2「Drowsy day」

「余計なことはしなくていいからな」

「はい」

 男の声に、少年は静かに答えた。

 学生服のような白いシャツに黒のパンツを穿いている。半袖ではなく長袖のワイシャツは、おろし立てで心地良かった。使い慣れたものも、新しいものも、等しく意味と価値を持っている。

 余計なことって、一体なんだろうか。

 少年は疑問に思ったが、あえて質問するのは面倒なので、そのまま黙っていた。

 最悪の余計なことは大体予想がつくというのもあった。

 登り続ける道、曲がり続ける道、その上を銀色の日本車が無機質的に等速直線運動のように走り、その箱の後部座席に少年は座っていた。

 先週買った新品のコンタクトが馴染まないのか、何度も目を瞬かせていた。

 車のコースは決まっていて、一本道を果てしなく進んで行く。くねくねとした二車線の山道、両側は林だ。車だって大抵はレールの上にいる。切り替え線が多いだけなのだ。電車より、ほんの少しだけ選択肢が多いだけ。

 玩具屋で見たプラスチックでできたミニ四駆のコースみたいだ。ぐるぐる回って気がついたら元に戻っている。スタートもゴールもなくて、電池が切れるまで誰かが上からひょいと掴み上げるまで同じ速度で回っている。もし一周できなくて、このまま登っていったら成層圏まで行けるかな、と自分だけに発する冗談なのかそう彼はぼんやりと考えていた。

 レールに乗った世界を想像してみる。

 なかなか、快適そうだった。

 レールにすら乗れない彼は、レールの上を走らされる生活の方が楽に違いない、と思っていた。

「面倒だ」

 四十は過ぎているだろう運転席の男が、落ち着いた声で言った。

 少年は、この男の正確な年齢を知らない。

 年齢は単に発生からの経過時間を指すもので、彼の能力にさほど影響を与えるものとは思えなかったからだ。

 藤元玄辰(ふじもとげんたつ)、カーステレオもつけずに車を運転する男の名前だ。古めかしい名前だが、実際彼の家は古い家であるので、訝しげに思うことはなかった。

 とある国家資格を持ち、それで仕事をしているらしい。少年は彼の仕事場に行ったこともないし、仕事をしている姿すら見たこともない。刻まれた皺が威厳を感じさせるが、頭髪はまだ十分に居残っている。

「面倒だ」

 男は後ろの少年に確認をさせるかのように、同じ言葉を繰り返した。

「ええ」

 少年は仕方なく同意の声を上げた。

「面倒なら行かなければいい、そう思っているだろう?」

「ええ」

「大人の事情というものだ、武人」

「ええ、そう解釈しています」

 武人、と呼ばれた少年は、経歴上は中学生三年生だが、妙に大人ぶった口調で言った。これが彼が藤元に使う言葉使いの標準形式なのである。

「なら一人で行けばいい、そう思っているだろう?」

「とても。それも大人の事情ですか?」

「趣味だ」

 藤元は、笑顔も作らずに言った。

「嫌がらせの、ですか?」

「そうだ」

 彼は煙草を取り出そうとして、カーブが近付いているのを標識で確認して、その手をハンドルに戻した。

 謙虚かつ着実に、という自分の経営方針を頑なに守り続けるこの男は、少年、賀茂武人の身元引受人だった。

 武人に同じ苗字を持っている身内はいない。血の繋がった人間はもれなく死んでしまった。最後まで長生きした彼の祖母も二年前に老衰で亡くなった。両親はもっと前に亡くなっている。

 最後までしっかりしていた祖母の言いつけに従って、彼は東京の藤元の家に世話になっている。そうは言っても戸籍上養子になったわけでも金銭的援助を受けているわけでもない。

 何故だかわからないが、彼の元には祖母の死後多額の預金が残されていた。慎ましく生きていけばそれだけで一生が過ごせるだけの金額である。世の中には知らなくてもいいことがたくさんあるのだろう、と祖母に感謝しつつ、彼は深く追求もせずに納得してその現金を相続した。

 藤元は一般人にとっては驚愕だが、彼にとってはそれほどでもないその遺産管理を引き受けている。就学など面倒な手続きも、彼が代わりに行っている。

 その代償として、少年が彼に支払っているものはただ二つ、一人娘の遊び相手と、時たま訪れるこういう事象に無理矢理付き合わされる、という迷惑極まりないものである。要するにどちらも暇つぶしの道具として彼を利用しているに過ぎない。こちらから給料を希望しても通りそうな大変さである。

