そもそも事の発端は《6》


 晏如あんじょ覚宥かくゆうは、お客さまにお茶を出す用意をして、客間の扉の前にいた。

 覚宥は、晏如に少しだけ待機するように目配せをすると、談笑が聞こえてくる客間の扉を、遠慮がちに叩いた。 

「ご歓談中に失礼いたします。旦那様。覚宥でございます。晏如さまを、お連れいたしました」

「お入り」

 すると室の中から、短く応える声がした。その声を合図に、覚宥と晏如は動く。

 晏如は、腹に力を込めて、しとやかに告げた。

「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」

 扉を覚宥に開けてもらい、晏如は盆をうやうやしく捧げ持ち、すべるような足取りで室の中へ入る。

 そして、盆を卓子の上に置くと、一歩、二歩下がった。

 両膝をつき、両手を胸の前で組み、頭を垂れる。完璧な跪拝きはいの礼(ひざまずき、身を折り曲げてする座礼の一種。拝礼とも)をお客さまに捧げた晏如は、先ほど兄と話していた時とは打って変わった静かな声で、話始めた。

はく胡蝶こちょうさま。遠路はるばる、よくぞお越しくださいました。私が、晏如と申します。ご覧のように、大したものはない田舎で、さしたるおもてなしはできませんが、どうか心ゆくまでお寛ぎください。では、私は、これで失礼いたします」

 そう言うと、晏如は音もなく立ち上がり、その場をしずしずと下がろうとした。

「ああ、晏如。待ちなさい」

 退出しようとした晏如を、ちち晏壽あんじゅはすかさず止める。

 彼は、相変わらずのほほんとした笑みを浮かべ、嬉しそうに自分の湯呑みを手に取った。

「晏如。お茶をありがとう。ちょうど喉が渇いて、お茶を飲みたいと思っていたところなんだ。それにこのお方は、君のお客様だ。君がここに居なければ、お話にもならないよ。さ、君も、椅子に座りなさい」

 ほら、おいで。

 父に、そう言外に言われてしまったらどうしようもない。

「…………はい」

 根負けした晏如は、末席に置かれた椅子にしぶしぶ腰掛けた。

 珀胡蝶、と名乗ったこの女性は、父との世間話も早々に切り上げ、すぐに本題に入った。

 その内容は、以下の通り。

 自分は、王都から来たこと。

 龍国の第二王子・さい瑛明えいめい殿下にお仕えしていること。

 その瑛明殿下が侍従を一人、新たに雇いたいということ。

 ここまでは、晏如は他人事のように聞いていた。

 だから何なのか。それが、晏如の正直な感想である。

 しかし。

 そんなのんびりしたことを思っていられるのは、この時までだった。話半分に聞いていた晏如の耳に、こんなとんでもない言葉が入ってきたのだ。

「…………それが、あなたのご子息なのです。晏壽殿」

(へ? 嘘だろっ!)

 晏如は、心の中ですっとんきょうな声を上げた。声を出さなかっただけで、褒めてほしい。

 晏如は、驚くままに、まじまじと胡蝶の顔を見てしまった。

 ほとんど初対面の人の顔をじーと見るのは、大変失礼な行動ではある。もちろん、そんなことをきちんと理解していない晏如ではない。

 しかし、そんな行儀作法をすべて投げ出してしまうほどの一大事が、自分の目の前にいきなり現れたようなもの。ここで、晏如をすぐ叱るのは、少しばかり酷であろう。

 そう思っていたのかは知らないが。

 胡蝶は、晏如の視線に対して気に留めることもなく、晏壽と会話を続けていた。

 月影は現実逃避する自分の頭の中で、こうつぶやいた。僕は、夢でも見ているのではないか、と。

 そうこうしているうちに、胡蝶と晏壽との会話は一区切りがついたらしい。

 晏壽は、ある意味端折った言い方で、今までの話をまとめた。

「つまり、うちの晏如を借りたいと、おっしゃるのですね」

「はい。まあ、そういうことです」

 胡蝶さまが、頷く。

 父は、腕を組んだ。

「……………わかりました。晏如をお貸しいたしましょう。何かとよく出来る息子です。きっと王子さまのお役に立てるでしょう」

 こう、少しだけ考えると、あっさり頷いた。

「ありがとうございます」

 胡蝶さまが、袖の中で両腕を交差したまま一礼する。

…………。なんか勝手に交渉成立。

「ちょ、ちょっと待ってください父上⁉︎」

 今までずっと黙っていた晏如は、ここで初めて抗議の声をあげた。

 何だって!? 僕に宮仕えをしろと!? そんなこと、貸し出される晏如ほんにんの了承を得ずに勝手に決められたら困る。止めてくれ!!

 晏如は客人がいる手前、「ちょっとお待ちくださいね〜」と愛想笑いを浮かべながら取りつくろうと。有無を言わさずに父を客間から引きずり出した。


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