星々
途中、コンビニに立ち寄って、ペンと紙と懐中電灯、新聞、飲み物、食べ物を買った。
ペンと紙があれば、小道に入ることもできる。どこで右に曲がったとかをメモして、後で左右逆に変えれば、来た道を戻れる。それでも、ややこしくなるから、十字路を曲がるのはよそう、と思った。
懐中電灯は、ないと困る状況が想像できたから。新聞は、最悪の場合、電話ボックスの中でこれに包まって寝ようと、そう考えていたから、買った。
コンビニに立ち寄った後は、メモを取りながら、何回か曲がってみたりした。それから、何回か小さい山を越えた。そして、自転車で登るには大きな山に差し掛かる。なんとなく、この大きな山を登りきることができたらいいかな、と思っていた。曲がって迂回することもできたはずだが、折角だからと、スピードを上げて、真っ直ぐ進む。
息を切らしながら、ゆっくり、山を登る。錆びたチェーンは音を立てる。自分の息遣いが聞こえる。木洩れ日がコンクリートを流れる。森を吹き抜けるやわらかな風が、息を切らした俺の肺に染み込む。森の涼しさは、坂を必死に登る俺を落ち着かせる。へとへとになりながらゆっくり進む俺を、木の葉の触れ合う音が見守る。坂を早く登り切りたい俺を、チェーンの不協和音が急かす。ひぐらしの鳴き声がこだまする。ペダルを踏む。木洩れ日が急に消える。辺りは薄暗さに包まれる。ひぐらしは鳴く。苦しさに耐え、ハンドルを強く握る。右のペダルに重心をかける。落石注意の看板。左のペダルを思い切り踏む。土の匂い。多分、もう少しで山の頂上に——もう少し、あと少し、ここを頑張れば——。
持たなかった。気づくと、俺は自転車を降りて、ゆっくり歩いていた。急に明るくなる。木洩れ日は、またコンクリートに模様を刻む。息を切らした俺の首から、汗が滴る。上を向くと、大きくなった入道雲が、空を覆おうとしていた。太陽はかろうじて雲に隠されていない。俺はなんとなくそれを確認すると、大きく息をついて、自転車にまたがる。ひぐらしが鳴く。最初の、重いペダルを踏む。Restartだ。
そんなに息も切れないうちに、視界は明るみ、視野は広くなる。頂上についた。あまり蛇行していない、山道らしくない道が伸びている。道の先には、広闊な田んぼが広がる。川も見える。ぽつぽつと、家も見える。瓦葺の屋根のものが多く、田舎らしさを感じさせる。景色を一通り楽しむと、思い切り地面を蹴る。自転車に飛び乗り、ブレーキをかけずに、まっすぐ坂を下る。つもりが、すぐにスピードが怖くなって、ブレーキをかける。そんな自分が格好悪くて、誤魔化すように口笛を吹く。下り坂のスピードが、汗で濡れたシャツをなびかせる。風がぼうぼうと耳に響き、何も聞こえなくなる。それでも、口笛を吹く。心地よかった。
坂も緩やかになり、あと少しで平坦な道になると言うところで、ブレーキを握っていた手をゆるめる。俺は度胸がないんだな、と軽く自嘲する。スピードは少し上がり、風を感じながら俺は田園風景に溶け込んだ。
しばらく田んぼを走っていると、急に辺りが暗くなった。田んぼの中の、活き活きとした緑色が、翳る。先ほどのもくもくとした柔らかな雲が、毛羽立ち、空を黒く塗りつぶしていた。これは一雨降るな、と思ったが、周りは田んぼだらけで、雨避けできそうな神社すらない。民家ならちらほら見受けられるが、流石に勝手に上がり込む訳にもいかない。近くの川の奥の方に、橋が架かっていたので、その下で雨宿りしようかと思った。
そう思った時、空が光る。夕立だ。雨がぽつり。ぽつり。ぽつ、ぽつ、ぽつ。乾いたコンクリートを、黒く塗りつぶしていく。雷鳴が轟く。空はもう既に真っ黒だった。コンクリートはどんどん、あっという間に黒に染まる。
雨はもうザーザーと降っていた。早く、橋の下に行かなくちゃ、と自転車を走らせる。コンクリートに水が染み込む。異様な臭いがする。急ぐ。チェーンが音を立てる。雨も音を立てる。肌に雨が当たる。シャツは重くなる。橋まで意外と遠いと気づいた時、ずぶ濡れになってもいいんじゃないかと思った。雨に濡れても、関係ないじゃないか。もう、雨なんてどうでもいい。泊まる場所も。何もかも。そう思った時。
「あの、どこ行こうとしてるんですか?」
