再開と再会と

 はじめて見たとき、本物の天使だと思った。

 透き通る白い肌に、艶やかな銀の髪。瞳はアメジストの輝き。


 いつもより目立たないように、日陰で膝を抱える。

 あたしは彼女の目に映ってはいけない。

 きれいな瞳を汚してしまう。


 子供にも大人にも歩みを妨げられない彼女は、あたしの前で立ち止まる。

 間近で見る彼女は、呼吸を忘れるほどきれいだった。


 ならいになった媚び笑い。

 彼女はいきなり引っ叩いた。


「立ちなさい。上を向きなさい。あなたはわたしが選んだんだから」


 打たれた頬の痛みより、驚きで頭が真っ白になる。


「ひとりじゃ無理だっていうのなら、わたしがあなたの傷になってあげる」


 差し伸べられた手は華奢で小さかったけれど。

 掴んだあたしを、確かな温もりと力強さで引き起こしてくれた。


        §


 寝台の上、包帯まみれのアスキスは天井を眺めている。

 身体中に剣の突き立つ、ハリネズミのような姿にされたあと、ジジに引き摺られて来た医療施設だ。

 無限回廊で扉を一つ潜った後は、まともな廊下が続いていた。外に出ることはできたのだろう。


 看護師にボロ布になった制服を脱がされ、傷の縫合も無しに手早く包帯を巻かれた。

 あれでも急所は外したんだろうが、生きているのが不思議なくらいの有り様だったはずだ。

 麻酔でも打たれたのか、指一本動かすこともできない。


「ご無沙汰ねアスキス」


 ねっとりと馴れ馴れしい声に、アスキスは眼だけを動かし視線を向けた。

 そこには場違いにも、修道服に身を包んだ若い女が立っていた。


 声が出せたなら悲鳴を上げていただろう。


 最悪だ。なんでこいつがここにいる?

 シスター・フランチェスカ。

 こいつには、たらい回しにされた最後の孤児院で世話になった。


 頼る相手も逃げ場もない孤児たちをいたぶるのが趣味の、真性のサディスト。

 自らを傷付けるよう命じ、従わなければより大きな罰を与え、従えば気まぐれで褒めて見せる。

 お気に入りの孤児は徹底的に調教し、最後には愛想笑いを浮かべながら自分の指を折って見せる、完全な奴隷に仕立て上げる。

 一度目を付けた相手は、どこまでも執着し逃さない。

 人の心と体を壊すことに何にも勝る快楽を抱く、最低最悪の変態だ。


 風を起こそうと意識を集中するも、何の反応もない。

 連戦で精神力が摩耗し切ったか、あるいは魔法を封じられているか――恐らくその両方だろう。


「あら、面白いわね。もう傷が塞がってる。取り込んだハスターの組織のおかげね」


 異形の心臓のことだろう。

 アスキスを気遣う風もなく、無造作に胸に巻かれた包帯をずらす。

 短剣が貫通した箇所は、わずかな傷痕を残し塞がっていた。


「ハスターに飲み込まれずに、人の形を保っていられるのは、どうしてかしらね?」


 手近にあったメスを取り、アスキスの胸に滑らせる。


「今まで一度も、誰にも成功しなかったのに。アビゲイルでさえ気付けていなかったようだから、きっと銀貨の仕業ね? 規格外のすることだから見逃すしかなかったけど、今度は私が好きにする番よね?」


 ほほ笑みながら同じ箇所を、何度も何度もメスでなぞる。

 アスキスは冷たい汗を浮かべ、その光景を見ることしかできない。


「あの子がご執心だった訳だわ。可愛らしいだけじゃなく、こんな適性も持っていたなんて。あなたに抗体を作る手助けをしてもらえれば、ようやく塩漬けになっているハスターの体組織の有効利用ができる。嫌とは言わないわよね、アスキス?」


