1「Delicate Prologue」

 秋口の手前、賀茂武人は、久しぶりに彼女の新しい家に来ていた。以前よりもより質素だが、セキュリティの厳しいマンションの最上階に彼女は引っ越していた。どれも彼女の意思からではないということはわかりきっていた。彼女には生活の安全が確保されている。すべての意思決定権を引き換えにして。

 いつもと変わらない安穏とした表情を浮かべ、今日の夕食の材料がビニール袋に入れられて彼の右手に下げられていた。

 挨拶も適当に彼は自分の家のように動き回り料理を準備していく。

 彼女も変わらず無表情で椅子に座っている。ウェーブのかかる焦げ茶色の髪は、以前よりも少し伸びたかもしれない。彼の作業を手伝おうとする気持ちは全くない様子で、彼もまた、そんな彼女に何も期待していないようだった。

 がちゃがちゃと銀色のボールに放り込まれたサラダに、ドレッシングを加えてレタスが折れてしまわないように気をつけながらかき混ぜる。

 彼らは、見かけ上は何も変わっていなかった。

 彼と彼女は、互いに何の問題もなく高校を卒業して、今年の四月からは大学生となっていた。

 彼は北海道の自分しかいない家を引き払い東京の大学へ進学した。彼女も東京の大学へ進学はしたが、彼とは別の大学だった。

 周りの人間の幾人かは、特に彼らと生徒会で深い知り合いであった成宮真琴はこの二人が別々の大学に進学したことに対して、非常に驚いていたようだった。

 理由を聞かれたが、彼も彼女も、同じ大学に行く理由など最初からなかった。

 必要があれば会うし、なければ会わない。

 そんな関係は未だ変更される予定はない。

 彼女の進学先は、妥当と言えば妥当な範囲であり、不適当と言えば彼女にとっても最も不適当な学部だった。

「まさか、若菜がそんなところに行くとは」

 彼はキッチンで大量のお湯を沸かしながら、椅子に座っている彼女に向かって言った。

「不満か」

「いや、そんなことはないけど」

 まだまだ修行が足りない。

 可能性を選択する思考を、最初から排除していたというのは、彼にとっては相当な失敗だった。

「大学はどう?」

「問題はない」

「そう」

 彼女を見る限り、いつ見てもだが、変化があったようには思えない。

 永浦瑞貴は平然とした顔で東京にある別の大学に入学していた。気が付けばようやく彼の恋人となっていた、同じく生徒会の須藤茜も、都内の医療系大学へ進んだ。成宮真琴は希望は関西の外語大だったのだが、親の猛烈な反対もあって都内の私立お嬢様大学へ無試験で入学した。

 結局この五人はいつでも会える場所に落ち着いたみたい、と卒業式後の打ち上げで成宮は笑って言った。その表情はどことなく憂いがあったが誰も追及することはできなかった。

 会の終わり、その瞳から大粒の涙をこぼしたのは成宮だった。

 受験、というものに精神の安定を保っていたが、それが切れることで当の昔に限界だった感情が呼び起こされたのだろう。つられて泣き出したのは須藤で、彼女の傍には無言で瑞貴が寄り添った。

「泣いても、何も変わらないよね」

 成宮は自嘲気味に言った。

 誰も返す言葉はなかった。

 彼らの後輩である神楽美咲が事故で死んだのはもう一年以上も前の春過ぎのことだ。

 裏庭にある桜の一本が落雷で倒れその下敷きになったというのだ。

 何故彼女がその場所にいたのか、明らかに晴天であったあの日、何故雷が落ちたのか、不審な出来事が重なっていたが、所詮彼らは高校生で、調べるにしても限界があった。

 事故以外に結論を出す方法がなかったのである。

 彼女の葬儀は密葬という形になり彼らが参列することは許されなかった。彼らにとってみれば別れの挨拶をできなかったわけで、まさに晴天の霹靂というしかなった。

 その時神楽と一緒にいたという、彼女と同居していた風見唯は彼らには何も言わず程なくして学校をやめて姿を消した。今どこにいるのか、誰にも知らされていない。神楽の家に聞いてみても、返答はなしのつぶてだった。

 人の一生とはそれくらい、いつも不安定なところでぎりぎりバランスを取っていて、自分達は明らかに無力な一般人であると実感させられるのには、この『事故』は十分すぎるほどであった。

 数ヶ月して彼らはそのことについては表面上口には出さないことが、今までのルールを消し去るほど強固なルールとなっていた。

 彼は、他の人間が彼女の件に対してどう思っていたかの確証はない。

 ただ、彼女は彼よりもずっと強かった。強さの種類は知らないがその程度のことで命を落とすということは俄かには信じられなかった。何があったのか、他人のことではあるがその不可思議さは不快感をもたらしていた。

 それを心のどこかで背負ったまま、彼は高校を卒業した。

 新しい場所は、特に感動するような場所ではなかった。

 新入生は大学内を覚えるだけで一苦労で、懇切丁寧に先輩が教えてくれるわけでもない。彼は、ふわふわと生活をしながら、それなりに授業を選択し、それなりに顔見知りができ、それなりに大学生の日常というものを味わっていた。幸い、という評価をしていいのかわからないが、彼と同じ高校出身の人間は近くにいなかった。

