第3話 バレンタイン

 今日は、バレンタインデーだった。

 授業が終わった彼は掃除当番でもないため、いつものように静かに立ち上がり、いつものように鞄を抱え、いつものように生徒会室に向かう。その右手には白い紙袋の紐が握られていた。体を少しだけ傾けて不自然に質量を感じさせながら彼は歩く。

 コンクリートの廊下は裸足で歩けば冷たいに違いない。きっとそんなことをする機会はないだろうけど、と考えながら彼の上履きは床と摩擦していた。

 廊下には多くの生徒がいた。

 不本意ながら生徒会活動をしている彼は、こちらは知らなくともある程度は顔が知られている。会長があまりに有名なため普段は空気のように振舞ってはいるが廊下ですれ違う生徒の何割かは彼を知ったような顔で見ていた。

 相手にだけ情報を渡すのはフェアじゃない。

 彼はそれを顔に出さず、ふわふわと歩いていた。ふわふわというのは比喩表現で、彼の足はきちんと地球の重力に従っていた。彼が歩いているのは四階だから、一階よりは重力が弱いかもしれない。

「あ、あの」

 生徒会室まであと一息、今日の授業内容を頭で復習していた彼は、見知らぬ声で呼び止められた。校舎の突き当たりの近くに存在する生徒会室の前に、一人の女生徒が立っていた。

 髪を後ろにまとめたツインテールで丸いメガネをかけていた。大人しそうな雰囲気で、何より身長が高校生としては驚くほど、いや彼はその程度で驚くようなことはないのだが、彼女は低かった。

「生徒会に用ですか」

 彼は極めて冷静に彼女に問い掛けた。

 彼は上履きを見て、彼女が彼よりも一学年下の一年生であることを確認する。実際、そうでなければ彼はこの少女を学校に紛れ込んだ中学生くらいに勘違いしていただろう。この学校は上履きに入るラインの色が学年で統一されている。

「わ、わたし、葉野朋香(はのともか)です」

 彼女は、しどろもどろで自分の名前を言った。

 質問の意味と回答が噛み合っていないのだが、彼はやっぱり驚かなかった。質問と回答をずらすことで相手の反応を見るのは、若菜の常套手段であり、つまりは彼の常套手段でもあった。

「あー、えっと」

「賀茂、タケヒト先輩」

「うん」

 名乗られたら名乗り返すのが礼儀だと小さい頃祖母が口を酸っぱくして言っていたのが染み付いていたので、彼は自分も名乗ろうとしたのだが、彼女は先に名前を言ってしまった。

 雛ばあちゃん、ごめんなさい、と彼は祖母に心の中で謝った。

「それで、用は?」

「あ、あの、これ……」

 彼女は後ろに回していた手を正面に持ってくる。その手には白い包装紙でラッピングされていた小さな包みがあった。リボンはない。

「もらって、ください」

 これには彼はちょっと驚いた。

 何にかと言えば、彼女がお湯を沸かせそうなほど赤面して彼の前に立っているその勇気にではなく、空気中の窒素ガスよりもその存在感を薄めて生活しているのに、話したこともない人間にこういった行動に出させてしまった自分の不注意さに、である。

 修行が足りないんだろうな、と彼は自省していた。

 もう一度、期待と不安を適量混ぜた湯沸し器である彼女を見る。

 絶対的評価というものがあるとすれば、かわいい、という部類に入るのだろう。動きは小動物みたいだし、子犬を目の前にして無性に頭を撫でたい衝動と同じ雰囲気を彼女が持っている、ような気がする。ただ、彼を基準にした相対的評価だと、彼はそういう感覚がほとんどないのでよくわからない。

