蒼穹の夢

 どこまでも深く蒼い空を眺めている。


 このまま吸い込まれ、落ちて行きそうな。

 溶け込んで同じ色になってしまえるのなら、それも悪くはないかもしれない。


 不意にむせ返り、呼吸をしていなかったことに気付く。

 肋骨でも折れているのか。咳き込むたびに激しい痛みが走る。

 咳に混じる血が現実感を呼び戻し、同時に恐怖を湧き起こした。


 いたい、痛い! 死んじゃう! 助けてママ!!


 全身を支配する激痛は、声を出し泣き喚く事も許さない。

 上体を起こそうにも、身体の自由が利かない。

 視界の端には、瓦礫に押し潰された両脚が映っている。

 動かすことはできない。ただ痛みだけを伝えてくる。


 辺りはただ静寂に包まれている。鼓膜が破れているせいなのか。

 恐怖と焦燥で洩らす、自身のか細い悲鳴と啜り泣きも、奇妙なほど小さく聞こえる。


 もがいたせいで傷口が広がったらしい。口と鼻腔から血が溢れる。

 もはや呼吸もままならない。ただ痛みをこらえ、心の中でひたすら助けを求め続けた。


 助けて、助けて、たすけて! ママ! ママ!!


 涙で滲む視界のなか。蒼の中に異なるいろが見えた。

 ゆっくりと落ちてくる白。


 きれいだな。


 痛みも恐れも忘れ、舞い落ちてくる白を凝視する。

 自分では理解できない渇望に突き動かされ、それに右手を差し伸べる。


 小指は欠け、中指は折れ曲がっていたけれど。

 泣いて助けを求めるのを止め。

 歯を食いしばって苦痛をかみ殺し。

 ばらばらになりそうな身体に残った最後の力で。


 血を吐きながらも、一枚の羽根を確かに掴み取った。



 歌声が聞こえる。

 アスキスが目覚めたのはベッドの中だった。


「あら、気が付きまして?」


 ハミングしていたのは枕元の椅子に座り、文庫本を開いた朱鷺乃ときのだった。


 看ていてくれたのか。

 口の中が気持ち悪い。血の味じゃなく、胃液の酸っぱさだ。冷たい水で濯ぎたい。

 右手を挙げて確認したが、欠けることなく全ての指が揃っていた。


 アスキスが見ていた夢は、両親を一度に亡くした10年前の出来事に似ていた。

 少しばかり記憶が混乱している。3万人近い犠牲者を出したあの大災害を、奇跡的にもアスキスは軽い傷を負うだけで生き延びた。

 もし夢で見たような状態だったなら、アスキスは今ここでこうしていられるはずもない。


「空のあれを……見たか?」

「空? 何のことですの?」


 歯切れの悪いアスキスの質問に、朱鷺乃はキョトンとした表情を浮かべ、執事と顔を見合わせた。


「いや……何でもない」


 決まりわるそうなアスキスを前に、朱鷺乃は人の悪い笑みを浮かべる。


「それにしても残念ですわ。貴女も眠っている間だけは、それは可愛らしいものでしたのに」

「残念なのはこっちの方だ。小うるさい雇い主じゃなく、美少女に起こして貰いたかったもんだ」

「そういう性癖をお持ちですの?」

「ああ。……よく見るとあんた、あんがい良い尻してるな」


 アスキスの言葉に朱鷺乃は椅子ごと後ずさり、執事がかばうように間に入った。


「冗談だ。あたしにも好みってものがある」

「殴っておきましょうか、お嬢様?」

「性癖の方は否定されないんですのね……」


 朱鷺乃は目を閉じ指を額に頭を振ると、聞こえよがしにため息を吐いて見せた。


「ところで、その格好は何の真似だ?」


 朱鷺乃は黒のワンピースから、白の修道女風の衣装に着替えている。


「これがここへ来た理由ですの。聖ルヒエル女学園の制服ですわ」


 朱鷺乃によると、高校への進学の際、父親に薦められた候補の一つだという。

 進学に有利な訳でもなく、入寮しなければならなかったことから、試験を受けることもなくそれきり忘れていたのだが、所在地が無名都市であったことから思い出したのだと。


「調べてみたら、父はかなりの額の寄付をしていたようですの。私に入学を薦めたのも、仕事上のお付き合いかと思っていましたが、こうなってくると偶然でもなさそうですわね」

「どうだかな……」


 朱鷺乃は指を立て、得意顔で語って見せるが、決め打ちするには根拠が薄い。

 だがアスキスは、この街全体に大掛かりな結界めいた仕掛けが施されているのを目の当たりにした。


 はいったい何なんだ?