傘を差した制服の少女が立っていた。
急いでいて気づかなかったが、人が歩いているのに驚いた。確かに民家はあったけれど、周りに学校は見当たらない。
「聞いてますか?」
「あ、すいません、急いでいるので。雨に濡れてしまうので」
濡れても別に構わなかったけど、そんなことを正直に話してもどうにもならない。
「どこ行こうとしてるんですか?」
「あそこの、橋の下で…」
「増水しますし、ぬかるみますよ。溺れたらどうするつもりなんですか」
そう言えばそうだ。大雨のなか川沿いに行くのは危険だ。
「じゃあこの辺りに、神社とかお寺とか、もしくは公民館とか、ないですか」
「それなら、私に着いてきて下さい」
そう言って少女は小走りした。誰かもわからない人の心配をする、優しい人だと思った。少女は傘をさしているから、後ろ姿はよく見えない。
小走りする少女と同じスピードで追いかけるから、必然的に普通に漕ぐのよりも遅い。そう思って、声をかける。
「あの」
少女は走りながら振り向き、
「どうかしましたか?」
と言った。
「えと、場所だけ教えて下されば、自分で行けるので」
「神社とかお寺は、ないんです」
「え?」
「だからあそこの、私の家に、雨があがるまで」
少女が指をさした先には確かに民家があった。
「……流石にそれは、遠慮させていただきます」
「雨があがるまでだけです。気にしないで下さい」
「いえ……」
「全然構わないので」
この少女に逆らっても無駄だと思った。でも、優しいんだな、とも思った。
「……お言葉に甘えます。ありがとうございます」
「どうも」
少女はそう言って、前を向いた。俺はまた、小走りする少女を追いかけた。二人とも、無言で。
そんなに時間はかからなかったと思う。でも、何も話さない気まずい雰囲気は、時間を長く感じさせる。もちろん、かなり濡れてしまった。 少女の家は、少し古めの、大きい一軒家だった。表札には、「榊」とある。
「あ、私、榊茜音です」
茜音という少女はくるりと振り向き、傘をぱたぱたさせて閉じた。ちょっとした動作が、可愛い。だけど、あまり笑わない。疲労感、あるいは寂しさのようなものが顔にある。
「えっと、大貫聖です」
「ヒジリさん、珍しい名前ですね。あの、上がってって下さい。お茶、出しますよ」
「いえ、雨があがるまでここに居させていただくだけで充分です」
「じゃあ、私もここにいます。お話しませんか?」
「は、はい」
茜音さんは、玄関のドアの前に座った。俺もそれに倣う。俺も茜音さんも、雨を眺める。
なんでだろう。俺なんて、ただの赤の他人なのに。なんで、俺のこと気にかけるんだろう。
「外から人が来るの、珍しいんです。それも、この辺りに住んでる人の親戚でもない人なら尚更」
疑問が顔に出ていたらしい。なんだか、家出少年だってことも、バレてそうだ。
「えーと、大貫さん、何年生ですか?」
「3年生です。中学」
「じゃあ、私の一つ下、だね。私、高校1年生なの」
茜音さんは、俺の一つ上。少しだけ、お互いを知って、ぎこちなさがなくなる。それでも、雨を眺めたまま、お互いを見ないで、話す。そしてまた、茜音さんは笑わない。
「榊さん、どうして、私を心配してくれたんですか?」
「何だか寂しそうだったから」
そう言った後、茜音さんは何やら小さく口を動かした。でも、何を言っているのかはわからなかった。
「……そう、見えましたか?」
「雨に濡れたって構わない。そう、思ってたんじゃないかな」
図星だった。なんでこんなに、俺の考えている事がわかるのか。俺は、他人の気持ちがわからない。同時に、他人の気持ちがわかる人が不思議だ。
「雨に濡れたって構わないなんて、普通の人は思わないよ。大貫くん、全然急いでなかった。だから、寂しそうに、見えた」
全然急いでないのと、寂しそうなのがどうして一致するのかわからないけど、どちらも本当だった。自然は俺に干渉してこないから、寂しさは際立つ。そしてそこまで俺の感情を理解できる茜音さんもすごい。
「そう、ですか……」
「なんか偉そうにごめんね。確かに雨はどうでもいいかもしれないよ。でも、どうでも良くないこと、沢山あるから」
「……」
茜音さんは優しい。でも、茜音さんもまた寂しそうに見えるのは、なんで?