 断るのともらうのと、どちらがより印象を薄められるのか、彼は比べたが、所詮は他人なので確率的にしか考えられなかった。

「あの、もらっていただけるだけで、うれしいんです」

 彼女は、沸点を越えて蒸気になっていた。

 今これを断ってしまっては印象が悪くなるのは確実だろう。

 彼の感覚から言って、本当は壊してしまう方が面白いのだが、今は自己のために制御している。

「ありがとう」

 精一杯、彼が装える笑顔で、彼女のものを受け取った。

「ありがとうございます、それじゃ」

 彼女は小さくお辞儀をして、立ち去ろうとした。

「あ」

 何だか間抜けな声を投げかけた彼に、彼女は駆け出した足を止めて振り返った。

「クラスを、教えてくれないかな」

 彼の言葉に、それはもう水に放り込んだナトリウム片みたいに彼女は顔を輝かせた。

「お返しするとき、探すのが大変だから」

「はい、一年三組です」

 クラスだけで十分なんだけど、と思ったが、言うのは面倒だった。

「わかった。覚えておく」

「はい、ありがとうございます」

 彼女は、嬉しそうに去っていった。


 少しの間、自分の能力のなさと普段の生活を改める必要性について彼はその場で考えていたが、変更の余地なしと四秒で決断をした。

 決断にはタイミングが重要だ。

「せんぱーい」

 後ろから、聞き覚えのある明るい声が聞こえた。彼はそちらに向き直し、声を発した彼女を見る。

「ああ、風見君」

「見ましたよ、先輩」

 一年後輩で、同じく生徒会の風見唯である。丸くて大きな瞳が、とても印象的だ。左上の前髪はいつも二つのピンで留められている。これを外すと大変なことになるらしいのだが、彼は一度も見たことがない。

 楽しそうに、彼を眺めている。

「何を?」

「今の、です」

「今の、何を?」

「今の、女の子が、先輩に、チョコを渡すところを、です」

 彼が遭遇して彼女が見た光景を言語化するとどうなるんだろうかと、彼は気になったのだが、風見は少しむくれて、てにをはだけを簡潔に使って返した。

「ああ、なるほど」

 彼は手に持った白い包みをくるりと一周させた。

「よくわかったね、透視能力?」

 中身が見えないそれを、天井に取り付けられている蛍光灯にかざした。

「今日はバレンタインですから」

「まあ、確率的には一番高そうだね」

「それ以外に何があるんですか?」

 首をかしげて風見が聞いた。彼女は顔のパーツに合わせているのか、一つ一つの動作が割りと大きめだ。

「何があるかはわからないけど、何かはあるかもしれない。好みを把握して、酢昆布かも」

「え、先輩、酢昆布が好きなんですか?」

 目を丸くして、風見が聞いた。

「チョコレートよりは、好きかもしれない。酢昆布を食べたことはないけど」

「チョコが嫌いなんですか?」

 彼女が言うチョコ、とは一体どんな構造式なのだろうか、結合の手が一本余って、名前は『バレンタイン基』というのかもしれない。

「嫌いじゃないけど、チョコレートは苦手なんだ」

 彼が好みを言うのはほとんど異例であることは、彼自身一番理解している。好みを述べることは、相手に自分を理解させようという動機から来るのが中心であって、彼にはそれがない。しかし、目の前の彼女は勢いで何となく何でも言ってしまいそうな雰囲気にさせる。その点で、彼は甘ったるく口に残るチョコレートと同じくらい風見が苦手だった。彼女は人の中を無条件で開いてしまう能力がある。

 そういうのは、フェアじゃない。

「あれ、美咲ちゃんは?」

 かといって、彼は彼女の情報を欲しがっているのでもない。

 出した分を回収しようと思っているだけなのだ。

 現状維持、現場保全、プラスマイナスゼロ、それが彼の人生目標である。

「美咲は、掃除当番なんです」

 残念そうに、落胆でむーと言いそうな顔をしていた。

 風見は本当に神楽が好きなのだろう。都合で小さい頃から一緒に住んでいる、という情報をひっそりと若菜から得ているから、姉妹の感覚の延長なのだろうか。

 だとしたら、姉はどちらになるのだろう。

 面倒見が良いのは風見だが、実はしっかりしているのは神楽に違いない。

 そもそも、年齢以外に姉として規定されるものがあるのだろうか。

「あー、そういえば、今日は生徒会室に用なの?」

「美咲待ちです」

「そう」

 各部活動の年費用の草案を決定する権限を持っている生徒会執行部は、原則他の部に所属することができない。だから、この生徒会室が彼らの部室も兼ねているのである。

「それじゃ、とりあえず開けよう」

 彼は制服のポケットから鍵を取り出す。

 生徒会長である若菜や、副会長である彼に限らず、一年生以外は全て合鍵を持っている。勝手に部屋に入り、勝手に作業をしていなくなるのが、当然の行動なのである。いちいち若菜を捕まえていたら効率が落ちてしまうという全員の総意で、合鍵は自費で作られた。一年生は、まだ入って日が浅く単独での仕事が少ないため、鍵は持たされていない。持っていても内部に反対する人間はいないのだが、学校内にある監査機構がうるさいので合鍵の数を減らしたのである。

