第4話 春の手前
さあ歌いましょう。
うるせえ。
愉快な歌を。
その歌を止めろ。
お前も嫌いじゃないだろ。
ふざけるな。
僕らはひとつ。
怖がるなよ、お前らしくない。
馬鹿か!
ねえ、怖いの?
何がだ!
もう少し穏やかに行こうよ。
うるせえ!
僕らは、ひとつ?
殺してやる!
発作が起こる。
ぐちゃぐちゃに捻じ込まれた夢が、真っ赤に染まる。
たくさんの見たことのある顔が、自分を見て笑う。不規則に顔は揺れながら、目から口から鼻から血を流し、自分の夢を、この世界を赤に染めていく。
殺せ。
顔は笑うだけだ。近づこうともしない。不愉快な位置を守り、ゆらゆらと揺れる。
そうしなければ、お前が死ぬ。
彼らに敵意はない。そもそも、気配が微塵も感じられない。これが夢なのは百も承知のはずだ。なのに、夢から逃れることはできない。これを拒否してしまえば、またいつもの夢に逆戻りしてしまう。現実に戻るなんて選択肢はどこにも見当たらない。
お前が死ぬ前に、殺せ。
不安に駆られて自分の体を見る。右足はありえない方向に曲がっていた。立っているのは左足かと思ったが、それは違っていた。足首は後ろに捻られ、自分は膝をついていた。胸に微かに痛みを感じ左手で触れようとする。濡れている。それが胸なのか、左手なのか、それともこの両目なのかわからない。左手はグニュグニュとゼリーのような感触を伝えながら、体に埋まっていく。
時間がない。
左手がスースーと空気に触れる。胸を突き通して背中から出てしまった。唯一空いている右手を目の前に持ってくる。その手に握られているのは、真っ赤に濡れた一本のナイフだ。真紅でできたナイフは、それ自体は心臓であるかのように、鼓動をしながら血を吐き出し続けていた。
殺せ。
これは全て夢だ。理解していても、体は真っ赤な冷や汗をかき、飲み込む唾は錆びた鉄の味しかしない。現状を打開する方法は一つしかない。それしか逃げられない。脳はブレーキをかけて、行動を制止する。アクセルは全開、ブレーキも踏みっぱなし、クラッチは最速で壊れたまま。減速なんて原則にない。
ほら、お前の大好きな作業だろう?
彼はすでに起きていた。
起きながら夢を見ていた。
そもそも彼は起きているのか眠っているのか、その区別に大きな違いはないと思っている。ただ、体のスイッチを全部切った状態に眠っているという名前がついているだけで、普段よりも死に易いだけだ。
何を考えているか。
スイッチを。
何を考えなくてはいけないのか。
体に仕組まれたスイッチを。
何を排除しなければいけないのか。
真っ白いシーツの上で、彼は無造作に右手を伸ばす。
横にある台には、彼の青白色の瞳を隠すためのコンタクトが収められたケースが転がっている。それには彼は手を触れず、ケースの横にあったボールペンを掴んだ。コンビニでも売っているような透明なプラスチックに黒いインクが注ぎ込まれている、そんな安っぽい外観をしている。
横ではまだ寝息が聞こえる。
彼女はまだ起きていない。
やめろ。
彼の中で声がした。
その声が一瞬彼女の声に聞こえたのは、多分気の迷いだ。そうあって欲しいという、彼のどこかにいた怠け者の気分。
音も立てずに、右手でボールペンを強く握る。
バラバラだ。
彼はそう思った。
とうの昔に、こんなのバラバラだったんだ。
バラバラのメチャクチャでグチャグチャ。
力なく、無意識に、無遠慮に、出来る限りの勢いをつけて、最大限の死に易さを乗せて、彼は思い切り振り下ろした。
その手が狙うポイントは正確無比に、いつもの自分が狙うのと同じ、むしろより簡単だ。外したりはしない。
突き立てられる場所は動脈。
自分の、左手首。
「やめろ!」
ビク、と彼の体が震える。
バラバラの体は、左手に回避命令を与え、右手に追撃命令を下す。
自分の中で矛盾した命令を分解し、最も確実な回避命令を最優先して処理させる。結果、右手は行動に失敗し、左手は避けそこなって動脈に近い部分を肘にかけて抉られた。手首から三センチほどボールペンは皮膚を裂き、衝撃に耐え切れなかったペン先は壊れ黒いインクが零れる。続けて溢れたのは、体から出てくる真っ赤な血だ。彼の体をかろうじて動かしている、循環する機能の一部。
「馬鹿か!」
横で声がする。
彼には聞こえない。
失敗だ。
また、失敗した。
何だ、意気地がないな。
心臓がバクバクしている。
「またやったのか!」
いつもよりも怒気がこもった声で、彼女が彼を怒鳴りつける。こんなに大きな声を出すのを、彼以外では誰も聞いたことがない。
緩いウェーブのかかった髪が、彼の前で揺れる。
誰が、僕を呼んでるの?
