第6話 夏のある日
七月の終わりも近づいたある日、太陽が高く昇り、その強さを最も誇示する時刻を幾時間か過ぎた頃、彼らは一箇所に集まっていた。
終業式も過ぎ、つまり学生によって待ちわびた夏休みである。
執行部の面々も、例外なく夏休みというものを満喫したい気分で一杯だった。
だが、そうはいかないのも現実というものである。
それは、学生にとっては宿敵、仇敵、怨敵以外の何物でもない宿題、という存在が否応もなく漆黒の闇のように、人々を奈落の底に落とし込もうと鎮座をしているのだ。
さすがに高校生になって天気付き日記だとかそういうものを言われることはなくなった。その点では彼は高校を非常に高く評価している。人の日記を読んで何が面白いのか、全く理解できなかったからだ。きっと、大学はもっと高く評価できるだろうと思っている。
しかし、生徒の自主性を重んじる、という本則があるこの高校でも名目は進学校なのでペーパーが大量に出る。英語を筆頭とした、古典地理歴史公民の文系科目から、数学をオードブルとした、化学物理という理系科目まで、ありとあらゆる教科に関して、解かなくてはいけない問題が山積みにされている。それでなくても夏休み開始後一週間はほぼ『強制的』な、『自由参加』の集中講義という不可思議な補講が続いている。今日は土曜日だったので、その集中講義はない。夏休みに土曜も日曜もあったものか、という疑問はあるが、そこは教師の都合もあるのだろう。せっかくだから土日もやれよ、などと提案する生徒などいない。
本来なら嬉々として休日を謳歌するのが一般の学生であるが、執行部は残念ながら一般の学生ではなかった。
どうせだから、ついでにまとめて片付けてしまおう。
という議案が、全会一致で可決された。有効投票数は六票である。棄権したのは北条若菜だけだった。棄権した理由は誰もそのことを教えなかったからである。それには少しだけ理由があるが、今は関係がない。
三人寄れば文殊の知恵というが、船頭多くして船山に登るという言葉もある。
どちらを使うかは、そのときに因れ、なので今回は前者を採択している。つまり分担作業である。それぞれのノルマを決めて、あとですり合わせるという一般的でポピュラーな方式で宿題を安易に片付けようとする生徒はまずこれを思いつく。もしかしたら共同作業というものを学ばせるために、教師は生徒に宿題を出しているのではないかと彼が疑ってしまうほどの発生頻度である。
それによって、彼らは事前に家で作業区域を終わらせ、学校に近い成宮の家に集まり午前中はその写しを行った。写し、といっても何から何まで、例を挙げれば、「江戸時代の貨幣制度と尺貫法について二百字で述べよ」などという問題まで同じにしたわけではない。彼らは選択科目もバラバラであり、理数科と普通科の違いもある。ましてや、今回は一年生が二人も混じっているのだ。そんなわけで、午前中は、「とりあえず調べればわかる程度の穴を埋める問題」を写しあって、残りは自然と勉強会になった。彼も含めて、なかなかズルが出来ない性質なのである。中途半端に真面目なのが一番性質が悪いという良い実例である、と彼は心の中で苦笑いをした。
午後の構図はこうである。
まずは彼のテーブルの正面にいる二人。
永浦瑞貴はほぼ付きっきりで須藤茜の面倒を見ている。
互いに比較して、成績で瑞貴が劣るのは保健体育しかないが、それも微々たるものだ。今は、瑞貴が数学を教えている。科が違うので進度も違う。彼の期間に合わせれば、一ヶ月弱ほど遅れていた。彼女の視点で言えば一ヶ月強進んでいるということだろう。
「で、ここからはわかるだろ」
永浦は、短めに切った髪を左手で押さえながら、右手でシャープペンをくるくると回転させている。髪を伸ばすことに、少々嫌な思い出があるらしい。切れ長の目はそれだけで人を睨みつけるようになってしまっているが、それはメガネで多少抑えられている。それ以外のパーツは整っている。
「はあ?」
須藤は、下ろしても肩には届かない髪を真ん中で分けて二つに無理やり、彼には無理やりに見える、まとめてゴムで縛っている。両耳の後ろに一つずつある髪束は、筆にするには十分だろうか、と彼は思ったが、もちろん言うはずもない。
彼女は数学の問題を目の前にしかめっ面をしている。
「馬鹿か、ここまで補助線引いて解けないヤツがいるのか、馬鹿だな」
「馬鹿馬鹿言うな!」
「いや、しかし、これは小学生でも解けるぞ」
「なーにが『しかし』よ、三次関数が小学生に解けるわけないじゃない!」
実は『こんなものは小学生でも解ける』というのは、理数科数学担当の教師の口癖だ。受け持ちでない彼女が知らなくても仕方はないが、本当に応用問題ですらそう言うのである。
「でも、あとは計算するだけだ、分数の計算が出来ないのなら諦めるが」
「がー! あんたはいっつも一言多いの!」
実に和気あいあいとしている。
