序章

初めての出会い(晏如の初恋)



 その日、僕は家族みんなであるお屋敷やしきを訪ねていた。


 そのお屋敷は、幼かった自分の持つ拙い語彙ごいでは言い表せないほど大きくて。立派なものや珍しいものがいっぱいあった。

 ときどき回廊かいろう(長くて折れ曲がった廊下のこと)を通っていく召使いの女の人や男の人の衣も、今までに見たことがないほどきらきらしていたような気がする。

 すべてが、物珍しくて。

 父上と母上の後ろで、辺りをキョロキョロ見回しながら、どこまでも続く長い回廊を歩いたのを覚えている。

 だけど、なぜか心許なくて。

 そこに自分がいてはいけない気がした僕は、僕たち家族に与えられた控えの間を、そっと抜け出した。



◆◇◆◇◆



 「うぁあ………、す、すごい………」

 僕は思わず大きな歓声を上げていた。

 


 そっと控えの間を抜け出した後。

 僕が向かった先は―――――――庭院。

 僕が思った通り、その庭院は大きかった。目の前には、初夏の美しい光景が広がっていた。

 白い花――――確か浜木綿はまゆうであったか――――が満開に咲いていた気がする。

 それは、今まで見たどんなお花畑よりもきれいで、僕は束の間見とれていた。


 しばらく浜木綿の花たちを眺めた後。

 僕はせっかくだし、もっと庭院の奥に――――四阿あずまやがあるところまで進んでみようと思った。

 そうと決まればさっそく、綺麗に手入れがされている植え込みをかきわけるようにして進む。

 大きなお屋敷には、どこにでも立派な四阿があると知っていたからだ。幼い僕はそこからの景色を見てみたいと思った。



◆◇◆◇◆



「あっ、あった……………」

 ようやく四阿の見えるところについた僕は、両膝に手を当てて、乱れた呼吸を整えた。


 四阿も、立派だった。

 それこそ、先ほどの浜木綿のお花畑をはるかに超えるくらい。

 四阿の周りには、白い季節の花が咲いていた。

 そばに池があるらしく、いだ水面みなもに大きな白い花びらが落ちていくのが見える。

 その姿は、まるで白い蓮のように凛々しく、美しかった。

 そんな風に思いながら、四阿へ向かっていたら。

「あれ………? 誰だろう?」

 ふと僕は首を傾げた。

 四阿のところに、小さな人影が見える。

 さらに近くと、その人影がなんとなく女の子のものであることがわかった。

 人がいたのか……………。

 僕はそう思った。

 でも、不思議と引き返そうと思わなかった。

 そのまま、四阿へ歩を進める。

 そうしてあと四阿から数歩というとき。

――――風が、吹いた。

 女の子が身にまとう領巾ひれが空にはためき、彼女は後ろを振り返る。

 そして僕と目が合った――――瞬間。


 世界が…………止まったような………………気が、した。



◆◇◆◇◆



 しばらくの間、言葉もなく女の子に見とれていたあと。

 ふと我に返った僕は、彼女から目を逸らした。

「あっ………その、ご、ごめんなさい……」

 それから、僕は勝手に庭院に入ったことを怒られると思い、あわてて回れ右をした。

「待って」

 女の子が、僕を呼び止める。

 僕は立ち止まって彼女の方に、振り返った。

「ねえ、あなたはだあれ?」

 女の子が、小首を傾げる。そのちょっとした仕草がかわいらしい。

「ぼ、ぼくは…………」

 なぜか妙に恥ずかしくなった僕は、女の子から目をそらした。

「わたしね、りんっていうの。あなたのお名前は?」

 くりくりとした瞳が、僕を見つめる。

 僕は、赤くなった顔を少しだけ背けながら、呟くように答えた。

「ぼくは………あんじょ。晏如だ」

「そう………。あなたは晏如っていうのね。……………すてきなお名前」

 女の子――――凛は、ほわりと笑った。

 その瞬間。

 僕は一瞬にして真っ赤になった。前とは比べ物にならないくらいに。

 僕は思った。

 その笑顔は、この世のどんな花よりも美しいと。彼女は、誰よりもきれいだと。

 そんな風に、彼女に見とれていたら。

「姫さま―――っ! 凛姫さまっ! どこにいらっしゃいますか――――っ」

 不意に、侍女らしき女の人の声が聞こえてきた。

「あ、いけない。胡蝶こちょうがよんでいる」

 女の子――――凛姫が、何かを思い出したかのように顔を上げる。

 それから僕の方を見て、

「ごめんなさい。わたし帰るわ。晏如………。さようなら」

 名残惜しそうに、彼女はそう告げた。

 どうやら、もう、行ってしまうらしい。

「………うん、さようなら」

 僕は、なんとか別れの言葉を言った。

 その言葉を聞いたのか。凛姫が後ろを向いて、四阿を去っていく。

 その姿を、僕は何も言えずに見つめていたら。

 彼女は、ふいに立ち止まった。

「またね、晏如。また、どこかで会いましょう」

 もう一度だけ振り向くと、彼女はそう言ってから笑った。そして、そのまま駆けていく。

 僕は、ぼーとしたまま、その後ろ姿を見送った。




 僕は、まだ、知らない。

 この出会いが、一生忘れられないものになることを。


―――僕は、まだ、 知らない。


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