03 源氏物語×金の斧・銀の斧【Past】

03-①【Past】




「つっ……かれた~」


 そう呟きながら、読人は自室のベッドに倒れ込んだ。今日は本当に疲れてしまった、肉体的にも精神的にも。

 『若紫堂』から帰って来てからは蔵人の家の片付けと遺品整理をして、トラックを借りて来た父と合流してからは仏壇を自宅に運び入れた。男手が2人いれば十分でしょうと言う母のお言葉により、働き盛りの40代と男子高校生は引っ越し業者の如く食器やら衣類やら本やらの入ったダンボールを、夜になるまで延々と運び続けたのである。

 簡単な夕飯を済ませてからお風呂で温まるともう動けない。明日はまた片付けの続きだ、どうしても忌引きの最中に終わらせようと母はやる気だ。

 本当は、自室に戻ってから色々考えようと思っていたけれど、読人が実感している以上に身体が疲れていた。体育の時間ぐらいしか運動をしないインドアの帰宅部の身なのに、普段使わない筋肉を酷使してしまったのである。あ、駄目だ、気を抜くと睡魔が団体様で襲って来る。


「もう、寝よう」


 最後の力を振り絞って……のような動きで、ベッドサイドにある部屋の電灯のリモコンに手を伸ばして部屋の灯りを消した。そして、一瞬で夢の世界へ旅立った。


「zzz……」

『……幸せそうな顔をして、眠っているな』


 緊張感が微塵も感じられない顔で眠っている読人を、いつの間にか姿を現していた火鼠の衣が覗き込んでいる。祖父である蔵人には似ず、母――ひいては、蔵人の妻である祖母に似た容貌は童顔気味で幼く、伸びるのが早くそれなりの長さになってしまった前髪がそれを際立たせていた。

 火鼠の衣による読人の観察が粗方終了すると、20cmほどのぬいぐるみサイズだった炎のハリネズミはベッドから下りて、ヒグマほどのサイズになってからその短い手で読人の身体に毛布を掛けた。いくら床暖房で室内が温かいと言っても、真冬の夜にベッドに倒れ込んで毛布も何も掛けないと風邪をひいてしまう。

 読人が寝返りを打って顔を毛布の中に入れたのを見計らい、今度は40cmほどに大きさになった火鼠の衣はもぞもぞとベッドをよじ登り、毛布の中に潜り込む。彼も一緒に寝ようと言うのだ。良い湯たんぽになるだろう。

 色々あり過ぎて悩みや疲れが飽和状態になっている読人はその日、随分と温かく快適に眠りに着いた。そして、また、夢を視た――




***




 これは夢だ!と、読人が断言した理由は、昼間の感覚と同じだったからである。

 お風呂から出てそそのまま深い眠りに落ちてしまった事は覚えている。身体や頭は眠っているはずなのに、耳にはパラパラと本のページを捲るような乾いた音が聞こえて来て意識がふわふわと浮上して、特定の視点の場所で着地した後にその視点は自分の意に反して動く。二度目ならばはっきり解る、この不思議な感覚は朝に気を失ってから『若紫堂』で目を覚ますまでの間に経験したのと全く同じだ。

 今朝の夢の舞台は空港(暫定)だった。いや、空港で間違いないだろう、1人の青年がイギリスへの入国審査を受けている場面までは覚えている。黒文字蔵人――祖父と同じ名前のパスポートを持った、あの青年の姿も。

 次の舞台は、暗闇の町だった。石畳の道を橙色の光を灯すガス灯がぼんやりと照らし、空に浮かんでいるはずの月は鉛色の分厚い雲の向こうに隠れてしまっている。町の全体は灰色の霧に閉ざされ視界が悪く、これで触覚がきちんと機能しているならば水分が肌に纏わり付きそうな気配だ。

 此処はどこだろうかと、周りを見渡す余裕は読人にはなかった。目の前の景色は、物語は止まる事なく進んで流れて行く……霧の向こうには、白い【本】を手にした男と、その男と距離を取って腕を組む帽子を被った女性がいたのだ。


「ようこそ、お嬢さん。霧の都・ロンドンへ。観光ですか?」

「……」

「ウエストミンスターが見える良いパブを知っていますよ。ご一緒にいかがですか?」

「……」

「おや、言葉が通じない? そんな事はないですよね。【本】を持つ【読み手】同士なら、言語を越えて意思疎通が可能だ。当然、【読み手】であるお嬢さんも」


 あ、そうだったんだ。外套の男の説明を聞いた読人は、素直に納得してしまった。通りで、出身はパリと言っていたリオンが流暢な日本語を話していた訳である。きっとあれ、【読み手】以外にはフランス語で聞こえていたんだな、もしくは英語。きっとあの時点で、読人は【読み手】として覚醒のしかけていたのだろう。だから、言葉が通じたのだ。