次に、一年生コンビ。彼女達は彼から見てテーブルの右側にいる。
こちらも数学のようだ。
意外というか順当というか、成績は神楽美咲の方が、風見唯よりも良い。従って教えるのは神楽という図式になる。
「でね、でね、公式にこれをズバーと入れてね」
髪が長く、目尻が垂れ気味の神楽美咲は、その外見が示す通り、おっとりと、言い換えれば、ふわふわとしている。表情が先か、性格が先か、難しい問題だ、と彼は思っていた。しかし、彼女が不意に見せる、『触れてはいけない領域』を感じているのは、彼以外にあまりいないだろう。
「え、ここ? ズバー?」
神楽が先生ごっこを楽しんでいる横で、生徒役である風見は混乱の表情を浮かべていた。頬に両側の毛先をつけた髪型で、左目の上の生え際をピンで留めている。丸く大きな瞳が、くるくると良く動く。この二人は『恋人』だという話も聞くが、彼には無関係の事象である。
「そう、ズバーって」
「ズバー?」
こちらは教える方に難があったようだ。
「でね、スラーってあわせるの」
「スラー?」
『ズバー』が代入することだというのは、会話から推理できるが、『スラー』を今ひとつ彼は理解できなかった。
とにかく、全く微笑ましい。
そして、残りは三人である。
テーブルの左には、成宮真琴が一人で何かの計算をしている。
前髪が眉辺りにあわせて綺麗に切り取られて、たとえれば、日本人形のようである。その雰囲気は、優雅というよりは、ちょこんと座っていると言った方が近いのかもしれない。時々、手を止めて、瑞貴か、彼に計算の部分が合っているかの確認をしている。計算が違っていても、基本的な考えは間違っていないので、教える方としてもやりやすい。吸収も早いため、この部分では優等生を地で行っている。
目を合わせるたびに、彼に向かってアイコンタクトを送っている。予定の時間が迫っている、ということを示しているのだ。
最後に、彼と同じテーブルサイドに座っているのは北条若菜である。
彼女は何もしていない。
見た目には行動停止中状態であり、彼女に聞けば、「思考」と返されてしまうほど、微動だにしていない。自分が持っていた宿題は全て終えてしまったのか、そもそもそんなものに興味がないのか、早々に切り上げて、彼から見れば、ぼんやりと暇を持て余している。
「さて、と」
周囲の進行具合を見計らった成宮の言葉は、作戦開始の合図でもある。空気が一瞬にして緊張したものへと変わる。
「今日は、みんなお祭りに行くよね」
成宮の言葉の通り、今日は年に一度行われる近くのお祭りの日だった。三日間開催されるお祭りでも、初日の今日が最も賑わう。初日だから期待感もある、というのは当然ながら、夏祭りに欠かせない、それが中止になれば実行委員が一年間文句を言われてしまうという、一番大きなイベント、花火大会があるからである。大会といっても何かを競っているわけではない、近い言葉は、音と光の「競演」ということだろう。
「そりゃもう」
「行くよ」
各々が声を上げ、
「若菜ちゃんも」
「問題ない」
彼女も即答する。
「そうなるとやっぱり」
誘導を始める成宮に、
「お祭りなら、浴衣を着なくちゃ」
ややわざとらしい須藤の言葉、
「うんー」
狙っているのかどうかもわからない神楽、
「私も」
明るい声で風見。
そこで、彼女は変わらない声で、
「持っていない」
と「必要ない」とほぼ同義の口調で答えた。
その当たり前のような声を聞いて、その場にいた全員の顔が反対に明るくなった。
何という出来レースだ、と彼は思ったが、今回は立案者が彼自身なので、彼女の不審気な視線、繰り返すが、これは彼の主観的な観測である、から目を逸らすのが精一杯だった。
「何だ?」
その彼の不審ぶりが限界に達したのか、彼女はわざわざ追及の言葉を発した。声の向きからして、恐らくは彼に対して発せられたものだが、彼は彼女を見ていない。
それを無視して、笑顔の成宮が、
「せーの」
と言い、若菜を除く全員が声を揃えて、
「会長当選、おめでとう!」
と言った。
そう、若菜はついこの間の会長選挙で無事生徒会長になったのである。三年生の大学入試対策が本格化する夏休みを目前にして、全ての委員会と、主だった部活の部長が次の世代に引き継がれる。この執行部も例外ではない。しかし部であるが、委員会と同等の地位にあるので、その生徒会長選挙は全生徒による投票、ということになる。元から執行部の人間であり、かつ、そのキャラクターたるや生徒教職員事務、購買のオバちゃんまで知らない人はいない、よって他の候補者とは比較ならないほどの得票を得たことは明白である。
一部ではファンクラブまで作られたようだが、それに執行部は誰も関与していないし、そのおかげで執行部が設置する目安箱に送られるファンレターの数が減ったという事実には、誰しもが感謝をしている。
「ああ」