「ところでさ」
「?」
「敬語使わなくていいから。タメで話そうよ。あと、茜音って、呼んで」
「流石に、呼び捨ては無理ですよ」
「したら、茜音さんって呼んで。あと、敬語はやめてって」
何故か、茜音さんは懇願するように付け足した。敬語?なんで怖がるんだろう?
「う、うん」
そう言うと、茜音さんは少しだけ、微笑んだ。でもまたすぐに、笑わなくなった。
急に雨が強くなる。光る。俺と茜音さんは黙る。雷が鳴る。また、光る。俺は茜音さんの方をチラッと見た。茜音さんは、こっちを見ていた。目が合う。
ここで俺は初めて、茜音さんの顔をはっきり見た。今まで、茜音さんの顔を真正面から見ていなかったことに驚いた。可愛い。どきどきした。俺は恥ずかしくなって、目を逸らしてしまった。
「大貫くん、可愛いね」
そう言って茜音さんは笑った。笑った茜音さんは可愛いかった。茜音さんも可愛いね、とは言えるはずもなかった。
なんとなく、聞けそうだったので、彼氏いるか尋ねて見ようと思った。
「茜音さんは、彼氏とかいるんですか?」
そう訊いて、茜音さんの表情は固くなった。俺は後悔した。訊くんじゃなかったと、後悔した。気まずい空気が流れる。しばらくして、俺がごめんなさい、と言おうとした時に、茜音さんは口を開いた。
「彼氏に、フラれたの」
ああ、やっぱり、訊いちゃいけないことだったんだ。俺って、馬鹿だったんだな。
「……ごめんなさい」
「でも、もういいの」
そう言う割には、気にしてそうだった。辛い顔をしていた。空に目を向け、泣き出しそうな顔をしていた。もう、いいの。絶対良くないやつだ。確信できる。でも、俺は、関われない。
俺は最低な人間だ。見知らぬ少女に心配されて、雨宿りさせてもらってるのに。俺が彼女にした事は、彼女のトラウマを、掘り出したことだった。
「……」
「……」
雨は降る。音を立てて降る。雨の音は、沈黙を深める。光る。轟く。それだけだった。
どのくらい時間が流れただろうか。急に玄関のドアが開いた。
「こんな雨なのに、雑巾干したままだったわ……あら?茜音、おかえり。その人は?彼氏……じゃあ、なさそうね」
茜音さんのお母さん、らしい。
「さっき会ったばっかり。雨降って、困ってそうだったから。」
「すいません、勝手にこんな……厚意に甘えてしまって」
「全然構わないわ。それより、ウチ上がんなさい。しかし、それにしても茜音、家出少年を拾ってくるなんて」
なんで家出少年ってわかるんだろう。そう思っていると、
「ここに来る人なんて限られるわよ。ここに親戚がいるなら、家族で一緒に来るはずだしね。丁度あなたくらいの年齢でここに来るのは、家出くらいのものよ」
と言われた。その通りではあったのだが。
「すみません、ありがとうございます。雨が止んだら、すぐ行きますので」
俺がそう言ったとき、茜音さんは家に入っていった。茜音さんとちゃんと謝らなきゃ、と思った。本当に、恩を仇で返してしまった。このままでは、嫌だ。
「もう6時よ。止んでから、どこに泊まるつもり?危ないから、泊まってきなさい」
そんな時間だったのか。思えば、夕立って夕方に起こるもんな、と当たり前の事に気づく。そんなことより、茜音さんのお母さん、家出少年を警察に届けるどころか泊めていかせるなんて、優しいにも程がある。茜音さんも、優しかった。それなのに俺は……。
「流石に、それは……。」