 思いがけないところで【本】の秘密を知ってしまったのだが、男がゆったりとした外套から白い【本】を取り出しても女性は一言も言葉を発しなかった。

 外套の男は明らかにヨーロッパの者だ。ギリシア彫刻のように堀の深い顔立ちで日本人とは艶が違う茶色がかった髪に、闇夜でもはっきりと解る青い目をしている。対して女性の方は、ほっそりと小柄でふんわりとパーマがかかった黒髪……明らかに、アジア系だ。紫色のリボンが付いた白いボーラーハットを深く被っているため顔は解らないが、生成色のワンピースと紺色のジャケットも肩にかけたバッグも何だか一昔前の流行のように思える。


「戦いませんか? お互いの紋章をかけて」

「最初から、そうおっしゃって下さいませんか? 私は観光ではなく、戦うためにこのロンドンへやって来たのですから」


 氷と冷水が硝子のコップを鳴らすような、凛とした涼しい声が赤いルージュを差した薄い唇から零れ落ちる。

 ハンドバッグの中から出て来た白い【本】のタイトルは『源氏物語』。対して、男の【本】には『金の斧・銀の斧』。二冊の【本】の裏表紙には、それぞれの物語の紋章が刻まれて、闇夜に浮かぶ淡い光を湛えていた。


「名乗りましょう。我が名はナルキッソス・ミューズ。ギリシアがクレタ出身です。【本】のタイトルは『金の斧・銀の斧』」

「ご丁寧に、どうもありがとうございます。お初にお目にかかりますわ、日本から参りました、『源氏物語』が【読み手】……琴原コトハラ紫乃シノと申します」


 どうぞ、お見知りおきを。

 光を讃える二冊の【本】。その裏表紙にはそれぞれの物語を象徴する紋章が刻まれ、彼らの言う作法に則り【読み手】の名前と【本】のタイトルが名乗られる。

 その時、読人は「ん?」となった。『源氏物語』の【本】を手にする女性、彼女は今「琴原紫乃」と名乗った。ついさっき、同じ名前の人と出会った気がする……名字は違うけど。


「お嬢さん、貴女が落としたのはこちらの金の斧ですか? それとも、銀の斧ですか!」

「青海波!」


 ナルキッソスの背後の石畳が湖面のようにゆらりと波紋を描くと、その中からは彼の体躯ほど太く、厳つい手甲を着けた二本の腕が這い出て来る。

 右手にはその腕が持つに相応しい大きさの金の斧、左手も同じく銀の斧。価値のある宝の斧と言うよりは、その大きさで全てを叩き斬る武器が創造されたのだ。彼が想像「斧」は、日常で木を切る物ではなく13日の金曜日に活動するあの人のような、武器のイメージに近いかもしれない。

 一方、紫乃の方は非常に優美であった。か細く繊細な笛の音がゆったりとした旋律を奏で、それをBGMとして彼女の両脇に二体の浄瑠璃人形が創造された。全く同じ作りの人形は着ている衣装も全く同じ。雅楽・青海波の楽人が身に着ける装束は青海波と霞の模様が刺繍された下襲を始めとした、正式な衣装と太刀が揃っている。

『源氏物語』の中では、主人公の光源氏とライバルである頭中条の2人がこの舞を披露している。恐らく、そこからこの人形たちが想像し創造されたのだろう。人形とは思えない優美で滑らかな動きで太刀を抜いた青海波は、二本の斧へ斬りかかって行った。


「美しいですね。素敵だ!」

「口を包みなさいませ。怪我をしてからでは、遅くってよ」

「失礼。お嬢さんも、とても美しかったのでつい。戦いの女神・アテネのように凛々しい剣の輝きのような美しさは、ゼウスも放っておかないでしょう!」


 二本の太刀と斧が斬合う【戦い】が始まり、ボーラーハットの奥に隠れていた紫乃の顔は少しずつ、読人にも認識できるようになっていた。

 確かに、ナルキッソスが言うように美しい女性だった。凛とした光を備えた黒く艶のある双眸に、ほっそりとした小鼻と意志の少し釣り上がった柳眉にはストイックな武家の女のような魅力がある。が、その顔……どこかで見た事あった。と言うか、読人の中でもう答えは出ていた。

 まさか……奥島さんんん?!声には出さないが、読人の脳内でこの言葉が木霊した。

 同じ「紫乃」と言う名前。眉の形も同じであり、年齢が異なっていてもその凛とした空気と双眸に宿った光が全く同じ。そして、紫乃は読人にこう言った「『源氏物語』の【本】と共に【戦い】に参加していた」と。