おめでとうの言葉に、半拍遅れて彼女は無表情で返す。
「それでね」
成宮が、満面の笑みでテーブルの下から白い箱を取り出す。
「じゃーん」
また古い擬音語だがそれはよいだろう。
ふたを開けてその中身を見せる。
「みんなからのお祝い!」
中に収められていたのは、一着の浴衣だった。
そう、今回の集まりは、このために召集されたようなものなのだ。集まりの決議を、若菜抜きで行ったのはそういう思惑が働いていたからである。二週間近くも前から、彼らはこの企画を立ち上げ、彼女のための浴衣を、あーでもないこーでもないと選んでいたのである。彼がしていたのは、そのような作戦を彼女の目から逸らすことだった。
「葛原(くずはら)さんにも、手伝ってもらったんだよ」
葛原さん、とは、先代の生徒会長である。もちろん、彼女も一般人からは遠く離れている。若菜と彼を入学式の次の日に執行部に入れた、ということからも推して知るべしである。
若菜は、返事をしない。
珍しく、彼女が言葉に詰まっている気がする。
拒否をしたいのか、喜びたいのか、彼にもよくわからない。
彼女が贈り物をされたことなど幾度もあって、これがどこかで繰り返された使い回しのイベントで、記念などという言葉が単なる感傷の一つだとしても、それがただ『自分のためだけに用意された』ということが、この世界では何よりも重要なのだろう。
見るに耐えかねて、彼が若菜の背中を軽く叩く。
我に返ったのか、もちろん表情は変わらないが、こげ茶の髪を軽く揺らし、ボソリと、普段とは違う、くぐもった声で、
「……ありがとう」
と彼女が言ったのだ。
お礼の言葉など人前で言わない、人前で言わなければその意味があるのかは疑問だが、彼女を良く知っている彼らからすれば、彼女のその言葉は驚喜に値する。
事実、一番近くにいる彼でさえ、片手で数えられるほどしか聞いたことがない。
確定事項だった若菜の会長選挙の当選よりも、今の言葉の方が、数百倍も彼らの喜びは大きかった。それだけに、企画したかいはあっただろう。
「それじゃ、早速みんなで着ましょう」
「はーい」
嬉しそうに手を上げたのは神楽である。各人、それぞれ自分の分を事前に持ってきていたのである。
「さあさあ、若菜ちゃんもだよ」
女性陣は、若菜の背中を押す成宮を中心に、ガヤガヤと去っていく。これから着付けがあるらしい。本格的な着物ではないからそれほど時間はかからないとは思うが、きっと彼女達には彼女達の理由があるに違いないから、その点は気にしないでおこうと彼は結論付けた。
純和風の造りの家、彼女達はふすまの向こう側にいて、その声はほとんど完全に筒抜けである。
この先にいるのが男の子だ、ということを完全に忘れてしまっているような会話とはしゃぎようだが、理解していたとしても、彼らが相手なので無視に近い形で同じ対応をしているかもしれない。
彼女達の会話に耳を傾ければ、どんな格好であるのか、何をしているのか、自然と何を競っているのか、これも花火大会と同じで優劣をつけても仕方がないので競演かもしれない、妄想でも想像でも、イメージをするのは容易である。
しかし、その部分をあえて明確に記述しようなどという、面倒な意思も、ささやかなサービス精神も彼にはない。
楽しそうな彼女達をよそに、残された無関心の男の子二人が、テーブル越しに向かい合っている。
瑞貴は両手を後ろにして、飛び立つ人のようにエアコンの風を浴びていた。
武人はエアコンを背に、残ったカルピスをストローで吸い上げて、氷を先で叩いている。
「つくづく思うんだが、女って恵まれている気がするな」
とは、永浦の口癖である。上二人の姉に下一人の妹という、女系家族に生まれ、こう思うのは当然かもしれない。兄弟もいなかった彼に、その気持ちはよくわからない。いたとしても、きっと他人の思いがわかるわけもないのだろう。
「観察点の違いだよ。着たければ着ればいいのに、浴衣」
前者も彼の口癖である。
「馬鹿言え、あんなこと、『二度』とできるか」
彼の皮肉に、的確に返す。
「浴衣は、女の子向けだけじゃないと思うけど。まあ、でもほら、前みたいに」
「もうやめてくれ、記憶がぶり返してくる」
観念したように、瑞貴が言葉を遮る。
これは、彼が冗談交じりに言ったからかいである。以前、彼が瑞貴の家に遊びに行ったときに、偶然居合わせた一人の姉と話をする機会があり、そこで手に入れた情報だった。
「あの写真は良かったね、ミーちゃん」
「お前、完全にからかってるな」
こめかみをヒクつかせる瑞貴に、
「もちろん」
と彼が宣言した。
その昔、瑞貴が家族にミーちゃんと言われ、小学校に上がるまで、上がってからも家では、髪を伸ばし、スカートなどの女の子の格好をさせられていたのは、高校では二人だけの秘密なのである。
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