第5話

「…………今日は波が高いな」


 俺とやーにぃの実のない会話を強制的に打ち切る声が響く。


「そうなのか? じいちゃん。俺にはあんまり分からないけど」

「あぁ。こういう日の漁は少し荒れるもんだ。大和、気ィ引き締めろ」

「うぃっす! 親父!」


 やーにぃに漁業を叩きこんだ師であるじいちゃんのことをやーにぃは親しみをこめて親父と呼んでいる。親父と呼ぶには年の差が随分と離れているのだが。

 この漁船には漁師が七名乗船している。船頭せんどうとして指揮をとるじいちゃんを含めて、ほとんど高齢のベテラン漁師だ。


 行う漁は定置網漁ていちあみりょう。あらかじめいくつかのポイントにセットしてある網を引き揚げていくのが朝の仕事だ。その際に「網起こし」と呼ばれる行程があり、網に入った魚を船内に取り込んでいくのだが、そこには多くの人手を必要とする。七名という比較的少ない上に若手がやーにぃくらいしかいないこの漁船において、俺が乗り込んだ時は、漁師たちも大いに喜んでくれる。


「まあ、今日は拓海もいるから安心だな! ガハハ!」

「ほんっとうにジジイは楽させてもらえるわい!」


 そんなことを言って俺の頭をくしゃくしゃと乱暴にでてくる。


「お、おい! おっちゃんたちの方が経験あるんだから俺よりよっぽど動けるだろ! っていうか、漁師でもない俺に頼るのはやめろっての!」


 ま、一応漁師見習いってことでいるんだけどね。

 俺が高校を卒業した後、どうするのかなんてまだ決まっていないし、何も考えられない。


 ただ、この島を離れる未来は想像できなかった。

 みんないつまでもここに住んで今までと同じような生活を続けていくのだと心のどこかで思っているのだろう。


 そんなことあり得ない。分かっている。でも、それでもどこか今の生活が変わっていくことは想像もつかなかった。


 俺はため息をつく。今、そんなこと考えてもしゃーねーか。

 定置のポイントにたどり着き、船が止まる。俺は無駄な思考を止め、仕事に専念することにした。

 いくつかのポイントを処理していくうちに、夜が明けていくのを感じる。黒一色だった海は、その色を青へと染めていく。


 ちょうどそのタイミングだった。俺は、漁師の一人が声を上げるのを聞いた。


「……おい、あれはなんだ?」


 その声につられて顔を上げた俺も漁師の指差す方向を見る。

 そこに見えたのは、水平線を明るく照らす、緑色の淡い光の帯のようなものだった。


「あれは……?」


 俺は、思わずポカンと見とれてしまう。さすがのやーにぃも驚いて声が出ないようだった。

 驚いた船員は船を止める。止まって見ると、余計にその緑色が濃い色彩を放っていることが見て取れた。


 この海の上でそんな光が見えることはあり得ない。どこまでも続く青色の海。そこに浮かぶ緑色の光の帯。まさにそれは天と海を結んでいるかのようだった。

 緑色の光は、その範囲を広げていく。俺たちから見れば、水平線を駆け巡っているようであった。そして、やがてそれは俺たちの船を、いや、俺たちの住む島々を取り囲むかのように周囲を緑色に染め上げる。


 俺は、ゴクリと唾を飲み込む。何が起こっているのか分からなかったが、奇跡にも近いその光景に思わず見とれてしまう。

 とても神秘的だった。夜明けを告げるこの世界を緑の光が包む。まるで、この天ノ島諸島の周辺が緑色の世界になったかのようだった。


「アオイロ、だな」


 じいちゃんが呟く。


「おい、じいちゃん。もしかして、目おかしくなったのか? ありゃどうみても緑だろ、緑」

「たわけ。あれは真緑とは言わん。お前には分からんかもしれんがの」

「どういう……?」


 そこまで言って俺は思い出す。似たような色をどこかで聞いたことがあると。

 そう、何度も聞いてきたではないか。八雲の家で、何度も。


「まさか……、あのおとぎ話の……」


 作品の主人公、アオが好きだった景色。その色は青とも緑とも言い難い色だったらしい。まさに、今目の前できらめいている光の帯のように。


「……碧色あおいろ


 そう、じいちゃんの言っていたアオイロが碧色だと理解できたのはその瞬間だった。俺が碧色なんて色がどんなものなのか、知っているわけもない。だけど、それはとても懐かしく、俺の心を満たしてくれる暖かな光だった。


 そして瞬間、俺たちをまばゆい光が包む。


「…………!!」


 俺は、白い光の中にいた。おかしい。さっきまで船の上にいたというのに。


「じいちゃん……? やーにぃ?」


 周りを見渡しても誰もいない。ここは、どこだ? 何が起きてるんだ?

 その時、俺は遠くに、うっすらと人影を見つける。じいちゃんか、やーにぃか……、いや、あれは……、女の子?


 金色がかった長い髪に、すらりとした体型。まるで物語のお姫様かと思うような、自らが発光しているかのような、そんな女の子だった。遠目からではっきりと見えないのに、そこまで分かる。


 俺は、無意識に女の子に向かって手を伸ばす。遠くに見たその女の子の目の色は――、


「おい、拓海!」


 俺は名を呼ばれ、ハッ、と我に返る。気づけば俺は船の上で右手を必死に伸ばしていた。


「何してるんだ。そりゃさっきの景色がすごかったのは分かるけど、取って食えるもんじゃないぞ」


 呆れたように俺を見るやーにぃに、「わ、悪ぃ、ぼーっとしてた」と言う。

 世界は碧色からいつもの風景へと戻っていた。本当に何事もなかったかのように海は落ち着いており、空も青々と広がっている。


 先ほどのやーにぃの言葉からもさっきの緑色の光が現実のものだというのは間違いなかったはずだ。だけど、俺の見た女の子は誰だったんだ……?


「な、なあ、やーにぃ。やーにぃは女の子とか見なかったか?」

「……はあ? お前、変な夢でも見たんじゃねえか? 確かにすげえ景色ではあったけどよ」


 やーにぃの言うとおり、船の乗組員は、このわずか一分にも満たない現象に唖然として、まったく動けないでいた。

 だけど、じゃあ俺の見た女の子は何だったんだ? あれは、俺の見た幻覚なのか?


「さあ、行くぞ。船を出せ」


 じいちゃんはまったく動じていない様子で声を上げる。船員たちも我に返ったかのように、慌てて船を出し、いつもの漁は再開された。


 俺は未だに疑問が尽きなかったものの、漁に戻ろうと振り返る。その時、俺はじいちゃんの握りしめられた右手がわずかに震えていたのを確かに見たのであった。

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