第2話 大晦日から正月

 彼は目を醒ます。

 宙を見上げ焦点を天井に合わせていく。ぼんやりとしたそれは、いくつかの風景が重なって見えた。夢の映像がダブっている。少しずつ薄くなるそれは、元がどんな夢であったかはもう語ろうとはしなかった。

 天井は白一色。

 壁も、そして調度品ですら全て白で統一されている。

 一瞬ここがどこだったか思い出せなかった。自分の部屋ではない。

 体を起こそうとして、横にいる少女が目に映った。

 緩いウェーブのかかった、黒とは呼べない短い髪。少女は静かに目を瞑って無表情に眠っていた。寝息は全く聞こえないが、生きているか、そうでないか、それくらいは彼にもわかる。

 彼は、彼女の寝顔に見入っていた。

 薄い唇は、艶やかで、花弁のようだった。

 その姿に思わず彼はキスをしてやろうかと思ってしまったが、すぐにそれは止めた。

 唇にはキスをしない。

 それは、この不安定な、それでいてお互いにもっとも有益な関係を維持するために決められた、暗黙のルールの一つだった。

 ベッドに腰をかけて、脇に置いてあったコンタクトケースに手を運ぶ。無造作にそれをカーテンから漏れた光に通す。微かに色を反射しているように見えた。記憶による認識の誤作動だと彼は思い、そしてまたケースを戻す。

 ベッド下に落ちていた服を拾い、袖を通していく。

 着替えを持ってきた方が無難だったかな、と今さらながら思って、服を着終えてまたベッドに座る。振り返ると少女がうっすらと目を開けはじめていた。彼と同じように、天井を見上げ、しかしこちらには向かなかった。

「おはよう」

 彼が言った。

「ああ」

 上の空なのか彼女はそう言った。彼女がこの手の挨拶を自分から言ったのを彼は聞いたことがない。彼が聞いたことがないのだから、他の人間もないだろう。

「そして、あけましておめでとう」

 彼が彼女の反応に関係なく、続ける。

 昨日は大晦日で、特に用事もなく、特にすることがない、という状態の彼は同じ状況であるはずの彼女の部屋にいた。彼女も、連絡もなしにやって来た彼に対して、何も言わず、部屋に入れた。

 彼の手には、二人分の鍋の材料が入ったビニール袋が下げられていた。それを、テキパキと調理し、去年の大晦日に彼が持っていた土鍋をカセットコンロに乗せて食べた。

 食事を取りながら、クリスマスに遭遇した出来事について簡単にまとまった会話をした。会話というよりは、ほぼ一方的に彼が喋っているだけになってしまうのだが、去年の夏休みに離れ小島で体験した出来事に比べれば大したことはない、という結論になった。互いの意見を交換したあと、鍋にうどんを入れる。

 珍しく彼女が自分から大晦日にはソバではないのかと、彼に言った。

 彼は、彼女が自分から話を切り出すということと、季節的なイベントの話をするという出来事の両方に、数日前の出来事以上に驚いた。

 理由を彼は尋ねると、簡潔に、ソバが好きだと彼女は答えた。数少ない彼女の嗜好について、彼は一つ脳にインプットする。そして勝手に面白くもないテレビを無言で眺め、どちらからというわけでもなく、今に到る。彼らにとって、これは自然なことであり、頻度で言えば、この流れは月に二度程度はあった。

「めでたくはない」

 予想していた言葉に、彼は口元を歪ませる。

「決まり文句だよ。もう少し、若菜は器用に生きた方がいい」

「タケトは、器用すぎる」

「世界は、こちらに合わせようとは思わないから」

 悲しそうな、諦めたような、そんな表情を彼はした。今の彼は、学校にいるときの黒ではなく、青というには薄い、けれど濁っているわけではなく、透明というにふさわしい、不思議な青白色の瞳をしていた。彼が本当はこの瞳であることを高校では彼女しか知らない。学校ではカラーコンタクトで隠している。

