魔女の部屋

 危険は承知の上で、あれからアスキスは何度か扉を試してみた。

 堂々巡りに気付き、抜け出すためにやむを得ずな場面がほとんどだったが、状況が少しでも良くなったのかは怪しいものだ。


 憔悴するアスキスとは対照的に、ものみは扉を開けるたび、目の前に広がる深海や星空に喜声を上げていた。

 幸い命に係わる危機に直面しなかったとはいえ、アスキスはそろそろ精神の摩耗に限界を感じ始めていた。


「まて。それは開けずに先の階段に進むぞ」

「えー? またぐるっと一周しちゃうかもだし?」


 扉を抜け、無限回廊の上層に進めたことのほうが稀だが、ものみは単純に目新しいものを目にするのが楽しいらしい。

 目的がすり替わっているぞ? 


 ふとアスキスは思い至った。

 危険がなく、物珍しい光景を引き当てているのは、ものみの欲求によるものかもしれない。

 だとすれば、回廊のループを作り出しているのは、アスキスの疲弊した精神の影響だろうか。

 立ち止まり、壁にもたれ目を閉じると、しばし呼吸を整える。


 今も無限回廊で迷い続けているのか、既に眼帯の魔女エステルの手に落ちたのか。

 どちらにせよ、朱鷺乃ときのは助けを求めているに違いない。

 どんなに微かにでも、招かれている感覚は無いか。


 目を開けたアスキスは、緩やかに下る回廊の先、吹き抜けに掛かる渡り廊下の向こうに、見覚えのある両開きの扉を見付けた。

 樫製の古びた扉に鈍く光る真鍮のノブ。間違えようが無い。あたしはこれを何度も回した覚えがある。


「助かったのか? 出来れば今はまだ、スルーしたくもあるが……」


 性格の悪い奴のことだ。

 あの部屋から一歩も動かず、アスキスの労苦をずっと眺めていたに違いない。

 手ぬるい弟子のやり方に、じれったくなって招いたか。

 嫌味を言われるだけならまだしも、失敗と決め付けられ、罰を与えられるかも知れない。


 どうあれこのまま時間を浪費し続けるわけにも行かない。

 大き目のノックを二つ。

 一つ息を吐くと、アスキスは師アビゲイルの工房の扉を押し開けた。



 薄暗く、誇り臭い部屋。

 床には古びた絨毯が敷き詰めらている。

 扉以外の壁面は全て、ぎっしり古書が納められた書架。

 溢れ出した本は床に積み上げられている。


 棚には巻物や羊皮紙、様々な鉱物の結晶。

 飾られている頭蓋骨は、何の物とも知れない。

 天井は高く目にすることができない。

 闇の中から下がるシャンデリアの灯りだけが、頼りなく室内を照らしていた。


「手こずってるようだねえ。あんたはちょいと物を取ってくるだけのお使いに、いったい何日掛けるんだか」


 枯葉を擦り合わせるようなかさついた声。

 部屋の奥に置かれた年代物の書き物机の向こうから、肘掛椅子に収まる魔女アビゲイルは、弟子であるアスキスに皮肉を投げ掛けた。


 白髪を後ろに撫で付け、襟元と袖口に金糸で刺繍を施した黒いガウンを身に纏い、肘掛椅子に収まっている。

 広い額や目尻に刻まれた深い皺から、途方もない高齢だと推し量れる。

 実際百はとうに越えているはずだが、声の張りや目の光には、どこか粘るような底知れぬ生命力が感じられる。


「“鍵”を狙ってる奴が他にもいるなんて聞いてない! そもそも何に使う物なのかさえ、教えてくれなかったじゃないか!」

「おやおや。あんたはリンゴを欲しがるのが自分だけだと思ってるのかい? おまけにパイを作るかジャムにするかを聞かないと、リンゴ一つも持ち帰れないお子様だってのかい!?」


 驚いたように豊かな白い眉を上げて見せる。

 大きな鷲鼻に載せた眼鏡の奥で、灰色の瞳が嘲笑の色を浮かべている。

 馬鹿にしやがって!


