無銘の心臓
眩暈がする。
貧血で倒れる寸前の、血の気が引く感覚。
「ゴスロリちゃん、だいじょうぶ!?」
ふらつくアスキスを、ものみは慌てて支えた。
「ああ、そうだったねえ。お前はあれの顕現した街で、死に損なったんだったねえ。どうだい、何か思い出したかい?」
額に脂汗を浮かべ、口元を抑え吐き気をこらえるアスキスに、アビゲイルは、爬虫類めいた冷めたい視線を向けている。
「具合が悪そうだねえ。ほら、温かいお茶でも飲んで落ち着きな」
書架の一部がスライドし、奥からティーセットを載せたカートを押す大男が現れた。
室内だというのにフロックコートを着込み、山高帽を目深に被っている。
アビゲイルの使い魔である、人の顔を持つ鼠のグレイ・ワーウィック。
アスキスが不在の間、代わりに人型で雑用に使われていたらしい。
「ところで、その子は何なんだい? 見たところ、お前の使い魔でもないようだが」
聞くまでもなく、一目で人間でないことを見抜いていたのか。
アビゲイルは値踏みするような視線をものみに絡めている。
「
「エーテル体どころか。これはアストラル体の欠片まで取り込んでるみたいじゃないか。
理解できなくとも、不穏な空気は察したらしい。
怯えたものみはアスキスに身を摺り寄せてくる。
「待って、アビゲイル! これでも今はあたしの依頼人の身内だ。手を出してもらっちゃ困る!」
「
アビゲイルはカサカサと皺を歪め笑みを浮かべる。
給仕をしていたグレイが、背後からものみを捕まえ吊り上げた。
「にゃッ!? はーなーせー!!」
「止めろ、このッ!!」
暴れるものみの手が山高帽を叩き落とす。
グレイの陰険そうな鼠面を見たものみは、何かを思い出すような顔で動きを止めた。
ひくひくと鼻を動かし匂いを嗅ぐと、突然大声をあげた。
「こいつ、パパが死んだ日、おうちに入り込んでたやつだ!」
パパというのは紅劾のことか。
アスキスの脳内で、欠けていたピースがかちりと嵌った。
「どういうことだババァ!? 何か仕組んでやがるな!!」
「だからさっさと捌けと言ったんだよ」
間違いない。
“鍵”を手に入れるためグレイを忍び込ませたが、読み間違いで品はまだ届いておらず、故意か事故か紅劾の命を奪うことになった。
だがなぜ二度目はアスキスを送り込んだ?
グレイでは融通が利かないと判断したからか?
「どういう筋書きだ! いったいあたしに何をやらせようとしている!?」
「検分は済んだ。あんたはもう何もしなくていいよ」
激昂し師に詰め寄ろうとしたアスキスは、胸に抉るような痛みを覚え、足を止めた。
「てめ……アビゲイル……どういう……」
椅子に座ったまま右手を前に差し伸べるアビゲイル。
その掌中にうっすらと、赤く脈打つ肉塊が形を取り始めている。
臓器を奪うアビゲイルの魔法だ。
アビゲイルの認識に事実が追い付くとき、アスキスは心臓を抉り取られることになる。
「ほう。これはなかなかの見ものだねえ」
アビゲイルは感嘆の声を漏らした。
脈打つ心臓からは、何枚かの白い小鳥の翼のようなものが生えている。
「手の中にあったも同然なのに気付かないなんて。儂ももうろくしたもんだよ」
あれは本当にあたしの心臓なのか?
それが完全に形を取る寸前、アスキスはスカートのポケットの中で、何かが砕けるのを感じ取った。
同時にアビゲイルの掌中の心臓も霧散した。
「ありがたい……朱鷺乃にもらったお守りか!」
わずかな隙に呼吸を整え、アスキス黒曜石をばら撒き、圧縮した空気の塊を乱射する。
めくら撃ちでグレイは弾き飛ばせたようだが、アビゲイルは一房の髪さえ乱した様子がない。
「ゴスロリちゃーん!!」
「ちょうどいい!」
グレイの手を逃れ、きれいに着地したものみは、アスキスに駆け寄り背中に隠れた。
アスキスは残る石全てをばら撒き、エステルの罠を壊した時と同じに、自らを中心に全力の暴風を生み出す。
「やれやれ、同じことさね。手間かけさせるんじゃないよ」
アビゲイルはため息を一つ吐くと、再びアスキスに向け右手を差し伸べた。
不可視の指が心臓を握る痛み。
アスキスの巻き起こす風は、
それなのに、薄く笑うアビゲイルを、肘掛椅子から立たせることすら叶わない。
「がんばれ! がんばれ!」
目を固く閉じ、アスキスの背中にしがみついたまま。
それでもものみは、精一杯の応援を続けている。
アスキスは壮絶な笑みを浮かべた。
「やらせねえよ、アビゲイル! 良いように使われて、何も分からないまま死ねるかっての!」
左肩に感じる痛み。
ルヒエルの制服を突き破り、古木の枝のようにも、翼のようにも見える器官が形成される。
「まったく、やってくれるよあの小娘。この儂の目を10年も欺くなんてね」
「銀貨のことか!?」
銀色の天使の姿が、アスキスの脳裏に鮮明に浮かぶ。
10年。
アスキスがアビゲイルに師事した時間。
地獄だった孤児院から救い出され、アビゲイルの元で修業を始めることになったのは、銀貨に選ばれたからだ。
「こんな芸当出来る奴が他にいるってのかい? 馬鹿にされたもんだよ。あんたを使って名付けざられしものの制御を頂いたら、探し出して挨拶にいかないとねえ」
あたしを導く銀の月。
やっぱり生きてたんだ!
あんなに綺麗で強い存在が、簡単にいなくなるはずがない!
さすがに余裕が無いのか、アビゲイルが杖を手に立ち上がった。
それでも、既に掌の中の心臓は完全に形を表しつつある。
足りない。
あと一押し、何か!
「まだ死ねるかよッッ!!!!」
叫びに呼応するように、アスキスの眼前に無数の虹色の球体が現れた。
それがシャボン玉のように弾けて消えたあと浮かぶのは、無限回廊で見付けた、ふわふわの繊毛と二本の触腕を持つ生物。
それが挨拶でもするかのように身体を傾けると、吹き荒れる風は威力を増し、書斎の全てを吹き飛ばすほどの颶風と化した。
「なんだお前、律儀に借りを返しに来たのか?」
アスキスが感じているのは、使い魔がするような演算の補助と魔力供給。
契約に必要なのは血と名付け。
ならば。
「ルール―! あたしの目の前のもの、全部吹っ飛ばせ!!」
黒い暴風は、心臓を手にする寸前だったアビゲイルから皮を剥がし、肉を削ぎ、骨を磨り潰しながら吹き飛ばしてゆく。
「強くなったねえ。それでこそだ。馬鹿でまだまだ未熟だけど、儂のたった一人の――」
負け惜しみなのか捨て台詞なのか。
無限回廊の中、本や書架の残骸とともに、どことも知れぬ場所へ飛ばされて行くアビゲイルは、皺だらけの頬を歪め笑ったように見えた。
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