23 桃太郎【Past】

23-①




 読人の夢に50年前のロンドン――祖父の記憶が現れるようになった当初、記憶の中では肌寒い季節だった。

 それから過去の記憶も時を刻み、現実の時間と重なりつつある。今夜のロンドンの暦は5月の初旬、日本で言えばもう直ぐやって来るGWの時期だ。春の陽気に包まれた行楽の季節になっていた。


「紫乃さーん! 動物園に行きましょ!」

「いきなりなんなのですか! 貴方!」

「紫乃さんを誘おう思っとんですけど、お家の住所も電話番号も知らんので」

「貴女はこの市場をよく利用していらっしゃるようなので、ここで捜してみれば会えるのでは……と、龍生君にアドバイスをしてみました」

「貴方の入れ知恵ですか、黒文字蔵人……!」


 開幕、龍生の満面の笑みと紫乃の苛ついた表情で始まった。動物のイラストが描かれたチケットを片手に、以前訪れた市場で紫乃を待ち伏せしていたのである。

 確かに蔵人のアドバイス通り、紫乃は買い物のためにいつもの市場を訪れた。そして、捕まった。彼女を誘おうとした龍生の他に、いつもの面子こと蔵人と光孝もいた。


「アルフレートさんに動物園のチケットをいっぺたくさんもらいました。イーリスちゃんの家でもみんな興味さないって。紫乃さんも行き……」

「お断りします」

「えーデートしましょうよ~! 同じ日本人同士、仲良くしましょ」

「デートではなくとも、有名なロンドン動物園の入園チケットですよ。世界初の科学動物園、見ておいて損はないと思われます」

「次の日曜日、どうですか?」

「……気が向いたら、考えておきましょう」

「やった! 約束ですよ、次の日曜日に動物園で待っています!」


 チケットを一枚受け取って去って行く紫乃へ、嬉しそうにぶんぶんと腕を振る龍生の姿が、嬉しそうに尻尾を振る大型犬に見えた。

 顔立ちは孫の響平と瓜二つなのに、随分と雰囲気が違う。龍生が人懐っこい大型犬なら、響平はマイペースな猫の空気がある。そう言えば、現代の檜垣家では犬も猫も飼っていたなと、意識の底でそう感じた。


「僕、動物園初めてです!」

「それは良かった。楽しんで下さいね、光孝君」

「蔵人さんは、誰かお誘いしないんですか」

「もうお誘いはしたのですが……紫乃さんと同じです。日曜日に、来て下さるかどうか」


 ジャケットもコートも必要ない季節になったが、蔵人は相変わらずスリーピースのスーツをしっかりと着込み、スーツと同じ色の中折れ帽を被っている。この頃から、彼は仲間にもだらしない姿を見せなかった。

 さて、蔵人が誘った人というのは一体誰だろうか?

 次の日曜日、ロンドン動物園。中心部のウエストミンスターに位置する動物園は、蔵人が説明した通り最初は研究目的のための動物たちの収集を行っていた、世界最初の科学動物園だ。

 19世紀に一般公開が開始され、読人の時代では650種類以上の動物が飼育されている。そして、蔵人たちがロンドンに在住していた時代には、なんとパンダがいた。

 現代の上野動物園で二匹目のパンダの赤ちゃんが誕生し、非常に盛り上がったのは昨年だ。勿論、今でもフィーバーが続いている。


「こんにちは、フロイライン。今日も良い天気ですね」

「……何の冗談ですか。クロード」

「今日はデートのお誘いをしただけですよ。イーリスさん」


『LONDON ZOO』の前で蔵人は待ち惚けを食らわなかったらしい。お誘いをしたお嬢さんこと、イーリスは待ち合わせの時間きっかりに現れたが、デートなんてドキドキワクワクのイベントを心待ちにしている様子ではなかった。

 赤いキャスケット帽と軍服のようなジャケットを着た戦闘スタイルで、行楽地に現れたのである。


「今日、この時間この場所に来いと……てっきり、観念して決闘を。【戦い】かと、わたくしは思ったのに……!」

「? 動物園で【戦い】はしませんよ。動物たちにご迷惑でしょうし。それに、私はイーリスさんと紋章を奪い合う意志はありません」

「……帰ります。アルフレート!」

「まあまあ」


 どうやら蔵人からのお誘いを果し状か何かだと勘違いしていたらしい。戦う気満々で乗り込んでみたら相手は行楽する気満々だった……一体蔵人は、どんな誘いをしたのだろうか。手紙か、手紙を出したのか?