ぐるぐるする頭で、彼は正面を見る。
お前なんか、誰も呼ばないよ。
壁を作れ、スイッチを構築しろ。
色んな人たちが、色んな声を出す。
使えねえヤツだな。
大丈夫、呼吸を整えて、距離を確認するんだ。
大体、お前が弱いからだろ。
お前のせいでどれだけ回りが迷惑をこうむったと思っている?
は、後付のくせに威張ってんじゃねえよ。
僕じゃないのが、喧嘩してる。
痛い。
痛覚が戻って、体に血が巡るのを感じる。
だらだら、僕が流れてる。
本当、キレイ。
でも、痛いよ。
痛みなんて、すぐに忘れる。
痛い。
助けて!
スイッチを渡せ!
全部消せ!
「しっかりしろ」
女の人が、僕を見る。
キレイな色の目。
「帰って来い」
女の人が、僕の腕を掴む。
キレイな顔で、僕を睨んでる。
僕で、この人の体が汚れてく。
「あ、あ、ああ」
声がうまく出ない。
声って、こんなに難しかった?
自分って、どんな声だった?
あれ、僕は、誰?
スイッチを渡せ。ほら、今すぐ。お前の大好きなことをしてやるよ。お前だって望んでいるんだろう? 目の前に丁度いいヤツがいるぜ? 気持ちいいことしようぜ? 普段間に合わせでしているような遊びじゃない。あいつの体を、もっとバラバラにしてやろう。押し倒して首を絞めて、口から泡を吹かせて、リビングにナイフがあったはずだ、心臓に付きたてよう。そのために生かしておいたんだろう?
ほら、早く右手を振り上げろ。
「あ、あ」
大丈夫、お前のせいじゃないさ。
「あー」
その一言で、思考が崩れた。
血が流れている左手で、彼女の腕を払いのけ、首を掴んで左に押し倒す。ボスっという音とともに、彼女の体がベッドに沈む。
絞めろ。
殺せ。
解体しろ。
ニヤリと顔が動く。
酔ってなどいない。
馬乗りになって彼女の首を両手で絞める。彼女は普段と変わらない表情で、彼の攻撃に対して抵抗をしようとしない。
「……タケト、お前か」
彼女が、彼の名前を呼ぶ。彼女以外に呼ばないもう一つの名前で。
彼は不安定そうな笑みを彼女に浮かべた。
楽しそうでもあり、苦しそうでもある。
「ああそうさ、人形姫。本体ごとスイッチをもらったのは久々だ」
「それは全員の総意か?」
彼の変わりように彼女は驚いた様子もなく、普段通りの冷静な声で彼に聞く。それを聞いた彼は、機嫌が悪そうに舌打ちをした。
「ちっ、思考スイッチだけで満足できるかってんだ。こっちが下手に出てやれば図に乗りやがって後付の野郎」
「他のスイッチを切ったな」
「はん、俺にそんな起用な真似ができるかよ。ちょっとだけあいつらの意思を削って上書きさせてもらっただけだ。今は総意の代理になってる」
「直に亀裂が出る」
「ま、修復屋が回るまでの出来心ってやつだ」
「何をするつもりだ」
「さあ」
ケタケタと意地が悪そうに笑い、彼は彼女の首を絞める。どこまでも優しく、緩やかに両手をシーツに近づけていく。
「殺すのか」
彼女は、まるで何もされていないかのように、無表情のままだった。
「それも一興だが」
両手にかける体重を減らし、代わりに体ごと彼女に重ねていく。
「今姫様を殺せば、俺が出ずっぱりだ」
「望んでいるんじゃないのか」
「半分はな」
「もう半分は」
彼女は語尾を上げず、彼に聞いた。彼女自身、その質問の答えを知っているのかもしれない。
「いずれわかる。俺は」
続きを言いかけて、口元をぴくっとさせた後、それを止めて呆れたような顔をした。
「意外と早かったな。ここでタイムリミットだ。じゃあな、人形姫。依頼があったら『また』俺を呼べ。お前のためなら総意をもって歓迎してやる。たとえ武人が否定してもな」
「ああ」
間も空けず、彼女が答える。