「せめて護衛くらいの表現はできませんか?」

「お前が? 私の? 馬鹿を言うな」

 少年の言葉に、藤元は一笑した。

「馬鹿ですから」

 適当に、少年がぼやいた。

「自分を卑下するのは気に入らんな」

「以後、気をつけます」

 全く心のこもっていない返答をする。

「今日はどこまで」

「どこまでもだ」

 性質の悪い冗談だ、と彼は瞳の奥で毒づいた。

 眉一つ動かさずに冗談を言うこの男は、真意を完全に掴むことができない。ひょっとしたら、本気でどこまでも、そう火星くらいには向かっているのかもしれない。

 まだ今日は何のために車に乗せられているのか、知らされていない。自身のいる北海道から東京に呼び出され、二時間以上も走り続け、後半の一時間はこの山道を登りっぱなしだった。東京、と言っても栄えているのは中心部だけで、外側に行けば、村だってある。彼らはそういう道を永遠と永延と走っていた。

「びっくりパーティではありませんね」

 彼は思いつく限りの皮肉をこめたジョークを言った。

「そうだ」

 藤元はそう返した。

 サイドミラーを見ると、彼が少し笑っているような気がした。

 男の笑みの真意に気がつくまで、武人は二秒も費やしてしまった。

 否定疑問文に対する答えとしては、どちらとも取れるのではないか。

 自分の浅はかさと力量不足に三秒、男の機転の速さと根性の悪さを悔やむのに三秒、それぞれ思考を割いた。

 同時に完全に思考の分散を生じさせる。二つの思考を、一つの思考を集中して行う速度と同じく起動する。受動的ではなく、能動的に機能を選別し、思考力を上昇させる。

 それが彼の特技だった。

 かといって、何かの役に立ったわけでもない。計算は人並みにしかできないし、いくつかのピースを見比べるパズルが少し人より得意なくらいで、それ以上、少なくとも彼自身が天才的な思考をするわけでもない。これは彼の中では練習しなくても可能な生まれつきのものを強化しただけだ。

 だから、これは性質と言った方がいいかもしれない。

 男は運転しながら、ダッシュボードに置いてある一枚の封筒を掴んで後ろに投げた。彼は車内を舞う封筒を捕まえる。車のスピードに合わせて高速で飛んでこないのは慣性の法則が働いているからだ、と彼は考えていた。実際にどう計算するのか、彼はまだ知らない。

 白い封筒を裏返しにする。

 刺繍のように盛り上がった署名を見て、中に同封されている簡素に印刷された文面を読む。

「娘の誕生日会だと、どういう考えなんだか」

 正確には、読もうと思った瞬間に、男が内容を言った。何ゆえに彼に渡したのだろうか、理解不能である。

「さあ」

 曖昧な返事をして彼は封筒を丁寧に閉じた。中身を読んでいない。読んだとしても、意味はないだろう。

「それで、僕はどういった嫌がらせを受けていれば良いのですか?」

 なるべく丁寧な嫌味を選び、彼が聞く。

「何も」

 男は素っ気無く返した。

「適当にうろうろしていろ」

 男の言う言葉に偽りはなさそうだ。

 つまり、彼には仕事は与えられず、時間を潰していろ、と言っているのだ。自分が連れ出して何もするなとは最大限の嫌がらせである。穴を掘ってまた埋めさせるという拷問に続くレベルの嫌がらせだ。

「あれだ」

 到着の言葉を男は代名詞の一言で片付けた。

 その程度で片づけられてしまうのは建物としても不平の一つでも言いたいところだろうが、建物には口がないので、どうしようもない。どこかで見たアニメのような図を彼は思い出していた。建物が変形して、ロボットになる、というものだ。残念ながら、タイトルは思い出せないし、思い出せたとしても、見る機会はないだろう。

 門もなく、ロータリーが見える。その先に、白い洋風の建物があった。建物の種類など彼は当然知らないから、造りそのものについて言及はできないが、強いていえば、ホワイトハウスの縮小版みたいだ、と彼は思っていた。左右対称の造りに、支えているのか装飾なのかもわからない外にでている柱、左右には庭が広がっている。中から出ることもできるのだろう。人が住むには無駄が多そうだった。

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