迷い仔

 ずいぶん深い場所に来てしまったらしい。

 ともすれば勝手に進み、迷子になりかねないものみに気を配りながら、アスキスは無限回廊を歩いていた。


 階段を登りきると元の場所に戻っていたり、水平なはずの床が傾斜しているように見たりと、感覚さえ怪しくなっている。

 まだ最低限、上下の感覚は確かなつもりだ。

 上へ上へと進んでいるつもりだが、どれだけ戻れたのかも怪しい。


 まだ人がほとんど入り込んでいない場所だからか、目を離すと容易に構造が組み変わってしまう。

 観察し続け、道を確定させながらの移動に、心身ともに疲弊し足が止まりがちになる。


「びゅーんって飛んで戻れないの?」


 手摺りから身を乗り出し、吹き抜けになった空間を見上げるものみ。


「それに失敗したからこうやって歩いてんだろ?」


 既に試してはみたものの、アスキスには風を操り二人分の体重を運ぶことと、観察し構造を確定することを、同時にはこなすことはできなかった。

 風が工房を打ち砕くほどの威力を見せたのは、工房がエステルの力により確固としたものに定められていたからという、皮肉な理由によるもの。

 無理に飛ぼうとすれば上下の感覚を失い、壁だった場所に落下し叩き付けられる危険すらありうる。


「トキノ、だいじょぶかな……」

「心配ねぇよ」


 根拠のない安い気休めだ。

 だが事実、朱鷺乃ときのは一度エステルの罠をすり抜けている。

 黒犬にも嗅ぎ当てられない場所に迷い込んだ可能性が高いが、それは同時に朱鷺乃にとって、非常に危険な状況だともいえる。


「ところで、お前はなんでその格好になったんだ?」

「うん?」

「どうして“人”の姿になりたいと思ったのかってことだよ」


 天屍てんしの欠片である、エーテル体――あるいはアストラル体までも含んでいるのかも知れないが――の羽根が、生物に影響を与えるのは確認済みだ。

 だが、異形化するのではなく、どうしてこの仔猫は明確に人の形を取ることができたのか。


「んー、トキノともっと遊べるように……ううん、ちゃんとともだちになりたいと思ったからかな?」

「元の姿でも遊んで貰えてたろ?」

「ものみは前の子のかわりだから……」


 途切れがちに漏らすものみの言葉を拾うと、朱鷺乃が長く飼っていた猫が死んだため、父親がプレゼントしたのが、ものみだということらしい。


「朱鷺乃はちゃんと友達だと思ってるんじゃないか?」


 ものみが消えた直後の朱鷺乃の狼狽えっぷりを、アスキスは確かに目にしている。

 使い魔が人の姿を取る場合、主人である魔女の側の力と意志が重要な要素になる。

 同じように、正式な手順こそ踏んでいないものの、朱鷺乃の思いも影響しての結果ではないか。


「……でも、いっしょに寝るといやがられるし」


 昨日の話か。

 ベッドに潜り込んでくるのが仔猫でなく人間なら、そりゃ誰だって戸惑うだろう。

 その光景を想像し、アスキスは苦笑を漏らした。


「もーっ! 何がおかしいの!?」

「いや、悪い。朱鷺乃に追い出されたんなら、あたしの使い魔になるか?」

「いーや! ゴスロリちゃんよりトキノのほうが、絶対おいしいごはんくれるもん!」

「そうかい。残念だ」


 猫と人の姿を思うように変えられるのなら、随分役に立つ使い魔になるはずなのだけれど。


 アスキスたちは上を目指し、歪んだ迷路を歩き続けているが、進んでいる実感はまるでない。


「このままじゃ、埒が明かないな」


 アスキスは扉の一つに目をやり、独り言ちる。

 これまで扉を見付けても、使うのはなるべく避けていた。

 無限回廊の扉を不用意に開けることの危険性は、アビゲイルから嫌というほど教え込まれている。


 時間を越え、違う時代に送り込まれるならまだ救いがある。

 下手をすると、理の違う異界に迷い込み、死よりも悍ましい目に合うこともあると。


 けれど、堂々巡りを続けるだけでは、エステルより先に朱鷺乃を見付けるどころか、やがて力尽き、無限回廊に取り込まれてしまうだろう。


「ものみ。ちょっと鼻を効かせてみろ。どれか、開けてみたいドアはないか?」

「いいの?」


 今まで、ドアノブに手を掛けるたび叱られていたものみは、アスキスの言葉に不思議そうな表情を浮かべる。

 どういう風の吹き回しだろう?