 彼が鍵穴に触れようとしたとき、彼の手が止まった。

 鍵が開いていた。

 耳を済ますと部屋から音が聞こえた。

 静かな、クラシック。

「ナル、か」

「そうみたいですね」

 彼女が同意する。

「スイッチを入れないように気をつけよう」

「了解です、隊長」

 彼の言葉に、風見がふざけて敬礼をして返す。

 両者、目で合図をして、ドアを引いた。


 彼が先頭に立って部屋に入る。

 いつもと変わりない部屋、授業の教室と同じ広さに、並べられた長机が三つと左奥には会長用の机、載せられた数台のパソコンがあり、右手にはロッカーが並べられている。このロッカーの向こうにもぐるっと回っていけるようになっていて、外部から見られたくない打ち合わせなどに使えるようになっていた。

 彼と風見はロッカーの向こう側がギリギリ見える範囲まで移動し、一人の少女がいることを互いに確認した。

 ナル私物、と書かれた白い紙が貼られている、中規模の木目調のオーディオ一式が角に陣取っており、ボリュームを入れているのか曖昧なほど小さく音を奏でつづけていた。

「おはよう、武ちゃん」

 少女は穏やかな目で彼を見る。

 光沢のある髪は、肩過ぎで綺麗に切り揃えられていて日本人形のようである。

「おはよう、ナル」

「おはようございます、成宮(なるみや)先輩」

 もう放課後だろうに、という思いを押し殺して、彼と風見が順に彼女に挨拶をする。

「風見ちゃんも、おはよう」

 神楽のような子供っぽさとは違い、彼女、成宮真琴の喋り方は丁寧を強調したおしとやかさを感じさせる。丁寧すぎて遅い。

 彼女といると、若菜を除く人間が、ペースに飲み込まれてゆっくりに喋ってしまいそうになるのである。

「ナル、仕事は?」

 彼も一つ一つ丁寧に話す。彼女は、是非はともかく彼の行動に影響を与えられる数少ない人物である。

「終わったよ」

 彼女は委員会統括と同好会統括を兼務している。

 彼女が差し出した書類を彼は空いている左手で受け取る。彼は副会長であり細かい仕事がない代わりに、全体のチェック、つまりは完全な雑用を担っている。

「ありがとう」

「武ちゃん、それはチョコレート?」

 彼女が、彼が未だに右手に持っている包みを微笑んで見ていた。

「酢昆布よりは、確率が高いみたいだ」

 自分の耳元で葉書大の包みを振って、中身がカラカラと鳴るのを確認する。

 彼のジョークに、彼女は理解できなかったのか首をかしげた。

「誰からなの?」

「あー、えー、誰だっけ?」

 無造作に、包みを足元に置いた紙袋に落とした。

「忘れてしまった。クラスと顔は多分覚えたんだけど」

「先輩、それは酷いですよ」

「そうだよ、武ちゃんは酷い」

 続けざまに浴びせられる『酷い』に、彼は苦笑いを浮かべる。

「名前を覚えるのは苦手なんだ」

 今日は自分のことをよく口にするな、と彼は思っていた。

 彼の傍にいた風見が、今さら彼の紙袋を見て、声を上げた。

「これ、全部チョコなんですか?」

 紙袋の中には、大小様々の包みが入れてある。その数は十以上、実にクラスの女子の半数からもらったことになる。つまりは義理チョコというやつである。

 風見が目をくるくるさせているを見て、成宮は微笑んだ。

「酢昆布よりは、確率は高いよね」

「その通り」

 成宮のジョーク返しに、彼が応える。順応性が高い。

「武ちゃん、はい」

 成宮が立ち上がって、彼と風見の前に向かう。差し出されたのは、簡素にラッピングされた手の平大で茶巾形の包みだった。

「バレンタインだから、作ってきたんだよ」

「あーありがとう」

「チョコレートは武ちゃんダメだから、クッキーにしたの」

「よく覚えてたね」

 彼の言葉に、彼女は嬉しそうな微笑で返した。

「はい、風見ちゃんにもあるんだよ」

 同じ大きさの茶巾を、風見に渡す。

「ありがとうございます。私からは、もう少し待ってください」

 風見は満面の笑顔でお辞儀をした。彼女も何か用意をしているのだろう。

「若菜は?」

 彼は自分の椅子に座り、パソコンのスイッチを入れた。紙袋は横に放置したが、成宮からもらったものだけは机の上に置かれている。クッキーは割りと好物なので作業をしながら食べるつもりだ。