「自分を殺す気分は、どうだ」

 彼女は彼を見ずに問う。

 彼は悪戯な笑みを浮かべ、

「自分を殺す気分と同じだ」

 と返した。

「そうか」

 自分で聞いたにも関わらず、無感情で彼女は言った。

 彼が彼女の頬に右手で優しく触れる。髪の毛をすり抜けて、普段は隠れている耳を包み、指で撫でる。

「自分がなくなるのは、どういう気分?」

 顔を触れるほどに近づけ、彼がお返しとばかりに聞いた。

 咎めることもなく、彼女は彼を見る。

「ないのだから、気分もない」

「なるほど」

 彼女の答えに、彼は妙に納得をした。

 そして、彼女の整った鼻筋に軽くキスをした。

「パンとご飯、どっち?」

「任せる」

 彼が頷いて、ベッドから離れる。脇にあったコンタクトケースを掴んだ。何度かケースを空中に浮かせながら、ドアまで行く。

 ドアに手をかけたところで、彼は彼女を見る。眠り直したのかと思えるほど、彼女は静かだった。普段も彼女は気配を感じさせないから、何も変わりないと彼は思う。いつものペースから、彼女はこちらの部屋に来るのは十分ほど後だろう。

 彼は、ドアを開けて、彼女に言った。

「じゃあ、お雑煮を用意するよ」


 予定通り、十分後に彼女はリビングにやって来た。ここも、白で統一されている。本当に高校生が一人で住んでいるのかと疑うほど、この部屋は広かった。彼はもう慣れているから、驚くことはない。自分の部屋のように、キッチンとテーブルと往復して、朝食の準備をする。彼も、一人暮らしをしているため、料理は手馴れたものだ。

 一瞥もせずに彼女は椅子に座る。

 テーブルには、小さな椀に、雑煮が盛られていた。椀も彼女の部屋にはなかったものだ。彼が、これを見越して買ってきたのである。そのため、この家には、彼女が揃えなくても、徐々に二人分の食器が集まっていく。

 二人とも朝は少食だから、この雑煮と、コンビニで事前に買ってきた御節セットが一パックで充分だった。

 美味いとも、不味いとも彼女は言わず、料理を食べきった。

「さて、これからどうする?」

 彼は、玄関から戻ってきた彼女に聞いた。

 彼女の手には、輪ゴムで留められた十数枚の紙の束があった。

 年賀状である。

 それを白いソファに落とす。

「読まないの?」

「興味はない」

「一通も出してないんだろう?」

「必要はない」

「……そうですか」

 彼女がそういう性格であることくらいは年賀状を出すための住所を知っている人間は知っている。返事を期待していないが出してやろう、という奇特な少数が、こうして年賀状を出しているのだ。ちなみに彼は、大概のクラスメイトには出したが、彼女に出さなかった。彼女に出しても、関係に影響がないからだ。

「で、これからだけど」

「何もない」

「初詣、行かない?」

「拒否する」

 神社に何かを祈る気持ちはない。そう言いたいのは、彼も同じことだ。

「実は、美咲ちゃんと風見君から誘いを受けている」

「断らなかったのか」

「残念ながら、たまにはそういうこともしないと」

「一人で行って来い」

「ついでに、若菜も連れて来るように、って」

「断る」

「一生のお願い、って言っても?」

「当然だ。その願いは、既に使い切っている」

「一生のお願い、ってさ、一生に一度のお願い、っていう意味じゃないよね?」

「同意だと理解する」

「じゃ、今年一番のお願い」

 彼は、彼女の前で手を合わせた。心などこもっていないのは、どちらも承知の範囲だ。

 彼女は一度口を開きかけたが、彼をじっと見て小さく息を吐いた。表情は変わらないので、諦めか、落胆かは読み取れない。単に呼吸をしただけだろう。

「面と向かってそんな願いをするのはお前だけだ」

「それは、行くってこと?」

「ああ。そこまで外面を繕えるお前は尊敬に値する」

「ありがとう」

「昼は、奢りだな」

「それくらいは、負担しよう」


 二人はそれぞれのコートを着て街へ出た。彼女の家は駅から近い、この辺では最も高いマンションの中間の階である。何故彼女はこの部屋に一人きりで住んでいるのか、今のところは彼しか知らない。