そして彼は彼女の首を絞めたまま、彼女の唇に甘ったるくキスをした。
「甲斐性がないヤツが多くて困るな」
「返答しかねる」
「ああ? ヘントーしかねる? 随分と人間らしくなったな、人形姫」
「そうか」
「ま、いっか。それじゃ俺は寝る」
青白色の瞳を瞬かせて、彼は言った。
完全に力を抜き、だらりと彼女にもたれかかる。
数秒間、時間が止まったように全く彼も、そして彼女も動かなかった。二人とも、寝入ってしまっているのかもしれない。しかし、彼女は両目を虚空に巡らせている。
静かに彼が起き上がる。虚ろな瞳で、両目からは透明の涙が零れていた。誰の涙かは彼にももうわからない。
「あ、ああ、わか、な」
両手で顔を押さえて、彼は壊れてしまった両目を拭う。
彼女は、咳き込む様子もなく、淡々と彼を見ている。
「シャワーを浴びて来い。もしお前が謝るつもりならそれからだ」
少しの間を置いて、
「うん」
と彼が答えた。
彼はそのまま左手から血が漏れているのも気にせずに、ふらふらとおぼつかない足取りでドアを開けた。ドアを閉める前に彼女をちらっと見たが、彼女は人形のように動かずこちらを見返していた。
「ごめん」
シャワーから戻ってきた彼が、ベッドルームに入ってきた。ボールペンがつき立てられた左手は、タオルが巻かれている。感じていたよりも傷は浅かったようだ。タオルをきつく縛っているせいでもあるが、少しだけ赤く滲んでいる程度だ。
「ああ」
ベッドに腰をかけていた彼女が返した。彼を見てもいない。その声には、非難も、哀れみも含まれていない。純粋に、彼の言葉を理解した、といういつもの仕草だった。彼に絞められた首が赤くなっているが、それほど苦しそうには見えない。たとえ、彼女が深い傷を負っても、表情に出すかどうかは疑わしいものである。
彼はゆっくりと、彼女の方を見ずに、ベッドの反対側に腰をかける。
止血のため、彼の横の白い台には包帯が置かれていた。シャワーを浴びている間に彼女が用意しておいたのだろう。消毒用のオキシドールもある。
彼女とは背中合わせで、その距離も一メートルほどはある。だが、互いの吐息を確認できるくらいの距離ではある。
それだけで、二人は十分だった。
「タマゴに連絡するか?」
「いや、いい」
彼女が彼のお目付役の名前を挙げるが、やんわりと彼は拒絶をする。
「夢を、見るんだ」
彼が、ぽつりと呟く。
包帯を手に取る前に、彼はまずコンタクトケースを開けた。透明の液の中で光を反射して回るコンタクトを人差し指ですくい出し、右目へと送る。
似たような命令を緩慢に腕に送り、左目にコンタクトを嵌める。
両目を閉じて、呼吸を安定させる。
起きていたスイッチをオフにする。
壁のイメージを強く認識して、互いに牽制できる距離に配置する。
真っ黒な壁が思考の片隅に構築される。
壁の向こうに何があるのか、もう見ることはできない。
これで、全てが完成した。
目を開けて、包帯を右手で掴む。先を左で持ち、きつめに怪我をした箇所に巻き始める。手馴れた動作で、白い布は彼の指示に従ってまとわりつく。
「最初の夢は、誰かに追いかけられる夢。逃げても逃げても追いつかれて、色んな方法で殺されるんだ。いい加減痛いのとかそういうのもわからなくなって、相手の顔を見てさ、それが自分なんだ。自分が自分を殺すために、躍起になって。でね、そいつが、笑ってるんだよ。これ以上ないっていうくらい楽しそうに」
ぼそぼそと彼女に聞こえるかもわからない声で、彼は話す。彼女に向いていないのだから、音はより聞こえにくいだろう。
包帯を手頃な位置で切り、テープで止める。
振りほどけないか、拳を閉じたり開いたり、軽く振ってみたりして、確認する。
やっぱり、病院に行くほどの傷じゃないな。