「気になるの?」

 意味深な成宮の笑顔が、まだ暗いディスプレイに映る。

「酢昆布の味よりは」

 彼は振り返らずに答えた。

「会長なら職員室に入っていくのを見ました」

「それで、若菜ちゃんに何の用なの?」

「新歓の時間調整がまだ終わってないんだ。あの二人は?」

「永浦君は用事があるって、須藤さんと帰ったよ」

 永浦と須藤は二人とも生徒会のメンバーで、永浦が文化会担当、須藤が体育会担当である。目下、彼らは四月に行われる入学式と、それに続く新入生歓迎会の部活紹介の時間と順番調整で、しばらく仕事を抱えているはずなのだ。

「二人で?」

「デートですね」

「そうだね」

「何だかんだで、仲が良いんですよね」

 風見の言う、何だかんだ、という意味はこの二人が生徒会にいる間は大抵喧嘩をしているのに、という意味である。紆余曲折、何故か二人はこういうことになっていて、周りでは、どちらの状況がカモフラージュかで微妙に盛り上がっている。

 何があったかは語っていないが、去年の夏祭りでそれなりのことがあったのだろう。

「武ちゃんと若菜ちゃんくらい」

「それは、何か違うと思う」

 どうも、成宮は彼と若菜の関係を勘違いしているようだ。むしろ、彼女は勘違いしたいのだろう。その方が面白い、という理由で。彼女はおしとやかで、素直であり、小さく自分を楽しませるために少しだけ意地悪なのだ。

 誤解を解こうにも上手い説明が思い浮かばない。かといって完全に彼らのことを話してしまうわけにはいかない。少なくとも、恋人ではない。

 協力者、いや、正確には共犯者だろうか。

「それより、シロがまだ教室にいたぞ」

「いいのよあの馬鹿は」

 成宮が素っ気なく返す。一応成宮の恋人であるはずの彼の友人は、また何か彼女にやらかしたのか、愛想を尽かされているらしい。それもいつものことなのでわざわざ心配するようなことでもない。

 コンコン

「どうぞ」

 ノックの音に、風見が返した。

「美咲ー」

 入ってきたのは、風見の同級生で彼の一年後輩である神楽美咲だ。

「おわった」

 疲れてはいるが、人を朗らかにさせるような明るい穏やかな顔、それが神楽の人間性である。だが、彼は彼女の裏に別なものがあるような気がしてならなった。しかしたとえそれが彼と同質のものであっても、それを暴く権利も気分も彼にはない。

「おかえり」

 風見が神楽に駆け寄って、指で頬をムニムニしている。満更でもない様子で、神楽は声でふにふにと言っている。

「こんにちは、賀茂先輩、成宮先輩」

「こんにちは」

 彼と成宮は、声を合わせて神楽に挨拶をした。

 成宮は立ち上がって二人にあげたものと同じものを神楽に渡した。神楽は目尻を普段より垂らして受け取る。

「ありがとうございます」

「これで、今日あとは若菜だけかな」

「用か?」

 彼が予想外の声に肩を震わせて、ディスプレイから顔を離す。

 いつの間にか、会長席に若菜が座っていた。

「え、会長?」

 彼の驚きを疑問の声にしたのは風見だ。神楽と成宮は平然としている。

「さっき職員室であって、いっしょにきたんだよー」

 だから、神楽は生徒会室で若菜に挨拶をしなかったのだろう。

「私は、見えてたよ」

 成宮はドアを見ていたから気が付いていたのだ。風見が神楽とじゃれている間、彼はディスプレイと新歓の時間調整の相談をしていた。若菜の気配はいつも希薄すぎて意識しないと感じることがない。

「用は?」

 不思議そうに、またこれは彼の主観だから、緩いウェーブをなびかせて小首をかしげたわけでもなく、彼女の焦げ茶色の瞳孔が開いたわけでもなく、ましてや頬が緩んでいるわけでもない、何も変化のない顔で、彼女は彼を見た。

「あー、歓迎会の調整草案、プリントしたのがその机にあるから」

「今見ている」

「それから、委員会予算の増減について、監査から報告要求があった」

「受けている」

「歓迎会用の去年の学園祭の編集ビデオが放送局から届いた」

「後で見ておく」

「えーと、先週の箱の確認については、これは見てないんだけど」

 箱、とは、生徒会室の前に置かれている無記名の目安箱のことである。校内の補修要請や、行事案などに意見があるものが各自生徒会に通るように出すのだが、大半が会長へのラブレターで占められているという事実は、誰にも否定できていない。