 むしろその大元を作ったのが彼なのだ。

「やっぱり寒いね」

 彼はコートの中に首をすぼませながら陽気に言った。彼女は、それを独り言として受け取ったのか、それとも返す必要のない意見だと思ったのが、完全な無視をした。

 駅の構内を通って、街の反対側に出る。そこは、先ほどまでいた住宅街ではなく、街の商業を一手に担う飲食店やデパート、テナントビルが並んでいるエリアである。とはいえ地方都市だから、それほど混んでいるということでもない。その大通りを、駅からの人の波に乗って移動する。二人とも、神社の場所など知らなかったが、どうやらこの人波も同じ目的だと言う事が何となく理解できたので、歩みをそちらに合わせていた。

 百メートル強を歩いて、追い込まれる羊よろしく並んで右へ折れた。普段は気が付くこともなかった神社への看板が、その曲がり角には立てられていた。白地に赤のペンキで書かれた、ゴシック体の文字は、神聖な場所への案内図というよりは、年明けの福袋客を整理するための立ち看板みたいに安っぽい、と彼は思った。

 ポケットの中で暖めておいた使い捨てのカイロを彼は彼女に渡す。当然、彼女は礼を言わずに自分のポケットに入れた。手はその中にすっぽりと収められている。

 それからまた同じ距離を歩いて、彼はようやく神社の入り口である鳥居を発見した。そして、その下に、見知った顔があるのを見つける。鳥居の下に寒そうにいた二人の少女が、彼らを見つけて手を振った。その動作につられるように、幾人かが彼らを見たが、何事もなく顔を戻す。

「せんぱいー!」

 両手にカイロを持った、髪の短い少女が、大きく手を振り続けて彼らを呼ぶ。横に立っている髪を腰まで伸ばした少女は、真っ白なコートを着て、物を掴むには不適当なミトンの手袋をしていた。

「あけましておめでとう」

 彼は、外へ出した右手を小さく振って、挨拶をする。

「おめでとうございます」

 瞳の大きな少女、生徒会の後輩の風見唯が言い、同じく後輩の神楽美咲が、丁寧にお辞儀をしながら、冷たさも忘れるほど柔らかい声で、

「おめでとうございます」

 と言った。

 二人の声は彼と彼女に向けられたものだったが、彼女は何を見つめるでもなく、鳥居の上を見ていた。

「他の三人には? メールしたの?」

 彼が美咲に聞いた。美咲の横にいた風見がかわりに答える。

「えっと、成宮(なるみや)先輩は家の用事で手が離せない、永浦(ながうら)先輩と須藤(すどう)先輩は、近くにある別の神社に行くからって、お断りのメールがありました」

「ふうん、ナルは仕方ないとしても、どうなんだろうね、あの二人」

 適当な感想に神楽が手袋で口を隠して笑う。

「ふふ、どうなんでしょうね」

「ま、いっか。じゃあ行こうか」

「はい」

 彼女が何も言わないだろうということは、三人は最初から予想していたので、流れるように行動は進んでいく。若菜が来たことが既に可能性として低い出来事だったから、それで今年の運は使い切ってしまったよ、とどうでも良いジョークを考え付いたが、面白くないので彼は言うのを止めた。

 若い二人が率先して、やる気の感じられない年長組を引き連れていく。

 鳥居をくぐるとき、彼は奇妙な感覚に襲われた。全身が痛いような、どこかを締められるような、とにかく気持ち良いものではなかったが、それも鳥居を抜けるとすぐに止む。

 気にするようなことでもなかったから、彼は忘れてしまった。何気なく彼は彼女を見ると、同じような珍しくしかめ面をしていた。それも一秒で元に戻る。

「あー、結構並んでいるんだね」

 賽銭箱までへの道のりは、二列に並んだ人々で埋まっていた。そこから外れて、脇に設置された売店のようなところに人垣ができていた。多分、おみくじや破魔矢、お守りを売っているところなのだろう。彼は、その手のことに実のところ興味がないから、知識として知っているだけだ。更にその上をいく無興味の彼女は、その存在すらも気にしていないようだ。

 風見と美咲が彼らの前に並ぶ。

「若菜、小銭とか持って来てないよね」

「必要ない」

「そういう問題じゃない。儀式ってもの」

 無地の財布をコートのポケットから取り出して、適当に小銭を若菜に渡す。時々、無意味に保護者になっている気が彼にはしたが、本当は彼女が彼の保護者だということを誰よりも知っている。彼がいなくても彼女は変わらないだろうが、彼女がいなければ彼はきっと簡単に壊れてしまう。