彼は、冷静に痛みをまるでゲームのダメージのように変換していた。
自分の攻撃力を嘆くべきか、自分の反射速度を誇りに思うべきか、どちらとも取れない思考を浮かばせていた。
夢を見ているのか、それも彼はわからない。
そのとき感じた痛みも、完全に思い出すことができる。
絞殺、刺殺、薬殺、銃殺、撲殺、自分が想像できるありとあらゆるレパートリーの凶器と方法で、無限に繰り返される死のオンパレード。苦痛で意識が途切れると同時に体の傷がリセットされ、もう一度最初からやり直し。自分の知らない殺し方はひとつとしてない。あれは、自分の知識だから。ニタニタ笑う自分がゆっくりと迫ってくる。お互いに言葉はない。理由は共に直結している。ただ狩るものと狩られるもの、一点の曇りもない明確なラインを引かれ、絶対的な戦力差を持って対峙というには名ばかりの嘲笑を受ける。無理だとわかっていながら挑まなければいけないという自覚が体を硬直させる。逃げる資格は自分であるが故になく、視覚を最大限にして情報を集めようとするも失敗し、自分にして自分ではない刺客に死角を突かれ攻め込まれる。
殺されるために生かされて、生かされるために殺される。
そう、これはまだあの夢の続きの一部なんだ、とどこかで錯覚して、それから否定しようとする自分の影がいる。壁の向こうで姿も見えない。
「何回死んだかわからないくらいになって、それで場面がチェンジする」
世界が暗転し、感覚が入れ替わる。
その前に一瞬だけ現れるのは、不規則な点滅。子供が悪戯に沢山の照明のスイッチを押して遊んでいるような感覚だ。
「色んな武器を持って、相手を追いかけているんだ。さっきとは正反対に、僕が僕を追いかけているんだ。でも、止められないんだ、だって、楽しいんだもの」
彼の前にいるのは、紛れもない自分だ。自分が今まで襲われていた、という記憶は記録に変換されながらも維持されて、それでも彼はナイフを振り下ろす手を止めようとしない。目の前にいるのは彼であって、今の彼ではない。逃げている人間に、自分と同じように痛みを感じる機能があるのか、計りようもない。もし、それがわかったとしても、彼の気持ちは変わらない。彼に許されているのは、この機能、何かを「殺す」というただそれだけなのだ。それがなくなってしまえば、彼はその存在意義、この世界に自分がいる意義という設定が仮になされているという仮定の元にだが、それさえも奪われてしまう。なにより、彼は、この行為を何よりも好んでいるのだ。
壊したい。
それが、彼の本質だ。
潤んだ青白色の瞳が、自分を見ている。
関係ない。
殺し方は自由自在。
そう、これは夢の中だ。
素敵な素敵な夢の世界。
銃を望めば右手に銃が、装填された弾は尽きることがない。オートマティック、リボルバー、ライフル、マシンガン、想像できる限りの創造を繰り返し、彼は殺す。十数体の自分を殺して、彼はナイフに持ち替えて、飛び掛る。
滑らかに、刃先をすべらせていく。
血飛沫を上げながら、自分が倒れていく。死体になるまでに短い時間、彼は徹底的に痛みを与え続ける。ナイフを突き立て、肉を裂き、強引に骨を折る。
どれが一番殺しやすいか、ではなく、どれがもっとも痛いのか、死んでからも続くように、彼は絶命の瞬間まで行為を続ける。
足りない。
完全な殺戮ゲームに、彼はすぐに飽きはじめる。彼が望んでいるのは無抵抗な獲物に対する優越感ではなく、拮抗した実力同士で行われる、スリルそのものなのだ。
今までに何度それが実現しただろう。
多分、何度か。
もしくは、何度も。
ただ、それで彼の飢えがなくなるわけではない。
最高に美味しい食べ物を食べたらそれで満足するか?
