遠くで眠る、きみのもとへ

 静まり返る神智研しんちけんの地下施設を、スケアクロウは一人歩き続ける。

 ハスターの屍肉に取り込まれた、かつての生徒たちの霊体を解放することはできたが、時間を掛け過ぎた。

 加えて弾丸を撃ち尽くし、ナイフは切っ先が折れ刃毀れしている。

 左肩の傷痕はシュブ=ニグラスの祝福で塞いだが、多量の出血に意識が朦朧としている。


 シュブ=ニグラスの呪いと祝福はこの身にまだ残っている。

 供儀を捧げれば失った腕を再生することもできるが、もう二度とこの力を使うつもりはない。

 遅すぎる決断だと、スケアクロウは自嘲する。


 一体どこで間違えた?

 ディー博士の隠し部屋で、黒の淵を探し当てた時からか?

 アンダルシアの丘の上で、2万8953の人命を奪った時か?

 それとも、罪の重さに耐えきれず、案山子かかし役に徹するのを口実に、結界に籠った時なのか?

 どこまで戻ればやり直せる?



 何のことは無い。


 スケアクロウはとっくに自問の答えを持ち合わせていた。

 上辺だけの信仰しか持たず、相棒の判断に頼り切り、都合の悪いものを見ないようにしてきた。

 間違っているとするなら、自分の在り方そのもの――


 最初から、僕は間違えていたんだ。



 廊下の先に人影が見える。

 顔を合わせるのは数年振りだが、見間違えるはずがない。

 黒いスーツに身を包むのは、スケアクロウの相棒にして、神智学研究所所長である裁慧士郎さばきけいしろう

 左手に血の滲むハンカチを巻き、銃創らしい左頬の深く真新しい傷からは血が滴っている。



 ――いや。間違ってはいけないのは今この時だ。

 僕の最高の相棒で、最良の探索者である慧士郎を信じ切る。



 黒い本を携える裁の肩に、しがみ付く異形の影が見える。

 上半身だけの乱れた白髪の老人が、内臓を引き摺りながら、哄笑を上げている。


 予備動作抜きで疾走し、聖別済みのナイフを振りかざす。

 刃は狂人の亡霊に届く前に、裁の拳銃で撃ち砕かれた。


「……安心した。やはり、慧士郎があんな蛮行を許すはずがない。僕にはもうお前を滅ぼす力はない。だがな、お前のような存在に、慧士郎が敗れるはずがない!」


「かつて君臨し、今君臨し、やがて君臨するものを全て壊し尽くせ。矮小なるヒトが愚鈍なまま生きる道を否定しろ。ヒトヒトとして生きる道を探し出せ。神化しんかへの可能性を請い求めよ。今ここに螺旋の探索を開始する」

『……ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん……はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ……』 


 精気のない瞳で呟く裁の言葉に、狂人の呻き声が重なる。

 裁の身体と意識を完全に支配したアルハザードは、エーテルで形成した巨大な鉤爪でスケアクロウを捕まえた。


「お前が!! お前ごときが慧士郎より強い存在である訳が無い!! 滅びが怖いか、この浅ましい敗残者め!! 予言してやる。お前に滅びは生易しい。狂気と恐怖を抱いて、永遠に苦しみ続けるがいい!!!」


 呪いの言葉を吐き続けながら、スケアクロウは巨大な鉤爪に潰され、生きたまま貪り食われる。

 無人の廊下には、黒い本に取り憑かれた男と、僅かな血溜りだけが残された。


        §


 ジジは身体を弄られる感覚で意識を取り戻した。


 直前の記憶が蘇る。

 必滅の一撃を放った“英雄エロー”の大剣は、アスキスの眼前で白い羽根と化し舞い散った。

 ジジが短剣の雨を降らせる前に、白い羽根は無数の刃に再構成され、さかしまにジジを貫いた。


 ――完敗だ。“英雄エロー”の神威は残骸でしかないハスターにも遠く及ばない。

 だが、ジジの錬度は確かにアスキスを凌いでいたはずだった。覆されたのは圧倒的な覚悟の差だ。


「お前……生えてないのな」


 目の前で指を舐めるアスキスに、直前まで指の感触のあった部位に思い至り、一瞬で理解し激昂。


「殺す!!」


 形成しながら放つ長剣の一撃は、嘲りながら飛び退くアスキスに易々とかわされる。


「ハッ! それだけ動けりゃ上等だ。 その紛い物の神をちゃんと育てておけよ、小娘。充分に強くなったら、あたしが毀して喰らってやるよ!」


 飛び退いた勢いそのまま、アスキスは風に舞うように、白みかけた空へと消えた。

 街並み越しに、昇り始める朝日が見える。


「あの子はどうしてこう、一言多いんでしょう……ジジ、傷治ってますでしょ?」


 一部始終を見ていたらしい朱鷺乃ときのが、頬に指をあて苦笑を漏らした。


 魔力の込められたコートと護符がダメージを軽減してくれるのを感じたが、身体中に刃を受けたはず。

 ジジはコートを脱ぎ身体を確認する。

 タンクトップやスパッツは穴だらけだったが、朱鷺乃の言うように、身体には傷一つ見当たらない。



 まただ。

 また同じだ。

 選ばれたあの子は鳥籠を飛び出したのに、自分は地面に這いつくばったまま。



 ジジはむき出しの肩を掴み、血が滲むほど強く爪を立てる。


「……あの子が覚えてなくても……わたしは忘れない」


 圧し潰す様な呟きを漏らすジジ。どう声を掛けたものか迷ってた朱鷺乃は、最終的に無言を選択し空を見上げた。


 繋がれていた異形の残骸はもう見当たらない。

 風花のように流されてくる白い羽根は、地面に着くと淡雪のように消えて行く。


「これでさよならかしらね……」


 名残惜し気に白い羽根を手に受ける朱鷺乃の目の前で、舞い落ちてきた一際大きな羽根の塊に、ものみが飛び付いた。


「にゃ? トキノー!?」

「あら? あらあらものみ! ダメでしょペッしなさいペッ!!」


 ふたたび人の姿になってしまったものみに慌てる朱鷺乃。

 騒ぐ二人に毒気を抜かれたジジは、しばらくの間そのやり取りを茫洋とした表情で眺めていたが、ものみの肩にコートを掛けると、衣服を探しに校舎へと向かった。


        §


 風を渡りながらアスキスは思う。

 ハスターの意志が眠る今、アスキスは本来得るはずだった、巫女の権限を越えた力を振るっている。

 おそらく銀貨は、寝所である黒きハリ湖に還ったハスターの残骸の中、眠りに就いている。

 エーテル体を共有するアスキスが望めば、夢見ながらでも駆け付けてくれる。


 人類を素材にした、神化実験は始まったばかり。

 神が次々と顕現するというのなら、好都合じゃないか。

 あたしが強くなり銀貨に近づける機会チャンスが、それだけ多くなるってことだから。


 どれだけ長い道のりになろうとも、必ず彼女を迎えに行く。


 信じて待っていてくれる、銀貨の微笑みを想い浮かべながら。

 アスキスは東の空へと速度を上げた。


                          ep.WalpurgisGarden END

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