 サーモンをグリルして、特製のしょうゆベースのバターソースをかける。付け合せにアスパラを、サーモンの横に乗せる。

 その間にパスタを鍋の中に放り込む。少し小さめの鍋なので、均等に茹でられるように箸で丁寧にかき回す。フライパンにオリーブオイルを多めに引き、ざっくりと切ったベーコンをカリカリになるまで炒める。焦げ目がつきそうになってから、しいたけ、エリンギ、マイタケを入れる。

 時間通りにパスタを上げ、指で潰して固さを確認する。

 上出来だ。

 あわせるだけといっても、その間の時間があるわけだから、アルデンテよりほんの少し、あくまでほんの少し、固めに上げるのが肝心だ。このポイントを間違うと、パスタの美味しさは半減してしまうのだ。

 パスタを具と絡ませる。

 まだ、味付けは早い。

 茹で汁を半カップ加え、その塩味を見てから塩コショウを足す。ベーコンからも塩味が出ているのだから塩は少しでいい。彼は辛めの味が好きだから、コショウ、当然粉コショウではなく、粗挽きでなければ駄目だ、を沢山振りかけたいのだが、彼女はどうも味の濃い食べ物は好きではないらしい。彼女がそんなことを言うはずがないので、あくまで予想の範疇だ。

 まあ、悪くはないかな。

 彼は味見をして小さく頷いた。

 いつからかはわからないが、彼はこうして料理を作るのが好きだった。一人暮らしが長いため自然とそうなったのかもしれない。頭の中で完成した料理の味を想像して、調味料を合成することでその理想体に近づけていく過程が好きなのだ。レシピを一度見ただけで、勝手に予想しながら作っていくおかげで、ときたま廃棄物処理される一品ができあがる。彼女の家で作るのは、そうして何度か作った結果、頭で再現可能な料理だけだ。

 ちなみに彼は食べることに全く興味がない。お腹を膨らませる以外に外食をすることはない。

 彼は彼女が料理を作っているのを見た事がない。二人でいる時は彼が料理を作ってしまうからである。

「完成、と」

 彼が宣言して、キノコのパスタを皿に盛り付ける。

 タイミングを考えていなかったので、サーモンの方は少し冷めてしまったようだ。

「さて、ご飯にしよう」

 彼女がいるテーブルに、二皿ずつパスタとサーモンのグリルを向かう合うようにして置き、中央にはサラダボールが陣取る。

 彼はまるで自分の家のようにフォークとナイフを棚から出し、皿の横に並べる。ここまでの間、彼女は微動だにしていない。少なくとも、その表情からは、お預けをされている子犬には見えない。

「まだあるんだよ」

 彼は、ビニール袋から、一本の瓶を取り出した。暗緑色に色づけされた瓶には、外国語でラベルが貼られていた。

 嬉しそうにそれを彼は見せ、彼女が無表情なのを確認して、コルクを丁寧に抜いていく。コルク抜きも、このためにわざわざ買ってきたものだ。小気味の良い音がして、コルクが抜ける。空気に触れた中身は、小さな泡を下から上へと窒息しそうな生き物みたいに浮かび上がらせていた。

 グラスを二人分テーブルに運び、炭酸が抜けて泡が零れないように気をつけながら慎重に注ぐ。半分ほどに減った瓶は、テーブルの脇にコルクを再び嵌められて次の出番が来ないかとラベルを彼らに向けていた。

 今日は、特別な日だった。

 三百六十五日に一度しかないのだから。

 彼は、彼女の向かいに座る。

「で、と」

 グラスを傾け、彼が笑顔になる。目の調子が悪いのと、彼女にしか会わないという理由で、彼の瞳はカラーコンタクトをせずに、生まれつきの青白色だった。

「若菜、誕生日おめでとう」

 今日は彼女の十九度目の誕生日だった。彼女は自分が生まれた日付に、生物的な意味以外に何もないことを自覚しているのだろう。樹木のように、誕生日を迎えるごとに一つずつ年輪が刻まれるわけでもない。

 アルコールを合法的に摂取するまでにはあと一年必要だ、くらいにしか認識していないかもしれない。

 今二人の目の前にあるグラスに注がれている透明の液体は、ノンアルコールのシャンパンだ。彼は料理酒でさえ苦手なので自分からは用意しない。あくまで雰囲気を盛り上げる効果を期待しているだけである。

「めでたくはない」

 彼女は、グラスを握ろうともしない。

 彼女がその効果に影響されないとわかっているので、実際には無駄な行為なのだが、無駄なことこそが楽しい作業なのだ。

「形式的な祝福の言葉さ」

 いつもの彼よりも、少し上機嫌に、彼女に言った。

「そして、僕らが出会って、四年になる」

「ああ」

 簡潔に、頬の筋肉を動かしただけで彼女は返した。

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