「私は、あなたがここに泊まるより、夜一人で行動される方が困るの。ここは、ただでさえ評判の良くない村なの。不法投棄、飼えなくなったペットをこんな山奥で放したり、それと度重なるレイプ事件。こんな田舎だからバレないとでも思ってるんでしょうかね。ともかく、あなたは今日ここで泊まってもらうわ。茜音の話し相手になってあげて。」
「……本当に、ありがとうございます」
「その代わり、今日限りね。あと明日家に帰るって約束して。しなかったら警察に連絡するからね」
「……わかりました」
「さ、ウチ上がって」
「ありがとうございます」
家に入り、靴を脱ぐ。体全体が濡れて気持ちが悪い。
「ところで、名前は?あと、何年生?」
「大貫、聖、です。中学3年です」
そう、今は中学生3年の夏休み。部活も引退して、勉強も、やる気にならなかった。心のもやもやを、晴らしたかった。それで、心は晴れたのだろうか。
「大貫くんね。中学生3年生なら、茜音の一つ下ね。背高いから、高校生かと思ってたよ」
「…それより、何か手伝うことありますか?」
「夜ご飯の後、食器洗い手伝ってもらおうかな。ま、とにかくそんな濡れた格好じゃ困るでしょ。着替え、置いておくからシャワーでも浴びて来なさい」
「ありがとうございます、本当に……。」俺は本当にこの家の人が、優しいのだと気付いた。
洗面所に入ろうとした時、丁度茜音さんが出てきた。俺を見ると、少し顔を背けた。
「あ、シャワー、借りますね」
「私に言われても困るんだけど」
そう言って去っていった。茜音さんがいなかったのはシャワー浴びていたからか。
とても気まずい。あのまま、会話が途切れたまま、茜音さんとは話していない。困ったものだ。
風呂場に入ると、湯気がたっていた。少し温かい。そこで俺は一日の汗を流した。この家の人の優しさに、甘えてしまってる。茜音さんも、お母さんにも。なのに俺は茜音さんに……。
その後は、晩御飯まで頂いて、食器洗いを手伝って、寝る部屋を案内してもらって、今は、その部屋の布団で横になっている。疲れた。自転車の漕ぎすぎか、太ももがすごく痛い。まだ8時くらいだったが、まどろみかけていた。その時、部屋がノックされた。
「はい」
入ってきたのは茜音さんだった。
「大貫くん、話、しない?外で」
「……うん」
「外、散歩しよう」
「うん、この辺なら、天の川も見れるかな」
「天の川くらいなら余裕で見えるよ?一緒に行くね」
「……行こうか」
靴を履いて、外に出る。とっくに晴れていて、夜の風が涼しい。家のすぐそこの田んぼのそばで、茜音さんを待つ。茜音さんに、謝らなきゃ。でも、何を?どうすればいいのかわからない。謝ったら、また思い出したくない話題が復活することになる。謝らなければ、なんとなく話し続けることはできる。でも、謝らなければ、嘘っぽい話しか、できない気がした。
すぐに、茜音さんは来た。茜音さんは何も言わずに、俺の近くに——60センチくらい離れた距離に——寄ってきた。その距離は、近いようで、遠い。ちらっと横を見ると、茜音さんは空を見上げていた。俺も、それに倣う。
「歩こっか」
そう言って茜音さんは歩き出す。俺は無言で、その60センチの距離を保って、空を見ながら歩く。虫が鳴く。俺はその鳴き声が、何故かチェーンの音と重なって聞こえた。急いだ時に鳴る、チェーンの音に。
天の川が見える。綺麗だった。本当に。夜は暗い。星は明るい。青白く輝く星、赤く光る星、その星達を天の川は包む。綺麗だ。本当に。
