裁慧士郎
眼帯の魔女エステルに連れられ、
一時は敵対していた人物。信用して良いのかはまだ分からなかったが、二頭の黒犬が付き従っており逃げ出せる隙などない。
何より朱鷺乃一人では、再び無限回廊のとりこになってしまうのがオチだ。
アスキスの安否が気がかりで仕方がない。
目の前で何本もの剣が無造作に突き立てられてゆくのを、朱鷺乃はただ見ていることしかできなかった。
「死んじゃいないよ。連れて来いってのが指示だったからね。生きてさえいればどうなっていてもいいとは、ジジもずいぶん雑な受け取りかたしたもんだけど」
朱鷺乃の物憂げな表情に、エステルは軽い言葉を投げかける。不安はかえって増すばかりだった。
エステルの言葉を信じるなら、父に手に掛けたのは、アスキスの師匠だったということらしい。
追い求めていた真実に近付けたはずなのに、まるで嬉しさを感じない。
アスキスはどこまで知っていたのだろう。朱鷺乃は利用されたのか。
当事者のはずなのに、置いてけぼりの蚊帳の外。
誰を信じていいのかさえ分からずに、疑心暗鬼に囚われる。
今は胸に抱いた仔猫の温もりだけが、朱鷺乃の支えだった。
扉を一つ潜ると景色は変わった。
廊下は歪んでおらず、歩けばちゃんと端に辿り着く。
朱鷺乃は応接室に通され、ここで待つよう言われた。
窓がないのでどことも知れないが、まともな場所であることは確かなようだ。
「貴女も心配ですわね、ものみ?」
突然人の姿になって、さんざん朱鷺乃を振り回したというのに、話し相手が欲しい時には元の姿に戻っている。
気まぐれな仔猫は、朱鷺乃の言葉に首を傾げるばかりだった。
人の気配を感じたのか。ものみは朱鷺乃の腕から抜け出し、ソファの影に隠れた。
入室してきたのはジジだった。
トレーニング中の中学生にしか見えない姿をしているのに、つい今しがた朱鷺乃の目の前で凄惨な行為をしてのけた。
そのことが嘘であったかのように、今は茫洋とした表情を浮かべている。
「アスキスは無事ですの!?」
「……大丈夫。あの子はあれくらいじゃ死なない」
大丈夫なはずないだろう。
そうは思っても、朱鷺乃には重ねて問うのもためらわれた。
「所長が会ってくれるって」
朱鷺乃と目を合わせるでもなく、呟くように用件のみを伝える。
鈴音に反応し、ジジがソファの影のものみに目を止めた。
目の前でアスキスが串刺しにされたのを覚えているのか。
ものみは毛を逆立てて威嚇の声をあげている。
「……クリームパン、ありがとう」
小さく呟くジジの表情は変わらない。
それでも朱鷺乃には、その表情が少しだけ寂し気に見えた。
裁と会うのは何年振りだろうか。
相棒と共に父の元を訪れ、珍しい品々を披露してくれる彼は、幼い朱鷺乃にとって憧れの存在だった。
父の膝の上、裁が夜通し披露する冒険譚に、眠い目をこすりながら夢中で聞き入ったものだ。
今から思えば、父が彼らに出資していた目的は、怪しげな品々自体ではなく、半分以上、共に興じる馬鹿話のほうにあったのだろう。
長じてからは、子供相手の法螺話と受け取るようになっていたが、アスキスと出会ってからの数日で、その認識も覆ってしまった。
ジジと入れ替わりで入室した裁は、黒いスーツに身を包み、朱鷺乃の記憶と変わらずに、凛々しく若々しいままの姿だった。
「久し振りだな。御尊父の事は大変残念に思う。弔問には出向けなかったが、私で力になれることがあれば、何でも言って欲しい」
「お心遣い感謝します。古い友人にそう言って頂けて、父も喜んでいると思いますわ」
裁の弔意を受け、朱鷺乃も当たり障りのない型通りのあいさつを返す。
自傷したと聞かされていたが、看護師の話が大げさだったのか。
顔色が悪く、精彩に欠けるようにも見えるが、動作に不自由は感じられない。
「……慧士郎。お身体のほうは平気ですの?」
「問題ない。以前と違い、今は小さいとはいえ組織の長をしている。多少の不調でも、それなりの立ち居振る舞いを求められるものでね」
そう言って裁は苦笑を浮かべる。
昔は見せなかった、どこか取り繕った表情だ。
「お父様に送られた、この“鍵”のことをお聞きしたいのですが――」
「組織の問題に巻き込んでしまい済まなく思う。紅劾に送ったのは、組織外の信頼できる人間に、しばらく預かっていて欲しかったからだ」
送付したあと入れ違いで紅劾の死を知り、傷で動けない自らに代わり、早急に回収するためにエステルを送り込んだのだという。
「使いの者が手荒な真似をしたのなら許してほしい。腕は確かだが、社会性には乏しいものでね。万が一にもご遺族を巻き込むことのないよう、早急に極秘裏に済ますよう指示したのが裏目に出てしまった。本当に申し訳なく思っている」
「言って下されば、私がお届けしましたのに……」
「こうして会うのも本意ではなかった。それに私は、君はともかく、君の御母堂には快く思われていないからな」
それは事実だ。朱鷺乃の母は裁たちのような客を家に招くのに難色を示し、会うのはもっぱら別荘に限られていた。
それがいつからなのかは分からないが、裁は本物の魔術や化物と関わる世界に足を踏み入れているらしい。