「あ、それは私が見た」

 成宮が手をあげ名乗り出る。生徒会の鍵と連動しているので、箱を開けられるのは二年生だということになる。この意見箱の呼び名は生徒会的には『箱』であるが、外見上の問題から、一般生徒には『ブラックボックス』で通っているようだ。そのせいか、たまに悩み相談までやってくるほど、用途が広くなっているのである。

「それほど重要なのはないと思う。大体は分類したから武ちゃん見ておいて」

「了解」

 彼が、若菜に代わって返事をする。

「若菜ちゃんへのお手紙が何通かあるけど、必要?」

「必要ない」

「じゃあ武ちゃん預かっておいて」

「ナル、どうしてそうなる?」

 成宮の曲がった意味での強引さや立ち回りには、彼でさえ流せられずに受け止めてしまう。それでいて他人に不快感を与えないのだから、彼女は素晴らしい人材だと言えるのだろう。

「だって、捨てるわけにはいかないでしょ。それでいいよね、若菜ちゃん?」

「構わない」

「以上、箱の処遇について完了だよ。武ちゃん、あとは?」

「残念だけど、今のところは思いつかない」

 非常に楽しそうな成宮に、溜息を付きそうになりながら彼は答えた。

「じゃあ、美咲ちゃん、その大きな包みの番にしよう」

 成宮が、神楽が抱えていた辞書二冊分ほどの包みに顔を向けて、神楽に促す。神楽は笑顔でそれを中央の机の上に置いた。

「みんなで食べようって、風見と作ってきたんです」

 蓋を開けると、そこに入っていたのは、店頭に並んでいてもおかしくないくらいに見事な出来栄えのチョコレートケーキだった。

「うわー、これはすごいね」

 成宮が感嘆して言った。

「大作だあ」

 見るからに機嫌良く、成宮が製作者の神楽と風見を見る。風見は満足そうに、神楽は少し照れているようだった。

「お店に並んでいても、大丈夫なくらいだね」

 彼が心の中で表現したものを、成宮は声に出した。

「これに合う紅茶は、なんだろう」

 成宮は歩いて、棚に向かう。彼女が占有している棚には、各種紅茶と全員のカップが置かれている。電気ポットではダメだったらしく、今では小さな電熱器まで隅に鎮座している。ケーキを切り分けるためのナイフは、当然彼女の手によって常備されていた。

 次第に慌しく、成宮が動き始める。

 あ、と風見は何かを思い出したように声を上げ、無表情で突っ立ったままの若菜に向いた。

「会長、今日はお店に行ってもいいですか?」

「私もお願いします」

 風見の提案に神楽が深くお辞儀をした。

「私もそれに乗りたい」

 成宮が動きを止め、手を上げて同調した。

「ふむ、良いだろう」

 三人の意見に、考えた様子もなく彼女は許可を与えた。

「それなら美咲ちゃんと唯ちゃんの大作はお店で食べた方がいいよね」

「お店の人に、迷惑がかかりませんか?」

「問題ない」

「水鳥(みずとり)さんに味のチェックもしてもらえるしね。私も新しい紅茶が欲しい」

「しんぱい」

 胸に手を当てて、神楽が言った。

「決まりだね」

 今日は成宮が妙に仕切り、これからの段取りを決めていっている。

 四人の放課後の予定が確定し、それから自然と、若菜以外の目が彼に集まる。

「書類整理を手伝ってくれる人間は、多い方が助かります」

 彼は勤めて丁寧に、視線の返事を実際の二段階手前の言葉で返した。


 分散した作業は、実際には振り分ける時間と統合する時間があるため結果効率は落ちていることが多い。それでも、彼一人に対する負担が減っているということは、彼にとっては重要だった。他のメンバーも、黙々と作業をしている。時折、成宮の作ってきたクッキーを食べる音とキーボードを叩く音が聞こえる程度だ。誰も不平は言わない。この後に待っているお楽しみに比べれば、軽い運動程度にしか感じられないのだろう。