 メスに付いた血を、フランチェスカはうっとりとした表情で舐め取って見せた。


「安心して、命までは取らないから。――いえ、取れないのかしらね、フフッ。少しくらい手荒に扱っても壊れないでしょ?」


 メスを滑らせながら、爬虫類めいた目で笑う修道女。

 アスキスの心に絶望が重く圧し掛かる。


「私の好みより少しばかり育ち過ぎたみたいだけど。また仲良くしましょうね、アスキス」



 望まない再会を遂げたあとアスキスは、看護師に運ばれ、裸同然の姿のまま部屋を移された。

 小さく密閉された隔離室。

 内側にはノブもなく、扉が閉まると真の闇に包まれる。

 完全な無音で、息苦しさを覚える。


 依然風を起こすことはもちろん、使い魔を呼ぶこともできない。

 ストレッチャーにベルトで拘束されたまま、アスキスは少しでも体力の回復を待つ。


 あの女も孤児院も、神智学研究所に関係していたのか。

 思えば事件直後から色々おかしかった。

 旅行先のアンダルシアで災害に巻き込まれ、保護されニューイングランドに帰って以降、誰一人親族に会えていない。

 叔父叔母は引き取りを拒否したと聞かされたが、一度の面会もなく、アスキスから連絡することさえ許さなかったのは、どう考えても不自然だ。


 突然天涯孤独の身になった幼いアスキスの絶望も、フランチェスカにとっては、己の貪る愉悦のエッセンスでしかなかったのだろう。

 誰にも助けてもらえないまま受け続ける、虐待と凌辱の記憶。

 体が震え、心が黒く塗り潰されそうになるが、今のアスキスには銀貨との思い出がある。

 簡単に折れてやるもんか。


 薬が抜けてきたのか、わずかに指先が動く。

 そのまま手首の拘束を外そうともがいていると、入り口が開き光が差し込んだ。

 意識のないふりで気配をうかがうも、入ってくる様子がない。

 視線を動かすと、ドアの隙間から覗く銀髪の少女がいた。


「銀貨!」


 息が止まるかと思った。

 10年前そのままの彼女の姿。

 彼女のことを考えていたから、幻覚でも見ているのか?


 不意に拘束が緩んだ。

 慌てて手首を引き抜き、残りのベルトを外す。


「こっちだよ」


 くすくすという笑い声も10年前と同じ。

 身体に上手く力が入らず、アスキスはストレッチャーから転げ落ちた。

 大きな音を立ててしまったが、人の来る気配はない。

 アスキスはよろめきながら銀貨の後を追った。


 施設の中に人がいないわけではない。

 それなのにアスキスは、奇跡のようなタイミングで看護師や職員の目を逃れ続け、先へ進んだ。


 時折見える銀貨の背中には、白い翼が生えているのが見える。

 残念なことに、羽根を生え揃うのは左肩のものだけで、右肩のものは小さな骨格のみという、アンバランスな物だったが。


 銀貨を追うアスキスが辿り着いたのは、手術室か解剖室のような部屋だった。

 手術台に残る血の染みに、フランチェスカの娯楽を連想し吐き気を催す。


 部屋の奥にある扉が開いている。

 人の気配はない。

 慎重に様子をうかがうと、そこには無数の標本を詰めた巨大な瓶が並んでいた。


 瓶の大きさと中に浮かぶ標本のシルエットだけで、アスキスにはそれが何なのか、すぐに分かってしまった。

 あまり気は進まないが、瓶を並べた棚の向こうに見えた銀貨のドレスを追い、アスキスは奥の部屋へと歩を進めた。


 並んでいる標本は、人間とそのパーツだ。

 どれも触腕や羽根を備えた歪な姿を晒している。

 できるだけ視界に入れないよう、アスキスは俯いて歩いていたが、右半身はほぼ完全な人体、左半身からは無秩序に小鳥の翼状の物が生えている標本を目にし、気付いてしまった。


「孤児院の生徒じゃねえか……」


 泣き虫のリィズアンナ。

 アスキスより小さかったから、何度も庇ってやった記憶がある。

 運良くアスキスが救い出された後に、いったい何人が犠牲になったのだろう。

 いや、その前にも。いったい何人が同じ目に合っていたのか。


 ガラスの向こうでリィズアンナの右目が動いた。

 アスキスだと分かるのか。

 こんな姿にされても死ねないのか。


「……ごめんな……」


 今のアスキスでは、リィズアンナを助けてやるどころか、殺してやることさえできない。

 目を伏せ、罪悪感でいっぱいのまま銀貨の気配を追う。


 標本の群れを抜けた奥の壁には、場違いな古い木製の扉があった。

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