 あんな魔術を誰が執り行える?

 なぜ今ごろあんな過去を思い出す?

 これはどこまでが偶然で、どこまでが必然だ?

 因縁があるのは宗蓮院じゃなく、あたしのほうじゃないのか?

  

 思ったように乗ってこないアスキスに、朱鷺乃はなおも前のめりに言い募る。


「この街で調べ物をするには、この姿が都合が良いんじゃなくて? 貴女の分も用意してありますわよ!」

「あたしが何を着るかはあたしが決めるんだよ。……ドレスはどうした?」


 アスキスが着せられているのは、朱鷺乃の物らしいシルクのネグリジェだ。


「クリーニングに出しておきました。ゲロ塗れで汚れておりましたので」


 ゲロは余計だ。

 執事はニコリともせず吊るしの制服を差し出した。


「雇い主の言う事は聞くものですわよ。調査をするのにゴスロリでは目立ちすぎるでしょう?」

「なんだよ。命令かよ」

「命令ですわ」


 高らかに言い放つ朱鷺乃に、アスキスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「いいよ。分かったよ。だけどな、付いて来るならあたしの指示に従えよ。素人に悪目立ちされて足を引っ張られるのは、正直ごめんだからな」

「私、いきなりもどして倒れてしまわれるような繊細な方に、任せっきりにするほど非情ではありませんわ」

「ぐぬぬ……」


 アスキスはしたり顔の朱鷺乃に返す言葉がない。

 それに、空に浮かぶ異形を目にしていない朱鷺乃らに、この街の危険性を伝えるべきかの判断が付かない。


「貴女の体調が整い次第、調査を始めましょうか」


 調子は悪くない。動くには問題なさそうだ。

 前夜使い切ってしまった、魔力を込めた黒曜石の補充をしておきたいところだが、これ以上後れを取るわけにもいかない。


「病人扱いすんなよ。触媒なしでもこの程度はやれるぜ!」


 軽く驚かせてやろうと、アスキスは低く呪文を呟く。

 起こした風は予想外の強さで吹き荒れ、朱鷺乃のスカートを頭上にまで捲り上げた。


 何だ、この威力!?


「ま……またネコパンツか」


 予想外の威力に自分でも驚いたが、朱鷺乃に悟られないよう、アスキスは軽口を叩いてごまかした。


「こ、これはただのキャラ物ではなく、くろねこミシェールという歴としたブランドで――」


 お腹まで露わにされた朱鷺乃は焦りと驚きで身を固め、弁明じみたものを口走っていたが、じわじわと羞恥に顔を染めた後、溜めに溜めた怒りを爆発させた。


「アースーキースッ!!」

「殴っておきます、お嬢様!」


 今度こそ止めるものもなく、アスキスは執事に拳骨を落とされた。


        §


 彼女は街を歩いていた。チャリチャリと音がする。

 首から下げる戦利品。紐が長すぎ、引きずってしまうようだ。

 これを見たら友達はどんな顔をするだろう。

 ネズミを捕まえて見せた時のように、驚いてくれるだろうか。

 想像すると、すごくワクワクしてくる。

 それにしても、ここはどこなんだろう。ちゃんと帰り着けるだろうか。

 変な街だ。空を見上げると、大きな鳥が飛んでいるのが見える。

 羽ばたきもせず同じところに浮かんでいて、ときどき白い羽根を降らせてくる。

 カラスみたいに襲ってこないなら構わないか。

 視線を下げたその先に、面白そうなものを見つけた。

 羽根のかたまりか、頭のない鳥の雛か。ふわふわしたものが通り過ぎてゆく。

 興味をそそるその動きに、たまらず彼女は飛びついた。

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