ジジ・刃渡

 ざらついた物が頬を撫でる感覚に意識を取り戻す。目を開けると、頬を舐めていた仔猫がぴょんと飛び退いた。


 全力を出し切って、わずかな間気を失っていたらしい。制服の肩は破れたままだったが、異形の器官は消えている。白い羽根はまだ辺りに散らばっていたが、見ているうちに淡雪のように消えてなくなった。


「お前にも無理させたか。ありがとな」


 頭を撫でてやろうとした手はかわされ、ぺしりと前脚で叩かれる。可愛げがない。捕まえて喉元をくすぐってやる。


 見回すと、アビゲイルの書斎は完全に瓦礫の山に変わっていた。生家より長く過ごした馴染みの部屋だが、いずれ無限回廊に飲み込まれ、痕跡も無くなるだろう。名付けたばかりの使い魔ルールーは、手持ち無沙汰な様子で浮かんでいる。


 あたしの心臓。これは、銀貨がやったものなのか?

 今もいつもと変りなく、胸の中で脈打っている。肩に形成された器官は、この心臓の影響か。


 銀貨。


 人類最適解存在。


 ほんの数回逢っただけ。それでも、何よりも強く今のあたしを形作ったひと。彼女と過ごした最後の5日間は、淡い黄色の穏やかな温もりで、今もあたしの胸の奥の柔らかな部分に息づいている。


「生きて……るんだな」


 泣き出したいのか笑い出したいのか。自分でも整理しきれない衝動がこぼれ落ちないように、強く胸を抑える。伝わる心音。彼女と繋がる確かな証だ。


 強すぎる抱擁に、ものみが抗議の声をあげる。いいからお前も黙ってあたしの幸せの分け前に預かっとけ。


「何事ですの、これは」


 聞き覚えのある声に顔をあげると、行方知れずだったあたしの雇い主が、おっかなびっくり書斎だった空間へ足を踏み入れてきた。


「無事だったのか! ずいぶん探したぞ。いったいどこほっつき歩いてたんだ?」

「あら。あらあら。元に戻れましたの?」


 あたしの腕をすり抜けて走り寄る仔猫を抱き上げる朱鷺乃ときの。ものみの述懐を聞かされた身としては、思うところを直接話して聞かせる機会を失ったことに、複雑な思いもある。でも、心から喜んでいるらしい一人と一匹に、いまさらそれを言うのは野暮ってもんか。


 そんな思いに和んでいたあたしは、朱鷺乃に続いて現れた二人目の人物を目にし、表情を引き締める。


「なんでこいつがここにいるんだ?」


 雑に伸びた黒髪、黒のタンクトップに同色のスパッツ。商店街で会った行き倒れだ。


「私がこの迷路に迷い込んで困っていた時に、偶然再会して助けて頂いたんですの」

「そんな偶然あるもんかよ!」


 身構えるあたしに、黒髪の少女――ジジとかいったか――は、ほんの少し眉をひそめて見せる。困ったようにも、気を悪くしたようにも見える顔。いろいろ仕掛けのありそうな街だ。百歩譲って偶然無限回廊に紛れ込む生徒もいるのかもしれない。だが、それがさっき会ったばかりのこいつというのは、偶然というには出来過ぎだ。


「この子は敵じゃありませんわ。もしそうなら、私を貴女と会わせたりはしないんじゃなくて?」


 ジジは構えもせず、どこか他人事のように困り顔を続けている。何かを待っているような間が、あたしを苛立たせた。


「それより、貴女のほうは無事ですの? 何か色々あったようですけど……」


 アビゲイルの事をどう話すべきか。朱鷺乃の父、紅劾こうがいを殺したのは、ヤツの仕業で間違いがないだろう。だが、「あんたの父親を殺したのはあたしの師匠だ」と、聞かせて受け入れてもらえる話か。


 “鍵”が何だったにせよ、アビゲイル亡き今となっては、あたしに必要なものでもない。喧嘩別れになるにせよ、ここで正直に話してしまうべきか。


「……ここはあたしの師匠の書斎……だった場所だ。今さっき派手な師弟ゲンカが済んだところさ」


 口に出たのは当たり障りのないセリフだった。話して聞かせるにせよ今じゃない。お互いもう少し落ち着いてからだ。


「そうですの……」


 何かを察したのか、口籠る朱鷺乃。ぎこちない空気が漂う中、会いたくなかった三人目が姿を現した。


「なに? 先に二人とも見付けちゃったワケ? これじゃあわたし骨折り損じゃない」

「お前は!!」


 ぼやきながら瓦礫を踏み越える眼帯の魔女。一頭の黒犬を従えている。

 ものみを抱きかかえた朱鷺乃を背後に庇う。連戦だ。切り抜けられるか?