「そんな泣きごと言ってねえよ!」


 アスキスは机の上の本の山を押しのけ、腰を載せ、アビゲイルに噛みついた。

 矮躯を椅子に深く沈め、枯れ木のような指を机上で組んだアビゲイルは、やれやれと首を振り溜息を吐いて見せた。


「行儀を覚えな! ……まったく、仕方ない子だねえ。お茶を淹れてあげるから、ひと息つきな」


 見えない力で額を弾かれ、机を転がり落ちたアスキスは、毒づきながら本の山から椅子と机を掘り出した。

 借りてきた猫のように、部屋の隅で大人しくしていたものみは、アスキスの影に隠れるようにして椅子に座る。


「なんだ、やっぱりババァが怖いのか?」


 アビゲイルはものみに一瞥をくれたが、僅かに口元を歪めただけで、特に興味も示さぬまま話し始めた。


「あの鍵はね、さばきが『黒の淵』の封印に使ったものさ」


 アスキスの経過報告は必要ないらしい。

 アビゲイルは弟子の求める答えを直截的に口にした。


「『黒の淵』?」

「ああ。古い預言書さね。記されたのは1300年程前だったか」

「アビゲイルは持ってないのか?」


 アスキスは書架を見やりながら尋ねた。

 貴重なものは閲覧を許されていないが、アビゲイル自身、それ自体が強い力を持つ魔導書を、何冊も所有しているはずだ。


「あれは手書きの一品ものだからねえ」

「“鍵”はその本を手に入れ、封印を解くために必要ってことだな?」

「いや、それはまだ先の話さね。例え手に入れたとしても、少々扱いに困る品だからねえ」

「それじゃあ、なんで鍵だけ欲しがるのさ?」


 弟子の問いに、魔女はくつくつと笑いを漏らす。


「儂は当面、誰にも封印が解かれなきゃそれで良いのさ」


 この魔女の手に余るなんて、そんなに厄介な代物なのか。

 わざわざ封印の鍵だけを掠め取ろうとする所に、アビゲイルの性質の悪い企みがありそうだ。


「黒犬遣いの眼帯の魔女に邪魔をされた。あっちは封印を解きたがってるってわけか?」

「メイスンのほうは儂も知らん。寄越したものの見当は付くがな」

「さっさと教えろよ! こうしてる間にも、鍵を依頼人ごと掻っ攫われてるかもしれないだろ!」

「わめくんじゃないよ。まあ、宗蓮院しゅうれんいんの娘は無事だろうて」


 焦るアビゲイル相手に、アビゲイルはどこか他人事のように呟く。

 眼帯の魔女が競合相手なら、アビゲイルにも急ぐ必要があるはずなのに。

 その気になれば、アビゲイル一人で、すぐにでも朱鷺乃を探し出すこともできるはずだ。

 それなのに、なんだ、こいつの余裕の態度は?


「ところで、無名都市むめいとしはどうだった?」


 土産話でも聞く気軽さで、アビゲイルは話を逸らした。

 やはり逐一行動を見張られていたらしい。

 ちょうどいい。アスキスにとっては、そちらも是非とも聞いておかなければならない事柄だ。


「あんたは知ってるのか? 空に浮かぶアレは……あの街は――」

「前に教えてやったろう。遙か昔、この星に君臨していたもの。かつて崇められ、今は忘れられたものども」

「あれが……旧支配者」


 人類が地上に蔓延る以前、この星を支配していた力ある存在。

 今は神話や伝承に僅かな爪痕を残すだけとなった、本物の神性。

 アビゲイルをはじめ、魔女たちに関わりの深い存在も多い。


 黒い男。

 ありえざるもの。

 千匹の仔を孕みし森の黒山羊。


 魔術に関わった以上、いずれ否応なく直面することになる覚悟はしていたが。


「あれは名付けざられしもの。裁の組織した神智学研究所しんちがくけんきゅうしょの、最初にして最大の戦果さね」

「戦果? 戦果だって!? 人があれを殺したって言うの!?」

「応さね。『人が人として在り続けるため神に抗う組織』。神智学研究所は、神殺しを旨にする狂人の集団さ。もっとも、奴らに言わせれば、神を崇め奉る者のほうが狂ってるそうだがね」


 くつくつと咳でも漏らすように笑うアビゲイル。

 神殺しと狂信者、どちらがより深い狂気を秘めているというのか。

 境界に立つ半人前のアスキスには、とてもじゃないが笑えない話だ。


「『黒の淵』の前の持ち主は、上海にあった人工神話編纂局じんこうしんわへんさんきょくディー博士だったかね。彼を殺し、黒の淵を奪った裁は、その記述を手掛かりに神殺しをやってのけた。それも、たった三人でだ。預言を紐解き、約束の地に罠を張り、正しき星辰の整わぬうちに、名付けざられしものを誘き寄せた。もっとも、神を砕くには近隣の住人の命――確か、3万ほどじゃったかな――を、犠牲にする必要があったそうだがな」


「それは――あたしの――」


 椅子を倒し立ち上がるアスキス。


 白い壁。

 強い日差し。

 咲き誇る大輪の花。  

 雲を割り舞い降りる翼。

 全てを踏み拉き打ち砕く、蹄持つ黒い脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚と脚が――――

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