 やる気が削がれると同時に勘違いをした自分が恥ずかしくなったのだろう。イーリスの白い肌が、羞恥で真っ赤に染まっている。

 さっさととっとと迎えの車を呼んでこの場を速やかに退散しようとしたイーリスだったが、蔵人に引き留められた。そう言えば、彼らが持つ動物園の入園チケットは、元はと言えばイーリスの家からもらった物だ。本来は彼女が使わなければならない物とでも、蔵人は感じたのかもしれない。

 だから誘ったのだ。遊び・学び盛りであるお嬢さんを。


「折角来たのですから、覗いていきましょう。私のエスコートでは不安かもしれませんが」

「……Danke」


 蔵人が差し出したチケットを受け取ったイーリスは、仕方がないと感じているように見えた。こんなにも早くガーベラを呼ぶのも憚れたのかもしれない。耳の無線機を外し、ジャケットを脱いで蔵人に押し付ければ彼はお嬢様の荷物持ちに徹した。

 今日は敵味方関係なく、気持ちの良い五月晴れの日曜日を楽しもう。


「ペンギン」

「ケープペンギンですね。ロンドン動物園のペンギンプールは、鉄筋コンクリート建築として高い評価を受けている建造物です」

「不思議なプールね。白い螺旋が渦を巻いているわ……ペンギンたちが坂道を登っているみたい」

「あちらには初めてヨーロッパにやってきたオベイシュという名前のカバがいます。アフリカゾウのジャンボは、その巨体から「巨大」を意味する「JUMBO」の語源にもなりました」

「……クロード、貴方」

「はい」

「随分と蘊蓄が多いのね」

「ありがとうございます。蘊蓄でも教養でも、女性をエスコートするのですから知識は身に着けなければならないのが礼儀です。知識は身に着けておいて無駄はありませんので」

「貴方とデートをする女性は苦労しそうですわ。未来のお嫁さんが可哀そう……知識よりも、女性の扱い方を学びなさいな」

「はあ」


 イーリスはペンギンから視線を離さないが、蔵人へしっかり向けてそう言った。

 何故、学校で勉強をしなければならないのか?

 蔵人の答えがそれだった。

 子供の素朴な疑問に、蔵人は答えた。無駄な知識はない、身に着けておいて損な教養はない。


「算数ができなかったら、今後の数学の授業や試験で恥をかきますよ。勿論、大人になってから算数が必要になる場面でも」


 算数が苦手で嫌だと愚痴っていた小学生の読人は、祖父にそう言われた事がある。


「アフリカゾウの他に、アジアゾウがいますわよね。どう違うのかしら?」

「まず大きさですね。アフリカゾウの方が体長も耳の広さも、アジアゾウよりも大きいです。図鑑などで見比べてみれば分るのですが、背中の形や鼻先の形も各々に特徴があるのです」

「そうよね。そもそも暮らす場所が違うのだから、身体にも違いが出て来るわよね」

「はい、その通り」


 50年前の蔵人は大学研究室の助手でしかなかったが、若い頃から教師としての素質があったようだ。自身で知識を蓄え、それを生徒や後輩へと伝えて学ばせる。

 イーリスの疑問にも一つ一つ丁寧に答え、彼女が理解すれば褒める。動物たちの生態を学びながら歩く2人の姿は、デートをしている紳士とお嬢さんと言うよりは、教師とその生徒とのような雰囲気だった。

 異国の地でのびのびと暮らす動物たち。愛らしいケープペンギンに、寝そべるカバ、雄々しいアフリカゾウ。次は、この時代のロンドン動物園でしか見られない人気者。

 そこには、蔵人よりも先にフラットを出た龍生と光孝。龍生の誘いに乗ってやって来たようだ、涼しげな色のボーラーハットを被った紫乃がいたのだ。


「龍生君、デートはどうですか?」

「デートではありません」

「一緒にだらだら、動物たちを見てます。ほら、あいつはめんこいですよ」

「ジャイアントパンダですね」

「お名前はチュチュ、中国から来た熊の仲間ですのね」

「熊なんですか? ずっと笹ばかり食べていますよ……肉食じゃないんだ」


 21世紀ではお馴染み、白と黒の可愛いパンダ。正式名称はジャイアントパンダ。これは、発見当初一般的な「パンダ」とはレッサーパンダであったためだ。

 日本でも大人気のコロコロ可愛いパンダであるが、彼らが初めて来日したのは1972年の10月。日中の国交回復を記念として、中国から上野動物園へと贈られた。その後の日本ではパンダブームが巻き起こり、上野動物園の入場者数が増加したというのは、読人の中では教科書の中の出来事だ。