そんなわけはない。
『より』美味しい物を探すだけだ。
青い目の彼も同じだ。
『より』美味しい、『食べ物』を。
「ああ、こんなのは、もう慣れっこだったはずなのに」
小さな声で、彼は言った。彼女にではなく、自分自身のどこかに対して言った言葉のつもりだ。その当人が聞いているかどうか、は彼自体には関係がない。
「僕は、今は誰なんだ?」
「それは回答を要求しない問いだな」
間も空けず、彼女が返す。
彼は驚いた顔で、窓を見る。まだ二人は顔を合わせていない。
「そんなこと、わざわざ若菜が言うとは思わなかった」
「たまには無駄なことも選択する。それが人間というものだろう?」
彼女の質問に彼は何も返さなかった。
そうしなかったのは、その質問の回答が思い浮かばなかったわけではなく、もっと単純に、彼女が『たまには』という副詞を使ったことと、疑問系を成立させるために語尾を上げたことに驚いていたからだ。
彼は内心を落ち着かせてから一息つき、言葉を紡ぎ出す。
「個を規定するものは、個の属性によるもので、意味の差という観点から述べるなら、すなわち他者との比較に他ならない。ならば、個それ自体で個を規定する方法など何一つとしてないのだろうか」
「身の内にかのような疑問を持つという思考のみが、個を個たらしめる唯一の証明となる可能性を持つ、か」
「何か、色んな言葉が混ぜこぜだね」
おどけた声で、彼は自分と彼女の言葉を締めくくった。
彼らにとって、この程度の会話に何の価値も意味もない。前後の脈絡も全く考えていない。つまり、この程度の受け答えが意味もなくすぐさま出来ないようでは、彼らと同等に渡り合う段階には達せないのだ。
「調子は悪くないな」
「完全修復完了っと」
彼は適当な声を上げて膝を叩いた。
「今日は何かあるのか?」
彼が立ち上がり、窓に向かって歩いていく。窓を覆いつくす純白のカーテンを無造作に開いてまとめる。朝を過ぎた光は、暖かさとともに部屋の中を埋め尽くした。
どんなに考え事をしていても、多分変わらず朝はやってくる。
次に来る朝が雲で隠されていても、それは朝というものだ、太陽は常に照り続ける。
感傷的な台詞だろうか、と彼は窓から外を見下ろしていた。
「実は」
遠目には通っている学校が見える。メートル、家賃共に付近でも一番高いマンションは、見晴らしが良い。中階でもこちら側には学校までの道を阻む高さの建物は見当たらないのだ。少しだけ、世界を空から見下ろしている錯覚に囚われる。
だが、ここから目的の場所は見えない。駅を越えた反対側の商業地区は、このマンション以上の建物がいくつも並んでいる。駅前にはデパートがあり、少し離れていくごとに会社のビルが建ち並んでいる。駅から右手に十分ほど歩くと、ぽっかりと空いたエアポケットのように、林とは最早呼べなくなってしまったほどの森が広がる。
「もう予定は入れてあったんだ」
振り返り彼女を見て、悪戯っぽく首を傾げる。
「お前だけか?」
「まさか」
不満そうに、もちろん彼の主観だが、彼を見つめる彼女に対して彼は笑顔で返した。
「若菜も、だよ」
「そうか」
「美咲ちゃんの家の方角に行けば、そのうち皆と合流するよ」