 彼が目算していた時間より、一時間も早く作業は終わった。

「よし、完了」

 彼がパソコンのメインスイッチに手をかけると同時に全体を見渡した。

 彼が最後の統合作業をしていたので、他の人間は既にコートを着込んで、外に出る準備は万全だった。神楽が持って来ていたケーキは、今は風見が持っている。彼女のミトンの手袋では、滑って危ないと風見が判断したのだろう。若菜もコートを着ていて、無言で自分の椅子に座っている。成宮はCDを取り出し、オーディオのスイッチを切った。現段階で彼女の方のスイッチが入らなかったのは誰にとってもありがたいことだった。まだ油断はできないが。

「行こう」

 彼が自分の黒いコートに袖を通した時には、若菜以外は生徒会室を出ようとしていた。よほど店に行くのが楽しみで仕様がないらしい。

「若菜、先に出て、鍵を閉めるから」

 彼の言葉に、彼女は無言で立ち上がって部屋を出る。

 彼が鍵を閉めた時には、もう三人の姿は見えなくなっていた。若菜は音も立てずに一人で歩いている。彼は、三人に追いつこうとするのは諦め、早足で彼女の横まで行った。

 彼女の左側に並んではみたが、特に言うべき言葉もなかった。左手には放課後の廊下よりも一つ分重くなった紙袋があった。彼女が彼にバレンタインに関わらず何かを用意しているという事態は、六面サイコロで7を出すくらいありえない。

 彼女は、右手に彼と同じように紙袋を持っていた。中身を確認するでもなく、それがバレンタインの贈り物達であることを彼は理解する。多分、彼よりも相当多い数のチョコレートを、酢昆布よりは高い確率でもらったのだろう。

「バレンタイン?」

「そうらしい」

 一応の問いかけに、一応の返答を彼女がする。彼らは有益な会話と無駄な会話の二種類を、ほぼ理性によって区別している。実際の割合は今のところジクロロベンゼンのパラとオルト異性体くらいだ。残ったメタはファジーな会話で、どちらかに転がる可能性があるということを認識した上で話す。

「下らない」

「同じく」

 顔を合わせて話さないのは、二人とも目が口ほどにはものを言わないからであり、明確に言語化できない現象に関しては、伝え合わない。

「珍しいな」

 彼女は言ったのは、彼女の意見に同意したことではなく、普段は人間が便宜上決めたイベントを、世間に馴染むために半ば無理矢理取り入れている彼が、そのイベントを否定したことに対してである。

「チョコレートは苦手だ」

 彼は今日二度目の台詞を言い、いつものように、ポケットから飴を取り出そうとした。しかし、その中に、常に入れられているはずの飴はなかった。確認のためと思って、コート以外のポケットも探ってみたが、結果は変わらなかった。珍しく、補充をすることを忘れていたのである。

 まあ、しょうがないか。

 そう彼は思って諦めることにした。

 と、歩きながら、彼女が握った手を彼の前に差し出した。

「何?」

 不審に思って立ち止まり彼が聞いたが、彼女は何も言わなかった。

 手の平が下に向けられているのを見て、彼はその下に自分の右手を置いてみる。彼女の手が開かれカサッと何かが彼の手の中に落ちた。

 それは、彼が好んで食べているパイン味の飴だった。

 飴を切らしているのを見兼ねて彼女が渡したのだろうか。彼が渡すと彼女は直に口に入れてしまうから、彼が前に渡した分ではないし、彼女は飴を自分で買うことはないはずだ。

「え?」

 彼が彼女の真意を聞こうと彼女を見たが、彼女は歩き始めて彼の数歩先に行ってしまっていた。

 久しぶりに彼女への効率的な質問を考えてみたが、とにかく自分がサイコロで7を出したという事実を踏まえ、色々考えた上で、彼は彼女の横に並び直して、

「ありがとう」

 と言った。

 彼女は、何も反応しなかったので、彼の声が聞こえているのかはわからない。すたすたと彼女は何事もなかったように歩いている。自分の飴を食べている様子もない。階段を降りて、玄関へと向かう。

 彼女は正面を見たまま、

「来月は三個だ」

 と、彼に聞こえるギリギリの大きさでそう言った。

 しばらく彼は彼女の言った言葉の意味について考えていた。

 それがホワイトデーのお返しは三倍返しである、という誰かが勝手に決めたイベントに関した情報に対しての彼女なりの冗談かもしれない、と彼が非常に勝手ながら思い至ったのは玄関で待ちくたびれた様子の三人を確認した時で、歩数でいえば五十八歩目だった。

 そして、五十九歩目で、彼は声に出さず笑った。

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