トラブルのなか旧知である父を頼りにしたことも、その家族まで巻き込まぬよう、秘密裏に“鍵”を回収しようとしたことも。
自傷した理由に触れていないことを除けば、裁の話には一応の筋は通っているようにも思える。
「そう……ですの」
鍵を握ったまま、朱鷺乃は言葉を切った。
裁は無言のまま、それを差し出すのを待っているようだ。
語られない部分は飲み込み、これで納得し鍵を返すべきだろうか。
父を死に追いやったのがアスキスの師だとして、法的に追求できる話とは思えない。
犯人が分かっただけでも良しとし、このまま引き下がるべきだろうか。
朱鷺乃の意思は違うと叫んでいる。
父が死ななければならなかった理由は、何一つ明らかになっていない。
自分の好奇心に巻き込んだ形のアスキスは、傷付き囚われたままだ。
問題は何一つ解かれてはいない。
「この鍵はなんですの? 私には知る権利が、知るべき義務があると思いますけど?」
裁の整った顔からは、どんな種類の感情も読み取れない。
長い沈黙の後、裁は口を開いた。
「君にはここで、引き返して欲しかったのだが……。場所を変えよう。現物を見たほうが話が早いだろう」
裁に誘われ、朱鷺乃はエレベーターに乗り地下へと向かう。
エレベーターの表示で、話をしていた部屋も地下なのだと知れた。
階数表示は止まることなく、さらなる深みへと降り続ける。
どれだけ降りたのだろう。重い作動音が聞こえてくる。
扉が開くと目の前には、幾つものタンクが並び、その間をパイプやコードが走る、工業施設のような空間が広がっていた。
照明の落された無人の空間を歩き、裁は奥の壁面に設置された端末にカードを通し操作した。
壁に見えていた一面の巨大なシャッターがゆっくりせり上がり、ガラス壁が現れる。
現れたのは、ジンベエザメでも悠々と泳げるほどの巨大な水槽だった。
満たされているのは水ではないのか、微かに桜色に染まっている。
分厚いガラス壁と満たされた液体の向こうに、無数のコードを繋がれ浮かぶ何かが、ぼんやりと見えた。
巨大な鳥――だろうか?
左の上体のみの翼持つもの。
アスキスが見えると言っていた、無名都市の空に浮かぶ存在か。
たゆたっているようにも、自ら動いているようにも見えるそれを、もっと観察しようと朱鷺乃が近づくと、肩を掴まれ裁に制止された。
「あまり見ないほうがいい。厳重に封印を施してはいるが、相性によっては取り込まれることもある」
「これは……いったい何ですの?」
「神とも呼ばれる存在。我々人類の敵だ」
「……神?」
「10年前起きたスペインの大災害を覚えているか? あれを引き起こした本当の原因が
朱鷺乃が子供の頃のニュースだが、おぼろげな記憶がある。3万人近い犠牲者を出した大惨事だ。
震災ともされているが、地震が少ない土地であり、震源とされる地点が浅すぎたこと、また、巨大な竜巻の目撃報告があったものの、観測はされていないなど、不自然な点が多く残されている。
巨大隕石の衝突や、地震・気象兵器の可能性まで、当時は様々な説が流された。だが、多すぎる犠牲者の前に、不謹慎な憶測は封印され、語る事さえ半ば禁忌とされていたと覚えている。
街一つ消えた跡地は数年がかりで更地にされ、今でも復興が続いているはずだ。
「この存在、ハスターの顕現により巻き起こされた悲劇。だが預言に記された神は30柱。まだ続きがある」
込み上げる吐き気に朱鷺乃は口元を抑えた。
それが水槽に浮かぶものにあてられたのか、裁の話す内容のせいなのかは分からない。
「これらに対処するための情報を、引き出すのに書物を紐解くに必要なもの。それがその“鍵”だ」
にわかには信じがたい話だが、水槽の中のものに向けられた裁の視線に、朱鷺乃は病的なまでの執着が込められているのを感じた。
体調を崩した朱鷺乃は、上階に戻り、用意されたベッドで横になっている。
頭を整理しきれない。
いったい自分はどうすべきなのか。
トイレで吐いていたのを心配してか、ベットに飛び乗ったものみが掌を舐めてくれる。
少し気が楽になった朱鷺乃は、軽く喉をくすぐってあげた。
「ものみは優しい子ですわね。貴女はどう思いますこと?」
聞かれたものみはベッドから飛び降り、落ち着かない様子で部屋を歩き回っている。
どうやら隣室を気にしている様子だ。
ドアを調べると、鍵は掛かっていなかった。
客室があるような施設ではなく、朱鷺乃が寝かされたのは裁の寝室。隣は書斎だろうか。
ここにも窓はなく、暗がりに書架に並ぶ本が見える。
手近にあるはずの灯りのスイッチは見当たらない。
明かりを入れるためドアを大きく開けると、微かな金属音――鎖の鳴るような音がした。
音に視線を向けると、書き物机の上に置かれた黒い本が目に付いた。
ずいぶん古い物のようだが、奇妙なことに幾重にも鎖を巻かれ、錠が掛けられている。
「ものみ?」
仔猫は毛を逆立て殺気立っている。
暗い部屋のどこかで、床を這いずるものの気配がした。
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