 生まれた瞬間から国内にパンダが知れ渡っていた孫世代とは違い、50年前の蔵人たちの世代は初めてパンダを目にする。その感想は、龍生のいう通りめんこい……つまり、可愛い。

 ロンドン動物園のパンダことチュチュはお食事中だった。

 ぬいぐるみのようなモコモコした身体が岩の上に座りながら、青々とした笹をたくさん両手に持ち、むしゃむしゃとマイペースに頬張っている。

 夢中になっていたら身体が傾いてしまった。バランスを崩して岩の上から落ちてしまうが、「コロン」という効果音が付きそうな動きだ。非常に愛らしい。

 チュチュを眺めていた来園者たちは、みんな微笑ましく彼女を見守っていた。蔵人たちご一行も自然と笑顔になる。イーリスや紫乃も、普段見られないような表情を……頬を赤く染めて視線はチュチュから離れない。

 パンダを見ていると、人々は自然と笑顔になる。パンダって不思議。


「ジャイアントパンダ……可愛い」

「綺麗に白と黒に別れているなんて、不思議な動物もいるんですね。世界って広いな」

「日本に来ても、絶対に人気者さなれるよなこいつ」

「でしょうね。人気が出すぎて来園者が殺到して、1人10秒しか観覧できないほどの人気になるかもしれませんね」

「何故そんなにも具体的な予想なんですか」

「さて、かつての中国では、パンダは平和の象徴とされていたそうです。笹しか食べないその性質から、でしょうね。しかし、現地の言葉では「熊猫」と書きます。文字の通り、しっかり熊の仲間なので油断したら攻撃されますよ」

「はーい」


 読人の時代でも心当たりのある蔵人の話に紫乃が苦言を呈する。少し困ったような笑みを浮かべながら、左手を首に添えてパンダの知識を披露してくれた。

 この話は、幼い読人も教えてもらった。もう一つの話と一緒に。


「読人、どうしてパンダは熊の仲間なのに笹を食べるのだと思う?」

「笹がおいしいから?」

「違うよ、むしろ笹はパンダの身体には合わないんだ。元は肉食だからね。笹や竹しかない山で生きるために、未来へ生き残るために、彼らは笹を食べて進化をしたんだ。パンダたちが“生き残る”という選択肢を選んでくれたお陰で、今の読人はパンダと出会えたんだよ……我武者羅に、未来へ生きようとする姿勢。おじいちゃんは、好きだなぁ」


 あの頃、上野動物園に久しぶりのパンダがやって来た頃。どこか懐かしむような表情をしていた祖父は、50年前に異国の地で見たチュチュを思い出していたのかもしれない。

 このままパンダで夢を終われば良かった。平和に動物園を満喫していれば……だが、読人の夢に50年前の記憶が現れて、ただほっこりさせるだけで終わらなかったのだ。

 ナニかが、降った。

 白い、大粒の雪のように丸い、ナニかがロンドン動物園の上空にパラパラと降って来たのだ。

 ペンギンプールにも、カバのオベイシュがいるゾーンにも、ゾウのジャンボの檻にも、スマトラトラを始めとした猛獣たちの檻にも。そして、蔵人たちがいるパンダのゾーンにも。

 白いナニかは檻をすり抜けて、壁をすり抜けて動物たちのパーソナルスペースへと侵入していく。一体何か、今の時点では理解ができない光景だった。


「何ですか、今のは……?」

「雪じゃ、ねえな」

「……」

「え? ええ?」

「クロード、どこを見ているのですか」


 最初に、紫乃が不審に感じた。龍生も空を見上げた。光孝はなにがあったかよく理解できずに、紫乃と龍生の顔を交互に見ていた。

 蔵人は、イーリスの言う通りどこか別の方向を見つめていた。あちらは、象のジャンボの檻だ。

 周囲の人々も謎の天気に動揺するざわつきの中で、ざわざわという声を一括して黙らせるが如く、獣の咆哮と甲高い悲鳴が耳を劈いた。


「っ!? な、何ですか!?」

「獣……虎の雄たけびか?」

「キャーーー!!」


 驚きの咆哮へ、悲鳴の方向へ首を動かせば仰天するだろう。その先には、飼育員の女性に乗り上げたスマトラトラがいた……檻から逃げ出していたのだ。

 否、スマトラトラだけではない。別のシマシマ模様が、肉食獣に追われているかのように猛スピードで走り回るシマウマが。シマウマの背中にしがみ付きながら、金切り声を威嚇するキツネザルが。

 様々な動物たちが自分たちのエリアから逃げ出し、人間たちのテリトリーへと解放されているのだ。

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