茜音さんの表情には、固い何かがあるように見えた。俺も茜音さんも、空を見上げて歩くだけで、何も話さない。60センチの距離は居心地が悪い。虫の鳴き声がする。チェーンの音が重なる。チェーンの音は、虫の鳴き声は、急いでいるように聞こえる。
沈黙が辺りを包む。俺は歩く。茜音さんも歩く。時間だけ、過ぎていく。虫の鳴き声はするが、それがいっそう静寂を際立たせる。虫の鳴き声はいつしかチェーンの音として聞こえるようになっていた。何かが、何かを急かしていた。何を謝ればいいのだろうか。多分、茜音さんも話したい事があったから、俺を誘ったんだと思う。俺は、茜音さんに詫びたい。嫌な思いをさせたままにしたくない。でももし、謝って余計に茜音さんが嫌な思いをするとしたら?わからない。俺はどうすればいいんだ?俺にはわからない。わからない。何もかもわからない。それなのに、何かしなきゃって思う。
60センチの距離は縮まらない。遠ざかりもしない。天の川は、一人と一人を、見守っていた。
「あのさ」
ふと、茜音さんが空を見上げたまま、口を開く。沈黙を破ったのは茜音さんだった。
「私、置いてかれたの」
茜音さんは、初めてこっちを向いた。悲しそうだった。
「何も知らないで、わからないで、行っちゃうんだ。私を置いて。それで、私はその人を追いかけて、見失ったの。見失ったら、自分がどこにいるのか、わからなくて。結局、迷子になっちゃった」
茜音さんはまた、空を見上げた。
わからない。茜音さんに何があったのかも。茜音さんが何を言いたいのかも。なんて答えればいいのかも。でも、何か言ってあげたい。偉そう、って思われるかも知れない。だけど、茜音さんもまた、弱い、一人の子どもだ。俺もまた、そうだ。弱くて、一人だから、俺は居場所がなかった。安心できなかった。茜音さんもまた、居場所がなくなって、安心できなかったんだ。だから、俺は安心させてあげたい。弱い、一人の子どもにできることはそんなことしかない。いや、できるかもわからない。俺はただ、茜音さんの、寂しそうで悲しそうな顔を見たくないだけだ。茜音さんは、大切な人に、置き去りにされたから。
「最後、あの人は急に敬語になって、ごめんなさい、もういいですって、言った」
黙っていればいいかな、とも一瞬思った。黙っていれば、茜音さんを怒らせることもない。偉そうな事は、言えないし、悟ったフリをするのも嫌だ。だから、黙っていようかと思った。それでも。何もしなければ、何も変わらない。俺は寂しそうな茜音さんを見たいのか?茜音さんの気持ちはわからない。一つ下の異性に、自分の弱さを、孤独を、晒すその気持ちが、わからない。わからないから、関わらない。そうすると、変わらない。今まで、ずっとそうして来たのかもしれない。他人の気持ちなんて、今まで真剣に考えたことがなくて、他人の気持ちがわからないんじゃなくて、他人の気持ちから逃げてたんだ。自分を、変えたいなら、今しかない。そんな気がした。茜音さんは、置いていかれた。誰が置いていったのかは、わからない。私、置いてかれたの。茜音さんの言ったことが、頭の中に響く。俺はどんな言葉を、かけてやればいい?俺は、キリストにはなれない。茜音さんを、導くことはできない。でももし、一匹の迷える子羊が、他の一匹を救えるのなら。できるなら、もし、できるなら。
「茜音さん」
長い沈黙を、俺が破る。やる事は、決まっている。やるしかない。俺はこのまま、茜音さんに嫌な思いをさせたくない。関わるのはこわいけど、わからないけど、やってみるしかない。
