4「Disguise in the dinner time」
宴もたけなわ。
たけなわの意味は今ひとつ理解できないが、それ以上に、『も』の存在について彼はぼんやりと考えていた。宴以外に何か『たけなわ』なことでもあったのだろうか。ということは、やはり『たけなわ』の意味を理解しなくてはいけないのだろう。
正直に言って、そんな考察をしてしまうほど、彼は暇だった。
そういう嫌がらせを受けているのだから、暇なのは仕方ない。
大人達はそれぞれ目当ての人間を捕まえて会話をしている。ここはそういう場なのだからそれも仕方ない。誕生日会などというのは上面だけである。実態は、親睦会、交渉会、商談会、そういうものだろう。幾人か子供を連れている人間もいたが、自分の子供を自慢する声ばかりだ。
だから、藤元は自分の娘を連れてこなかったのだろう。
彼より八歳年下の彼女は、遊び相手が彼のせいか非常に大人びている。子供のようなわがままを維持しつつ、発言は大人じみている。これは『マセガキ』を肯定的に表現するときに使われる。
彼女はこういった決まりきったものが大嫌いだ。しかも自分で帰れないとなると途端に愚図りだすだろう。そうだからといって彼を呼び出す理由はない。そこは男の趣味の範囲である。
ふわふわと、隙間を縫って歩く。
途中で藤元とすれ違ったが、一瞥しただけですぐに会話に戻ったようだ。藤元が明るく話しているところを見ると、旧知の仲の人間だろう。しかし、紹介されるよりはよほど気楽である。
食事は大体見て回り、空腹が満たされる程度に食べた。椅子に座らされて次々に食事が運ばれてくるよりは、こういった立食形式の方が良い。誰にも気兼ねなく、適当に食事ができるからだ。
少し喉が渇いたので、彼はオレンジジュースを受け取りに行った。そのためだけに、人を止めるのは些か面倒な気もしたが、向こうはそれが仕事であるのでそうするしかないだろう。
そこで彼の視界に動物が入った。
黒猫である。
ペット持込可だったのだろうか。それにしても、持込とはペットに失礼な話だ。せめて立ち入り禁止、それでも差別していることには変わりないが、それくらいの表現をするべきだ。今は彼自身藤元のペットのように連れまわされているので、不可であれば彼もいなくならなくてはならない。
今日はどうでも良い考察が浮かぶ日だ、と彼は思う。暇だから、という理由は黙殺しようと決めた。
猫は彫刻のように動かない。ピンと背筋を伸ばし、両手はきちんと前に並べられている。猫なりにすましているのかもしれない。首輪も鈴もつけられていなかった。
猫の居場所は壁を背に体重をかけている女の右肩だ。
女も猫の重さを感じていないらしく直立している。大きめのブローチ、と一瞬考えたがそれなら北海道名物の鮭をくわえる木彫りの熊もブローチになってしまうだろう。
女性にして長身で妙に会場からは浮いていた。肩を越えた髪は外にハネている。白いジャケットに、白いパンツ、街中を歩くのであれば違和感もないが、パーティドレスではないことは間違いない。真っ赤なハイヒールを、コツコツと床に当ててリズムを取っていた。遠い目をして今はどこかを睨みつけているようにも見える。
大盛りの料理を持ち、無言で突き刺したフォークを口に運んでいる。その動きは一定で、止まることを知らない。あの体のどこに入るのか、と考え込んでしまうほどの量が積まれていた。
と、彼女がこちらに振り向き、突然歩いてきた。猫も一緒である。
見ていたことに気が付かれたかな、と反省するまでもなく、女は彼の横を通り、ウェイターからジュースのグラスを奪っていった。
女は彼を一瞥しただけだった。
肩の猫は動かない。
女が定位置に戻ったときには皿の料理が増えていた。右手にグラスとフォークを持ち、料理を器用に運んでいる。そこまでするのならテーブルに置けば良いのに、と思うが、何かポリシーのようなものがあるかもしれない。いずれにせよ、彼が口出しをすることではなかった。
「こんにちは」
ジュースが半分に減ったとき、彼は突然声をかけられた。
グラスから口を離し、彼は顔を上げる。