彼らの後輩である神楽美咲の家は、その異空間とも言える森の中央に他者からの干渉を逃れるように存在している。いや、正確に述べるとすれば、その森自体が神楽家の所有物なのである。商業地区であれほどの区画を個人で所有しているのは彼女の家くらいだ。正月に行った神社も、実を言えば神楽家の敷地の一部に過ぎない。ただ管理を他人に任せている、というだけでこのあたりに長く住んでいるもので神楽家を知らないものはいない。
「汝死を見続けよ、それによりてのみ汝は生を得ん」
彼は、ぼそっと呟いた。
「何だそれは」
「いや、ちょっと、昔、誰かがそんな言葉を言っていたような気がして」
「だがその言葉は違う」
「ん?」
「生の反意語が死ではない。あくまで死は生が無に転じた現象を他者が観察したものに過ぎない」
「かもね。観察点の違いだよ、だったら最初から生自体を他者による観測にしてしまえばいい」
曖昧な言葉で、彼は子供っぽく重みをつけてベッドに腰を下ろした。顔一杯に、しかし情報は瞳だけで彼はガラス越しの太陽を感じていた。
朝の光は人間にとって心地良い。
それが、子供騙しの思い込みでも。
誰かが、プリセットした感覚でも。
「ところで」
背中から、聞きなれた声がした。
しかし聞きなれない台詞に、彼は背中をシーツに倒して上目遣いで彼女を見た。
「え、ところで? バイ・ザ・ウェイの意味の? 若菜、そんな接続詞を使うことあったの?」
彼女の会話の中でもっとも必要のないもの、それが接続詞と感嘆詞だ。
彼女の場合、『何か?』が感嘆詞に属するかもしれないが、『おや』とか、『まあ』とか、ましてや『おやまあ』なんていう言葉は、反射でも存在しない、ということが彼の観測の結果導き出されている。
接続詞も同様で、自分の言葉の中で使うことはまれにあっても、他人の言葉を受け継いでから接続詞は使わない。単純に、必要がないと思っているからだろう。その唐突さに反応できないようでは、彼女の会話の相手は務まらないのだ。現在、それに完全に対応できるのは、彼と彼らの周りにいる生徒会メンバー、それに彼らの顧問である正体不明の保健医くらいである。
「外へ出て何をするか聞いていなかった」
「普段から聞かないくせにぃ」
彼は語尾の『に』に妙なアクセントをつけて、適当に子供っぽさを演じてみた。そういう演技の努力を、彼は惜しまない。
「たまには気になる」
「んーと」
真剣な表情で返した彼女に、彼はベッドに倒れこんだまま、ひょいひょいと傷のない右手で手招きをした。もちろん、繰り返しになるが、彼女の真剣な表情というのは彼の主観なので実際に表情に変化があるわけではない。
「そりゃ」
上から覗き込む体勢になった彼女の頬をいきなり両手で掴み、自分の胸まで引き込む。何も言わずに、彼女は倒れこんだ。互いに相手の胸が額の辺りにある格好になっている。
少しの沈黙を、つまりは彼が無言だったために、二人は費やした。
そして五秒後に、彼が口を開く。
「春にすること言ったら、花見に決まっているじゃないか」
「決まっているのか」
顔が見えない中、訝しげ、というよりはきょとんとしたような雰囲気を感じ、彼は口元を歪めて笑った。
「だって、日本人だからさ」
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