7「Dragged drug」

「待て賀茂よ」

 部屋から抜け出した彼を止めたのは、低く、重みのある声だった。自分の存在が知られないと確信していた彼は、驚きつつも、その体を声の方に向けた。

「気配を殺す、か。だが、まだまだ」

 声の先、彼の近くにあった木から何かが落ちてきた。月夜に照らされたそれは、見るからに猫だった。晩のパーティ会場にいた、倉木とかいう年上の女性の肩にいたあの黒猫だ。

「鍛錬が足りんな、才能のみであるから致し方ないとはいえ、少々勿体無い使い方だ」

 パクパクと口を動かして、猫が喋る。

 猫が、声を?

 彼が疑問に思う間もなく猫は彼に近づいてくる。影のようにひっそりと、彼自身よりも気配は薄い。

「意外と冷静だな」

 猫は、猫こそが彼よりも冷静な声を彼に向ける。彼は距離を取りつつも猫を観察する。動物の衝動は人以上に見えやすい。単一の方向に向けられることが多いからだ。なのにこの猫にはそれがなかった。

 自制している。

 彼は直感でそう悟った。

 人のよう、でもない。

 自分が何をすべきなのか、それを知っている、という気配だ。

 彼は、猫が声を発したという現象よりも、その直感の異質さを感じていた。

「何、若干生き過ぎただけだ」

 その彼の表情を見抜いた声で、猫が無言の彼に返す。

「わしにもお前のようなものに出会うのは稀だ。単独にして複合、か」

 彼は口を開いて何かを言おうと思ったが、何を言うべきか、全く見当もつかなかった。話す猫、という奇妙さと同時に、その猫の言葉が、彼自身の内生を深く的確についたせいでもあった。

「何の用です、か?」

 できる限り、丁寧に彼は猫に質問をした。

「何、珍しく、賀茂に会ったのでな、懐かしいと思ったまでだ」

「……知り合い?」

「少し昔にな、まあ、年月でいえば百年近く前だったかの、少々因縁があっての。了見(りょうけん)や雛(ひな)は元気かの?」

 了見や雛?

 彼は思考の片隅でその名前を検索する。

「雛ばあちゃんは、正しくは祖母ですが、二年前に亡くなりました」

 賀茂雛、彼女は、彼の祖母であり、彼が最も長く『生きている』顔を見ていたただ一人の親族でもある。彼女は彼に莫大な財産を残して老衰で静かに亡くなった。穏やかで安らかな寝顔だった。彼が接してきた、『死』という概念からはおよそかけ離れていた。

「惜しいものを亡くしたな」

「了見というのは、多分、僕の祖父の名前だと聞いています」

「ほう、なるほど。あの二人、やはりそういう結果になったか」

 彼は猫の表情について詳しくはないのでその猫はどういう顔をしているのか、ということは形容できなかったが、その声は少し愉快そうな感情が混じっているように感じられた。

「僕が生まれる前に亡くなったと。それ以上は雛ばあちゃんは教えてくれませんでした」

「ふ、あやつが死ぬとは、これこそが滑稽」

 嘲りは込められていない。

「どういう意味です?」

「無関係のお前が知っても大した意味はないだろう」

 それはその通りだった。血縁といえども、死んだ人間の情報は、特にこれいって意味がない。そういえば、どうして死んだか、雛ばあちゃんは教えてくれなかったが、わざわざ孫に祖父の死因を伝える祖母もなかなかいないだろう。

「お前にも実は一度会っている。あの時は、お前も主も挨拶をする雰囲気ではなかったからな」

「え?」

 彼は、思わず普段より二音ほど高い声で聞き返していた。彼の記憶、そもそも、彼には人の名前や顔を覚える機能が若干弱いが、喋る猫を記憶から排除できるほど優れてもいない。

「そうさな、もう十年近くにもなろうかの」

 あ、ああ、それは。

 彼の中で胸がぐちゃりと歪む。彼の中で、壊れてしまった箇所を、何とか修復しようと、何かが駆け回る。

 それは、決して醒めてはいけない夢で。

 起きてしまえば、後は転がり落ちるだけで。

 黒猫は、声の調子を変えずに続ける。

「主にとってはまだ力不足だったか。そうでなければあの事件は解決していた可能性もあるのう」

 解決?

 一体、何を防げたというんだ。

 誰を、どうして、助けられたというんだ。

 あの世界を、あの夢を、どうすれば、解決するなんてことが可能だったんだ。

 黒猫は、止めようとしない。

「結果的には、ああいった形にはなったが」

 止めろ、それ以上は言うな。

 止めろ。

 お願いだから、もう、何も言わないでくれ。

「残念だったな」

 終わりだ。

 彼が、跳ねた。

 音もなく迅速に彼が距離を詰め、猫のいた地面に右腕をめり込ませる。天然の土は彼の右手を飲み込み拳が完全に土に埋まった。

 猫の姿はない。

 しかし、予期していたように猫はひょいと一飛びで飛び上がり避けていたのだ。

「チッ」

 舌打ちをして腕を抜く。拳の跡が残っていたのを足で消しながら彼は先ほどまで彼がいた地点にいる猫を見る。沸騰した意識は、今はもう凍りつくまで下がっている。猫は尻尾をぽんぽんと動かしていた。