 つまり、目の前の彼女・琴原紫乃と『若紫堂』の店主・奥島紫乃は同一人物と言う事になる。名字が違うのは、結婚でも何でもすれば名字ぐらい変わるだろう。

 したがって、今読人が視ている夢――これは50年前、前回の【戦い】の記憶なのではないだろうか?読人の記憶にある紫乃は蔵人と同年代の70代、対して御簾と和歌の紋章が刻まれる『源氏物語』の【本】を手にする紫乃は20代……間違いない、これは過去の【戦い】の記憶だ。

 何故、夢の中で過去の記憶を視ているのかその理由は解らないが、読人が夢の中で色々と思考している中で目の前の【戦い】に変化が現れた。しばらくは青海波の人形たちがそれぞれ、金の斧と銀の斧と刃を斬り交わしてした。しかし突如、金の斧一本で二振りの太刀を受け止めると、銀の斧は青海波の頭上、夜の空間を薙いだのである。

 それと同時にブチブチと髪の毛が引き千切られるような音がして、紫乃の表情が一瞬強張ったのだ。


「やはり、人形は貴女が操っていたのですね。マリオネットのように」

「っ! ご名答。しかし、全て私が操っている訳ではありません。青海波!」


 青海波は、ロボットに命令がプログラミングされるかのように多少の簡単な動きは自分たちで行えるようだ。だけど、細かい部分では融通が利かないらしく、目視し難い糸を伸ばして紫乃自身が青海波たちを操っていたのである。

 彼女の細い指先には銀の斧が絶ち切った糸が五本伸びている。もっと強い糸を創造しなくてはならない、どんな刃にも断ち切れないその姿を想像して……この時の紫乃は、頭の片隅でそう考えていた。

 紫乃の声に反応した青海波たちは、右手と左手それぞれに太刀を手にして鏡に映った己のように、寸分狂いのないシンクロした動きで【読み手】本人を狙ったのだ。


「『私が落としたのは、使い古してボロボロの鉄の斧です』!」

「っ!」


【本】が閉じられれば、物語が終結すれば現実に起きた事は全て“なかった事”になる……人間や生物の死を除いては。なので、ある程度は容赦なく【読み手】本人を攻撃できた紫乃だったが、ナルキッソスもそう簡単に脱落する【読み手】ではなかった。

 『金の斧・銀の斧』に登場する正直者の木こりのように、自分が落とした鉄の斧だと正直に申告すると背後にある石畳の湖面から鉄の斧が飛び出て来たのだ。金の斧・銀の斧と同じ大きさのそれが回転しながら青海波たちの前に現れると、左右同じタイミングで振りかかって来た太刀を受け止めて、金属同士が衝突する甲高い音がした。

 鉄の斧は他の二本に比べれば刃がボロボロで切れ味が悪そうだが、実用性重視の分厚い鉄鋼で作られたそれは頑丈で二振りの太刀を受けてもびくともせず、青海波の攻撃を感知してはその刃を受け止める。自動防御装置のような物だろう、あの鉄の斧は。正直に自分の斧を申告すれば、女神の加護が宿った如く守ってくれるのである。


「ヘパイストスとアテネの加護は、私にあり!」

「っ! 出し惜しみは、できませんね!」

「……スイマセーン。トラファルガー・スクウェアにはどうやって行けば良いのでしょうか?」


 【戦い】の舞台において、こんなにも脱力感に苛まれる気の抜けた言葉はないだろう。斧と太刀が斬り合うその間から顔を出した黒文字蔵人は、実に場違いなその台詞を2人に向けて言い放ったのである。

 読人の視点では、押しつ押されつの衝突を続けて刃を合わせる斧と太刀の間から、彼がひょっこりと顔を出したようにも見えた。彼――仕立ての良いスリーピースのスーツを着て、同じ生地の帽子を被ったこの青年は、空港で入国審査を受けていた彼だ。「黒文字蔵人」のパスポートを持ち、困ったように左手を首に添えた彼である。

 この夢が50年前の【戦い】の記憶であるならば、彼は読人の祖父で間違いないだろう。50年前の、青年時代の蔵人だ……場の空気を読まずにニコニコと人当りの良さそうな笑みを浮かべて道を尋ねている、この場違いな彼は。


「……あれ? 私の英語、通じないかな?」

「アジア人?」

「あ、貴方……何ですか、一体?!」

「日本から参りました。昨日から色々と観光をしていて、今日はトラファルガー・スクウェアを訪れようとしたんですけど……道中の美しい街並みに夢中になっていたら、この時間まで迷子になってしまったんです。今もしっかり迷子です」