「ううん。もう、いいの。慰めてもらいたかったわけじゃないし、ごめんね。だから、彼氏は、今いないの」
「茜音さんが失恋してて、俺は幸運だったと思う。ホントに自分勝手ながら、俺、茜音さんに彼氏いたらショックだったよ」
勝負だ。はっきり言ってこんな気障な台詞、俺には合わない。でも、茜音さんが断っても、茜音さんは思い切り笑える。馬鹿じゃないの?って。そんでもし、受け容れてくれたら、俺は嬉しい。俺は茜音さんに安心して欲しい。心の底から、笑って欲しい。
「……え?」
茜音さんは立ち止まり、こっちを向いた。俺も立ち止まり、気恥ずかしさを堪え、茜音さんの顔を、直視する。
「だって、今茜音さんの隣、空席だよね」
すごく緊張する。でもおどおどしたら駄目だ。堂々としなきゃいけない。
「はあ?」
「俺じゃあ、駄目かな」
「4時間前に会ったばっかなんだけど?」
茜音さんは、本気?と言うような目でこちらを見てくる。
「俺、真剣なんだ」
「はあ?」
「真剣に茜音さんが好きだ」
茜音さんには惹かれる。初対面の俺に気を遣う優しさがある。でも何より、弱さを晒け出せる強さに、惹かれた。だから、俺は茜音さんに、安心してもらいたい。その為には、別に今フラれても構わない。馬鹿じゃないの?って思ってくれればいい。俺は、駄目だったかー、って露骨に残念なフリをして、茜音さんを笑わせられればいい。明日には冗談にできるだろう。
茜音さんは下を向く。顔が赤い。可愛い。
茜音さんは、大貫くん、すごいね、と言った。でも、茜音さんは返答を探しているようだ。キモイから無理、とか言われなくてよかった。
「会って4時間で告白とか普通にキモイけど、私のこと、考えてくれてたでしょ。沢山。だから、大貫くんは、優しい。まあ、小狡いけどね。どーせ、無理って言ったら、冗談にしてたでしょ。でもね」
一呼吸置いて、茜音さんは続けた。
「思い切ったことできて、私のこと考えてくれたから。あの人とは違うと思った。だから」
「付き合いたい。大貫くんと」
その言葉に、俺は思わず顔を綻ばせる。まさか、だった。いや、勿論期待はしていた。だけど、妄想だよな、と思ってた。
茜音さんは恥ずかしそうに微笑んでいる。俺も、思わず笑った。
「これから、よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
恥ずかしさが込み上げて来て、茜音さんの顔を直視できなくて、なんとなく空を見上げた。茜音さんも、空を見上げた。天の川は、二人を包んでくれている。綺麗だった。照れと恥ずかしさの混ざった、心地の良い沈黙が流れる。
色々あるな、とつくづく思う。今日家を出た時には考えもしなかったことが起きた。田舎に住んでいる一つ上の彼女ができた。改めて考えてみると、なかなか会いに行けないなと思った。
茜音さんも同じようなことを考えていたようで、
「でも、これって遠距離恋愛じゃない?」
と言った。丁度俺も気にしていたことだけど、休日、電車とバス乗り継いで会いに行けるよな、と思った。
「出来るだけ、会いに行くよ。距離なんて、今の世の中ならどうにでもなる」
俺は格好付けてそう言って、茜音さんの方を向く。そうして——60センチの距離を、一歩で、詰めた。
「似合ってないよ」
茜音さんは、ふふっと、本当に嬉しそうに笑った。それを見て、俺は幸せな気持ちになれた。
「そろそろ、帰ろっか」
「うん」
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