チェーン
翌日の朝、泊まって何もしないのも悪い気がして、朝6時に起きた。台所に行くと、既に茜音さんのお母さんが朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。早いね」
「洗面所借りますね」
「いちいち断らなくていいよ」
「ありがとうございます」
レバーを押して、水を出そうとするも出ない。あれ?と思って初めて、レバーは引くんだったと思い出す。いつも無意識のうちに顔を洗っているから、レバーを押すのが習慣になっていた。うん、他所の家は慣れない。迷惑だろうし、早めに家に帰ろう。
顔をざばざば洗って、軽く目が覚める。台所に行って、手伝うことはありますかと尋ねる前に、「茜音呼んできて」と茜音さんのお母さんに言われた。朝ご飯はもうすぐ出来上がるらしい。もっと早く起きるべきだったなと思った。
茜音さんの部屋の前に立ち、ノックをしようとした時、丁度茜音さんが部屋のドアを開けた。
「あ、おはよ」
「お、おはよう」
少しどもってしまう。まだ、茜音さんの顔を直視できない。
「ご飯、もうすぐできるってさ」
「ありがと。それでさ」
「何?」
「今日、帰っちゃうんでしょ?」
「……流石にね」
「そっか」
茜音さんは続ける。
「じゃあさ、今日、連れて行きたい場所あるの」
「どこ?」
「秘密。さ、朝ご飯食べいこ」
「う、うん」
朝食の後、茜音さんに連れていかれた場所は、川だった。上流の方なのか、大きい岩が水面から顔を出している。流れは穏やかで、木々の影が水面に映っている。
「ここはさ」
茜音さんは嬉しそうに言う。
「田んぼの水引いてる大きい川じゃないんだけどね」
「凄く、綺麗でしょ」
俺は頷く。
川は澄んでいて、川底まで見えた。小さい魚もいた。俺の家の近くでは考えられない川だ。
「ここ?連れて行きたい場所って」
「そう。ここが良かったの。それでね」
「?」
「大貫くんのこと、好きだよ」
そう言って茜音さんは、俺に顔を近づけた。茜音さんは目を閉じた。俺もそれに倣って、閉じる。
多分、川の水面には、俺と茜音さんのキスが、映っているはずだ。
ほんの数秒の後、俺は目を開けた。茜音さんも、顔を赤らめてこちらを見ていた。
「大貫くん」
「何?」
「また、会おうね」
そう言って茜音さんは小さな紙を渡してきた。
「これ、メールアドレスだから」
「ありがと」
「私、先帰るね」
そう言って茜音さんは駆けて行った。
俺は茜音さんのお母さんにお礼を言って、自転車にまたがった。家に帰らなきゃいけない。後ろを向くと、茜音さんがいた。
「大貫くん!」
茜音さんに呼ばれると、何だか嬉しい。次呼ばれるのは、いつになるかわからないけど。
「またね!」
茜音さんは大きく手を振っている。
「ああ、またね!」
俺も茜音さんに、大きく手を振った。
俺は茜音さんのメールアドレスの書いてある紙をそっとバッグにしまい、ペダルを踏んだ。
チェーンは少しだけ、音をたてた。
夏の音 @yojouhan
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