「……大丈夫、朱鷺乃を傷つけたりはしない。さばき所長の指示……」

「裁……さん?」


 どこか茫洋としたままのジジの言葉に、朱鷺乃が動揺を見せる。こいつらは神智研しんちけんの指示で動いているのか。


「裁さんと直接話せるのなら、鍵はお渡しするにやぶさかじゃありませんわ」

「ちょ、ちょっと待て、良いのか?」

「何に使うとも分からない鍵より、お父様の死について伺うほうが大事ですわ」

「鈍いな。ほんとにまだ気づいてないの? 紅劾を殺ったのは、アビゲイルの使い魔でしょ?」


 朱鷺乃の表情が強ばる。


「うまいことわたしらの上前跳ねるつもりだったんでしょうけど、弟子に裏切られるなんて詰めが甘いね」

「……アスキス……知ってましたの?」

「……………………」


 いま知ったばかりだと言って信じるか? 探索の目的を果たしてしまった朱鷺乃にはもう、あたしと組む理由がない。父親の敵の弟子ならなおさらだ。


「朱鷺乃、あたしは――」

「鍵さえ渡せば安全な所に連れてってあげる。そっちの半人前、あんたにも来てもらうよ!」


 黒犬に狩りの指示を出すべく身構えたエステルを、ジジが手で制した。


「エステルは朱鷺乃を連れて先に行ってて。この子はわたしが連れてゆく」

「やれるもんならやってみろ!!」


 どれだけ自信があるのか知らないが、気負いもせずに言ってのける態度に苛立ちを覚える。判断が付かないらしい朱鷺乃は、後ろに下がりあたしから距離を取る。後で全部話そう。納得できるかどうかは朱鷺乃次第だ。


 石は残っていないが、以前に比べ地力は格段に上がっている。やりようによっては切り抜けられるはずだ。


「ルールー!」


 使い魔を介しての横合いからの高圧空気弾。ジジは目も向けず手にした短剣で切り裂く。どこから出しやがった!?


 飾り気のない半透明の刃を持つ短剣。この感じは見覚えがある。天屍てんしの羽根――高密度のエーテル体か!


 短剣を投げつけ駆け寄るジジ。手に風を纏い付かせ弾き飛ばすも、ジジの手にはすでに二本目の短剣が現れている。クソッ! こんなことなら儀式用の短剣か仗を持ち歩くべきだった!


 真後ろからのルールーの攻撃。ジジはかわす動きでそのまま斬り付ける。使い魔は虹色の球体を弾けさせながら姿を消した。


「ルールー!? 畜生ッ!!」


 使い魔の心配をしている余裕はない。手足に風を纏わり付かせ刃を凌ぐも、決定打を撃つ隙が見付からない。短剣を叩き落とすのに成功しても、ジジの手には何度でも新たな得物が現れる。かわし切れずに受けた傷で制服が赤く染まってゆく。


「何なんだお前はッ!?」

「……あなたは覚えてない」


 倒れた拍子に着いた左手を、短剣で縫い止められる。少し困ったような表情のままのジジの背後に、ぼんやりと巨大な手のような物が浮かんでいるのが見える。


「お止めなさい!! もう十分でしょう!?」


 叫んでいるのは朱鷺乃か。振り上げようとした右手にも、二本の短剣が生える。構わず引き抜こうとするあたしの脛に腿に肩に背に腰に。次々と短剣が突き刺さる。


「アスキスッ!!!」


 朱鷺乃の悲鳴。歯を食いしばり、滲む視界で睨み付けたジジの顔は、何故だか泣き出しそうに見えた。

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