そこにいた男は、軽佻浮薄が似合いそうな男だった。スーツは着慣れていないのか、ネクタイはしていなかった。ラフな格好を心がけているのかもしれない。歳は三十を越えた辺りだろう、先ほどの男よりは年上で、藤元よりは年下だ。
誰かに似ている。
その思考が浮かび、次に浮かんだ答えを排除した。
物腰は柔らかく優しげな微笑み。
そしてそれがうそ臭く感じられるほど演技にしか見えなかった。
何より男の瞳が全く笑っていない。
体のどこかが警告をしている。
同時に制御もする。
「はじめまして」
彼は定式的な返しをする。
彼にとって、最も苦手なタイプであることは確定している。
「はじめまして」
男も、おうむ返しをした。
会話が続けられない。
「はじめまして」
少女の声がした。
男から目を落とすと、男の手に引きつれられた少女がいた。伸びきった髪は丁寧に梳かされていて、子供向けの赤いドレスを着ている。それが少女には似合っていた。
歳は藤元の娘の少し上くらいだろうか。可愛らしく、優雅な動きは良いところのお嬢様を確信させた。もっとも、良いところの人間しか来ないのが、今日のパーティだろう。
「はじめまして」
やはり彼も同じ台詞を言う。
にこにこと男は笑っている。
相手が動き出すのを待っている、という仕草が彼には非常にやりにくい。横にいる少女は、男と彼を交互に見比べている。あんまり見るなとも言えない。
「あの、お名前は?」
空気に負けて、彼は名前を聞くことにした。
「名前、どうしようか。何が良い?」
聞くだけ損をした。聞いたことに意味はないとしても、それに意味もなく返されてしまうとは思わなかった。
真意が全く掴めない答えだ。
こちらで名前を決めても良いのだろうか。
「あはは、冗談だよ」
どうやらからかっていたつもりらしい。
「名乗るほどの者じゃない、ということにしておこうか」
まだからっているつもりだった。
「私はルリ」
フォローを入れたのか、少女が名前を言った。
頭の中で、彼はルリを漢字に変換しようとしたが、雰囲気だけしか出てこなかった。
「こういう字」
それを悟ったらしく、少女は空中に文字を書く。実は思ったほど難しい漢字ではなかった。組み合わせが特殊なだけだろう。
「君は?」
今日は名前を聞かれる日だ。半分は自分が聞いているからだ。
「賀茂武人です、賀正の賀に、草木茂るの茂る、武人は武士の人」
一字一字をはっきりと発音した。難易度の高い漢字ではないだろう。
男は何度か、うんうんと納得したように頷き、
「良い名前だ、大事にするといい」
と言った。
自分の名前に対してこんなことを言われたのは初めてである。彼自身、特に何も思っていなかった。
そこでまた会話が途切れた。
初対面の人間とするほど彼は話題が豊富ではない。どうやらそれは男も同じようだった。
すると、
「最近、学校はどう?」
と、会話の少ない家族の食卓のような話題を男は切り出してきた。
どう、と聞かれても、答えようがない。
男を見つめ返したが、どうやら本気の質問らしい。
「普通です」
無難な言葉で彼は返した。
「普通、普通ね。普通が一番だ」
感心したのか、納得をしたのか、男が『普通』という言葉に反応をしていた。どうやら満足しているようだ。
くいくい、と少女が男の袖を引く。
「ああ、うん、もうこんな時間か」
時計も見ず、男は少女に微笑んだ。
「じゃあね、武人君」
男は少女を連れて行く。
男が背を向けて、一気に疲労感が襲ってきた。
「やあ、倉木さん」
男は、壁際に立っている女に向かっていく。女の苗字は倉木というらしい。その声と気配を感じて、女は男の方を向いた。女は露骨に嫌な顔をしている。猫まで表情が変わったようにも見えた。
二人は、談笑をしている。傍目には仲が良さそうに見えなくもないが、男がほぼ一方的に話しかけているだけである。友人には見えそうにない。
少女は猫の両脇を掴んで、ぶらぶらさせていた。
猫が可哀想だ、と思いかけたが、満更でもない顔をしている気がしたので、思い込みは止めておこうと結論付けた。揺られたい年頃の猫なのだろう。
彼は横目でその三人と一匹の一角を見つつ、ジュースを飲みきる。
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