音意地らしい音が鳴っている。僕が彼女の身体にこんなにも意味を伴って触れるのは、これが初めてのことだった。

 ずっとこうしたかった。でも彼女は僕の彼女じゃない。他の誰かの大切な人で、僕とこんなことをしてしまっては、その約束の意味が薄れてしまう。だから少しだけにしておこう。僕と彼女の二人だけの秘密、二人だけのちょっとの罪。思えば僕と彼女が最初に出会ってからしたことも、一緒にこんな罪を犯すことだった。

あとほんの少しの間、彼女の体温を感じていられる。

この線香花火が落ちるまで。


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