「そうじゃなくて!」


 あ、間違いない、彼は祖父だ。生前の蔵人は、自分の好きな事に夢中になると周りが見えなくなる事が多々あった。それは、目的地に向かう道中でも同じ事。

 生前の蔵人は、芝居を見に行くために家を出たと思ったら途中でレアな古書を扱っている店を見付けて大量の古書を買い込み、結局芝居を観ずに夜に帰宅したと言う事があった。

 ついでに方向音痴の気があるので、慣れない土地を訪れると徘徊老人のように迷子になってしまうから、おじいちゃんと出かける時には気を付けなさいと母に言われた事もある。「三つ子の魂百まで」と諺があるが、若い頃の祖父は読人の知るそれを変わらなかったんだな~っと感じた。


「あの男、言葉が通じている……新たな【読み手】か!」

「っ、本当だ」

「あ、道を教えて下さるなら【戦い】が終わってからでよろしいので、どうぞ続きを」


 そんな事言われたって直ぐには再開できないよ、気持ち的な面で。蔵人は英語で尋ねたらしいが、ナルキッソスにも紫乃にも英語ではなくしっかりと母国語で彼の言葉が伝わっていた。【読み手】同士なら、言語を越えて意思疎通が可能……つまり、彼もまた【読み手】である。


「そこの貴方。私とお嬢さんの時間を、邪魔しないで頂きたい!」

「?」

「彼女から紋章を授けられたら、直ぐに相手をして差し上げます!なので、しばし大人しく!」

「っ、もーう!!」


 動きを止めてしばしの静寂を保っていた二本の斧が動き出す。目標は蔵人……そりゃ当たり前だ、これ以上現状をかき回して欲しくはないので、邪魔者には大人しくして頂きたい。女性は好きだが男には情けも容赦もかけないのだろう、このナルキッソス・ミューズと言う男は。

 その様子を静観できるほど、ナルキッソスの意識が蔵人に向かっている隙に攻撃できるほど下種で薄情な性格ではない紫乃は、腕を動かして再び青海波たちに糸をくっつけると、鉄の斧から離れた二体の人形が蔵人の前に移動した。しかし、あまりにも突然の事だったために青海波たちの踏ん張りが利かず、そのまま斧に薙ぎ払われてしまう。

 だけど、彼らが身を挺してくれたので若干の時間が……紫乃が蔵人に駆け寄って彼の襟首を掴み、庇って石畳の上に転がる時間は取れたのだ。斧の直撃を避けた2人だったが、石畳の上をごろごろと転がるのは非常に痛い。咄嗟に蔵人が紫乃を庇い、自分が下になるように倒れ込んで彼女を抱き留めたが、現状ではあまり色っぽい空気にはならなかった。


「貴方、本当に何なんですか!」

「迷子の【読み手】です」

「じゃなくて!」


 こいつ、ぶん殴ってやろうか。苛立って柳眉を更に釣り上げる紫乃はきっと、そんな事を考えているだろう。飄々、ぬらりくらりとした答えしか返って来ない蔵人に、彼女の堪忍袋の緒が切れそうだった。

 しかし、今はこいつをぶん殴っている場合ではない。我に返った紫乃が【本】を持ち直して起き上がろうとすると、既に二本の斧が目前に迫って来ているではないか。これでは間に合わない……紫乃が一瞬の焦りを見せたが、金の斧も銀の斧も彼女には届かなかった。

 斧で岩を叩いた時のような派手で火花が散りそうな音がして、紫乃の目の前で岩の扉が閉まったのである。


「こ、これは……」

「アジア人同士、共闘でもするつもりか!」

「いえ、自己防衛です。だって怖いじゃないですか」

「?」

「斧」


 こいつ、ぶん殴ってやろうか。真顔でそう言った蔵人に対し、ナルキッソスも紫乃と同じ感想を持った。

 蔵人は、いつの間にか淡い光を発する白い【本】を手にしていた。タイトルや紋章の姿は、彼の大きな手に覆われていて確認できない。彼と紫乃の前で閉じられた岩の扉には、注連縄やらお札やら、宗教観がごちゃ混ぜだけどシャーマニズムっぽい物が色々を付属されている。

 しかも、前方だけではなく後方も見えないドームのような壁で覆われていると言う、防御に長けた創造能力のようだ。銀の斧が扉のない空間へ斬り込んで行こうとしたら、これまた、同じ音を立てて弾かれたのである。


「何ですか、助太刀でもするつもりですか?」

「いいえ。先程も言いましたが、これは自己防衛です。“なかった事”になるとしても、怪我をするのは痛いじゃないですか。彼は、貴女の相手でしょう。どうぞ、続きを」


 蔵人は石畳に転がってしまった中折れ帽子を拾うと、砂埃を払ってから再び自分の頭に乗せる。そして、レディファーストをするような洗練された動きと共に穏やかな微笑みを浮かべ、紫乃へ一礼したのだった。



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