「悪くはないのう。二十点」

 悪くはないと言いつつも、辛口の評価だった。

「ふむ、鑑定眼も最早廃れ、今は衝動だけを生かしているのか」

「鑑定眼?」

「鬼子の瞳とも言ったな。人にも鬼にもなれなかったものの戯言だ」

 自分が知らない、自分についての単語を次々に猫は、さも常識のように語る。祖母の雛ばあちゃんも、後見人である玄辰も、彼の瞳については何も言わなかった。

 雛ばあちゃんは彼と同じ瞳の色をしていたため、彼は外国の血でも混ざっているのだろう、程度にしか思っていなかったのだ。

「何も知らずか、それも良かろう。我に口を挟む権利はなかろう」

 彼にとっては、人と違うという印象を与えやすいのでこの瞳はあまり気に入っていなかった。他人の印象に残るのが面倒だから普段の生活ではコンタクトをして隠しているのだ。

 値踏みをするように、猫は首を揺らしている。

「呼び水、か。賀茂は元来そういうものであったな」

「知らない」

「災いを呼ぶ、ということだ。何もしなくても危険が迫ってくる。危険を回避しようとする行動が更に危険を生む。賀茂は我とは根本的に同質であり、人からは異分子だからのう」

「それなら、どうすれば?」

 当然の質問を彼は猫にする。

 生きている限り、どうしても災いが向こうからやってくるというのだ。それも回避したところで意味がないとさえ、猫は言っている。

「ふむ、尤も。なら、今死ぬかのう?」

 呑気な声で、猫が言った。

 途端、彼の皮膚という皮膚がピリピリと電圧を食わせられたみたいにのけぞった。

 頭のどこかが命令をする。

 シミュレートされた行動、導き出された答えを衝動が否定しようともがいている。

 動くな、死ぬぞ。

 お前如きに、相手になるモノではない。

 たかだか猫という存在に圧倒的なまでのレベルの違いを感じている。とっくの前に罠に嵌められていると、今更ながらに後悔させられている。

 頭の中の誰も、動きたいという決定を下さない。

 たとえれば、蛇に睨まれた蛙。

 それでは少し生温い。

 獅子の檻に入っていたのを、寝起きに思い出したような感覚。

 死の恐怖を最大限まで上げられたような感触。

 忘れかけていたものを、思い出させるには十分だった。

「冗談だ、取って食いはせん。それとも、この姿が気に食わんか」

 猫は彼の感覚を否定する。

 ゆらりと煙のようにその姿が霞み、次の瞬間には猫は一人の少女になった。黒い和服に身を包んでいる。帯はきつく締められてその身を縛り付けているようにも感じられた。

 身長は彼よりも低い、今日会場にいた女の子と同じ程度だろう。瞳はどこまでも暗く黒く、その奥にはどこまでも深い闇が広がっていそうだった。

 全く、喋る猫も奇妙だがその猫が変身をしたのである。二つの異常点だ。もしかしたら元がこの少女なのかもしれない。変身機能があるのだ。それなら喋るという機能があるのも不自然はないので異常点は一つに減少する。減少したところで事態の把握には何の意味もない。

 安易な言葉で言えば、物の怪、化け物、妖怪、そんなものだろう。

 しかし、彼は驚くことはなかった。それに似たようなものには、常にとまではいかないが時々遭遇することがある。ここまではっきりと異常を示されることはないが。

「我が主に危害さえ与えねば、如何様にも。主を守る以外に、我を縛る道理はない」

 凡庸な忠誠心とは違う口調で、少女は言った。

「故に、これから汝がする行為にもさほど興味はない」

 少女が言い切る。

 少女は、これから彼が何をしようとしているのか、それがわかっているのだ。

「どうして」

「どうして、と? 解せぬな。それが、お前の『性質』なのだろう。性質を否定したところで、意味はなかろう。それとも、我に事の善悪を問う、と?」

 少しだけ彼はこの少女に好感が持てた。

「お前を殺すのが依頼であれば、容赦はせんが」

 好感は一瞬で取り消された。

 瞳は冗談ではなく本気だと言っていた。

「名前は?」

「倉木、倉木珠子(くらきたまこ)。それが我が主の名だ」

 少女は、さらりと主の名前を答えた。

「いや、そうじゃなくて、あなたの名前は? あんまり物覚えが良くないから、忘れると困るし」

 そういいながら、彼はタマコ、タマコ、と復唱する。一度だけタマゴと言い間違えたが、忘れることにした。

「ふははは、身内以外に名前を聞かれるのは、それこそ賀茂以来だのう。いやはや、実に愉快だ」

 少女の姿には似合わない豪快ともいえる声で、元猫は楽しそうに笑い続ける。何がツボに入ったのか彼にはわからない。新しい人に会ったら、まず名前を確認する。それは彼が生活していく上で決めていることだった。当たり前のようなことであるが、その上で、彼はほぼ確実に名前を忘れてしまう癖があった。何となくは覚えているが、いつもニュアンスがぼんやりと浮かぶくらいでしかない。

「それで?」

 笑いを止めない少女に、彼が聞き直す。

「ネコイ、猫の威を借る、猫威だ」

「猫威」

 彼は小さな声で自分に向かって復唱をする。猫でありながら猫ではない、まさに猫の衣を被った獅子の名前にふさわしかった。猫の威力を借るというのは、単なる冗談の域としても、面白くない。

「まあ、いずれまた主とも会うことになろう。そのとき、互いが敵でないことを祈るのみだ」

 かすかに揺らめいて少女は最初に出会ったときの猫に戻った。それ以上の言葉を発することなく、一言うそ臭い声で「にゃあ」と鳴いて、彼の見えない場所まで消えてしまった。

 一人残された彼は、ゆっくりと歩みの速度を上げる。

 ともあれ、彼は走り出す。

 自分の獲物を見つけるために。

 生きている証を、得るために。

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