 そんな疑問も長くは続かず、すぐに瞳を輝かせると、興味津々で探し始めた。


 朱鷺乃と使い魔としての繋がりがある分、アスキスが試すより、当たりの扉を探し当てる確率が高いはず。

 大当たりなら、開けたその場で朱鷺乃と再会できるだろう。


「これあけたい!」


 何の溜めも躊躇も無しに、ものみはいきなり手近の扉を押し開けた。


「……大外れだ」


 目の前には、異様な光景が広がっていた。


 生物の内臓めいたぬめりと曲線を見せる床。

 壁の縄目模様がじわじわと動いて見えるのは、決して気のせいではない。

 空間の奥は薄暗くどうなっているかは分からないが、進んで確認する気にもなれない。

 床や壁があるだけまだマシだろう。

 いきなり何もない空間に放り出されていれば、事態はさらに面倒なことになっていた。


「ここは駄目だ。次行くぞ」


 アスキスは厄介事が起こる前にと、ものみに声を掛ける。

 もんみは何かに気を取られているようだったが、いきなり異形の部屋に飛び込んだ。


「こらこら、危ないだろ! 勝手に動くな、早く出ろ!」

「ほら、つかまえた」


 片手で扉を開けたまま、アスキスは慌ててものみの襟首を捕まえ通路に引き戻す。

 にぱーっと笑みを浮かべたものみは、アスキスに誇らしげに手の中の物を見せた。


 それは一見ぬいぐるみのライオンの頭のように見えた。

 つぶらな黒い瞳を持ち、柔らかそうな繊毛からイカに似た長い二本の触腕を伸ばしている。

 見ようによっては、どこか可愛らしく見えなくもない。


「なんだこの生きもの? 噛まれるかもしれないぞ。置いてけって」

「えー、でもー」


 ものみの掌を離れると、それはしばらくふわふわと浮かんでいたが、すぐに空気の抜けた風船のように力なく床に落ちた。


「なんか元気ないね?」

「…………」


 アスキスたちと同じように、どこからか迷い込んでしまったのか。

 力尽き倒れてしまえば、やがて無限回廊に取り込まれその一部となるという。

 生き抜いたとしても、出口を見失いさ迷ううちに、別の姿形になり下がってしまうか、無限回廊に棲みつき、幾つもの世界を渡り歩き狩りをする存在に狙われることもある。


 アスキスはポケットから黒曜石をひとつ取り出すと、指の腹を切り血を一滴たらし、それの前に置いた。


 魔力と生命力のおすそわけだ。

 血と石のどちらかでも取り込めるなら、もう少し生き延びることができるだろう。

 今のアスキスには、この迷い仔を助けてやれるほどの余力はない。

 同じ境遇にいるものへの、同情からの気まぐれだ。


 どこからか、微かにフルートの音色のようなものが聞こえている。

 アビゲイルから教わったとびきりの危険信号だ。

 ここはアスキスのような見習いが長居していい場所じゃない。


「ほんとうに置いてっちゃうの?」


 奇妙な生物は黒曜石にそろそろと触腕を伸ばしている。

 上等だ。生き残る意思があるのなら、あとは運次第。


 未練がましく眺めているものみの手を引き、アスキスは異形の空間を後にした。


        §


 カーテンの端へと回り込み、合わせ目を探しては、少女の気配を追いかける。

 いつまで経っても見えない背中に、朱鷺乃ときのは焦りを抱いていた。

 布を隔てた人の気配。ちらりと見える白い翼。


 出口に案内してくれるという天使なのか。

 鈴を振るようなクスクス笑いは、すぐ近くで聞こえるのに。

 朱鷺乃は少女の後ろ姿を見ることさえ叶わない。


「いい加減にしなさい!」


 じれったさにカーテンの裾をまくり、しゃがんで潜り抜ける。

 スカートの乱れを気にしている余裕はない。

 どれだけ追い掛けただろう。

 疲れ果て座り込むころには、少女の気配を感じなくなっていた。


「困りましたわね……」


 迷路を抜ける唯一の手掛かりと無我夢中だったが、気が付くと朱鷺乃は緞帳の海に一人取り残されている。

 厚く柔らかい布地を毛布代わりに包まると、朱鷺乃は薄暗さと圧迫感に、奇妙な安らぎを感じた。


「子供のころ、物置小屋の秘密基地で遊んだことを思い出しますわ」


 幸いなことに、獣の息づかいも聞こえなくなっている。

 カーテンに沿って、壁に行き着くまで歩いてみようか。

 それとも、目星を付けて入り口の扉に戻ろうか。


 思案を始めた朱鷺乃の目の前で、不意にカーテンが割れ、人影が現れた。

 人がいるはずもないと思い込んでいた朱鷺乃は、突然の出来事に身を固くすることしかできなかったが、それが見知った人物だと気付きさらに驚いた。


「あら……あなたは。なぜこんな場所にいますの!?」

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