第2話

 玩具が街を崩壊させた日から幾日かが経過した。

 月明かりが窓から斜めに差し込む家の中で少女は儀式の準備をしていた。

 一つしかない部屋の中で、水が少女のうなじから背筋を通って流れ落ちる。たらいから水を手ですくい、次は腕に掛ける。肌の上を細い水流ができ、雫が指先から地面に滴り落ちる。少女ははたと手をとめる。

「こんなの、もうなんの意味もないことなのに」

 小さく吐息を漏らし、これがこの街での最後の仕事だと自分に言い聞かせて、少女はまた細く白い体躯に水をかけた。

 身体を清め、少女は肩より少し下まで伸びる白い髪を手で後ろに流す。亜麻の肌着の上にくるぶしまで届く白く長い衣を頭から被った。

「祭司ピスカ、そろそろお時間です」

 ピスカと呼ばれた少女は、「分かったわ」と返事をして身支度を速めた。織物の飾り帯を腰に締め、皮のサンダルを履いた。出入口の近くにある棚から聖職者の法衣である緋色の外套を取り出し、それを羽織った。女であるピスカはフードで頭を覆い、男に対しての敬意を表明した。

 細く白い指を戸口にかけ、ピスカは外に出た。先程声を掛けた男が頭を垂れる。

「お待ちしておりました。既に仮設の幕屋は造り終わり、捧げ物の準備も出来ております」

 ピスカは小さな顎を下げることにより意を伝えた。欠けた月が照らす宵。ピスカは疎らな灯火が明るくした地面に足を踏み出した。家から続く道。灯火が壁となり行くべき場所を示す。歩を進める。荒れて柔らかくなった土の感触が返される。突き固められていた地面は、玩具によって荒廃させられてしまった。

 視界の中にはまだ取り除かれていない瓦礫の山があった。いま人々は急遽こしらえた仮小屋で生活している。

 大型玩具が村を襲ってきてから七日が経過した。けれどまだ街には大きな爪痕が残されている。

 ピスカは顔を真っ直ぐ前に向けたまま幕屋を目指した。道の両脇には片膝を地面につけた人々がピスカに頭を下げている。俯いている人々がピスカに聞こえるか聞こえないかぐらいのささやくような声で言った。

「なんであの子が祭司なんて役やっているんだろうね」

「しかたがないだろ、魔術を使えるものはこの街でもそう多くはないんだ」

「たとえあの子がどんな魔術の使い手でも、あの子が祭司なんてなったらこの街の恥だよ」

「いいじゃないか。もう既にあの子には災いが降りかかっている。そのうち自ら祭司職を降りると言ってくるさ」

 いやらしい笑い声。

 平伏しているすべての人の名前をピスカは言うことができた。小さな街であるこの都市では、ほぼすべての人が顔見知りだった。当然のようにピスカは笑い声を漏らしている人の名前も分かった。

 けれどその声を気にもとめずにピスカは歩く。ゆっくりとした、小さな体には似つかわしくないほどの壮麗な足取り。

 ピスカは幕屋の前で止まり、両脇に立っている男に丁寧に頭を下げた。急遽こしらえられたにしては、建物は整っていた。外から見ると直方体であるだけの大きな箱にピスカは近づいた。水盤で手を洗い中庭から至聖所に入った。枠組みの全体は、色彩豊かな樹木の模様を刺繍した亜麻の覆いで覆われていた。そのため外からは中を見ることが出来ない。入り口から入って左側に美しい七枝の燭台が一つ据えられている。右側には食卓が一つあり、その上には供え物のパンが置かれていた。燭台に火を付けて、ピスカは置かれていた二つのパンを手に取った。一つにはパン種が入り、もう一つは無酵母パンだった。

 垂れ幕をくぐり、ピスカは祭壇の前に立った。手に持つ二つのパンをその場で合わせ、祭壇の上に置いた。台の上から瓶を取りオリーブ油を、合わせたパンの表皮に注いだ。それから一度深く頭を垂れる。

 ピスカは左手を口元に運び、歯で皮膚を小さく千切った。血が白く透き通るような肌に筋をつくる。その血をピスカは祭壇につけられている角に七回はねかけた。そしてもう一度小さな頭を大きく下げた。

 仕切り幕を通り外に出ると、人々は一斉にピスカに拝礼した。

「ニサンの月の十日。こうして私たちの贖罪はなされた。これから一年間、神に祈願を捧げつつ感謝をして生活をしていこう」 

 清麗な声が空気を震わせた。人々はもう一度お辞儀をし、それぞれの家へと帰っていった。

 一人の老人がピスカに声を掛ける。

「本日もすべての人々のための儀式、見事に果たされたことを感謝する」

 堂々とした長い衣の上に、前の開いた袖なしの外套を着ている老人はピスカに微笑んだ。

「いえ、わたしには勿体無いお言葉です」

 ピスカは腰を曲げてそう言った。

「今日はもう疲れただろう。家に戻ってゆっくり体を休めなさい」

 老人はピスカに背を向けて歩き出した。

「大祭司シェケム様」

 ピスカの声に老人の動きが止まった。

「少し、話があるのですがよろしいでしょうか?」

 老人は少し間を置いたあと、振り返らずに言った。

「私の家に来なさい」

 月を薄い雲が包み込み、老人は闇夜に吸い込まれた。

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