 ちょっとした中毒かな、変な感覚だ。彼は、俯いて砂利の色を見比べていた。

 彼の前にいた風見が振り向き、彼に小首をかしげながら言う。

「よく会長を連れて来れましたね」

 誤解を避けるため彼は彼女の家に行っていることを誰にも伝えていない。電話でもかけて強引に呼び出したとでも彼女は思っているのだろう。

「昼ご飯を引き換えにした」

 彼ができる一番自然な笑みで、彼は返した。

「ご一緒しましょうか?」

「いやあ、四人分のお金はないし、君達の邪魔はしたくないよ」

 色々と含ませられることを出来る限り詰め込み、彼が言った。

「そうですね」

 困った顔を一瞬して風見は笑顔で言った。彼女は誰よりも他人に気を使える人物で、そしてそのことを気が付かせないようにしている。彼は、そんな彼女が何よりも暖かく、だから彼女が苦手だった。

 風見は正面に向き直して、横の美咲と何かを話している。風見の首をかしげる癖に、美咲は一つ一つゆっくりと楽しげに頷いていた。彼はどちらかと言えば美咲の方を好んでいた。細かいところは違うだろうが、彼女からは自分と同じ匂いを嗅ぎ取っていた。自分の最も根本的な、部分を。

 チャリンと音がして、虚ろな思考から目覚める。

 風見達が、賽銭を投げ入れたところだった。

 ジャランジャランと鈴を鳴らして、風見が二度手を叩く。美咲は玩具を買ってもらった子供のように鈴を鳴らしていたが、二度お辞儀をしてから、手を二回叩き、そしてまた一礼をした。正式な作法を彼は知らなかったが、美咲のその仕草が馴れ親しんだ動作であることを理解する。

 横に捌けた彼女達にかわって、彼と若菜が賽銭箱の前に立つ。握っていた賽銭を、彼は勿体無さそうに投げた。若菜は手から重力に従って賽銭を零れ落とす。鈴を鳴らして、彼は彼女に持ち手を渡す。微かに音が聞こえるくらいに弱く、彼女は鈴を振っただけだった。

 美咲の作法に彼は倣った。最後の礼が終わったあと、動作に集中していたせいで何も頼んでいなかったことに気が付く。初めて来た人間のために神様が安い賽銭で願いを叶えてくれるとも思えなかったが、賽銭を入れたことは事実であるので、彼は最大限抽象的な「今年は、どうにか何事もなく過ごせますように」と去年と今年でバランスを取ることを頼んだ。

 パンパン、と投げなりな拍手が捌けようとした彼に聞こえる。彼女が叩いたものだ。行事に従事する彼女が見たかったが、いつの間にか、無表情で彼の横に立っていた。

「次は、おみくじです」

 何故か意気込んだ声で、風見が言った。占いが好きな年頃かもしれない。

 二人に引きずられ、彼と彼女は何かの即売会のようにごった返しているおみくじ売り場へ向かう。巫女が笑顔を崩さずにせせこましく狭い売り場で動いていた。

「やる気、ある?」

「ない」

「だよね」

 聞くまでもない質問と、返すまでもない答えを簡単にして、それでも彼女達に合わせるために、彼は二人分のお金を払った。おみくじの書かれた紙を箱の中から取り出す仕組みで、まさに知識として知っているおみくじだった。

 周りを見ると、割りとその結果に一喜一憂しているようだった。先に引いた彼女達は、どちらも大吉だったらしく、無邪気に喜んでいる。きっと、幸せなのだろう。

 彼は、自分が引いた分を開く。

 小吉、と頭に書かれて、それから各分野別の占いのような言葉が小さく書かれている。初めておみくじを引いたのだから、その『小吉』と呼ばれる微妙な名前がどの位置にランクしているのか皆目見当がつかなかった。ただ、性格に『素直に生きよ』と書かれているのを見て、内心笑っていた。

 引いたはいいが一向に開こうとしない若菜のおみくじを取って、彼が代わりに開く。『大吉』と書かれた紙に、少しだけムカっとした。ああ、つまり、おみくじとは人の正月の気分を勝手に左右する程度の力はあるらしいことを彼は実感していた。

「失せもの、見つからず、だって」

「そうか」

「あれを、見つけたい?」

「全く」

「だろうね」

 少し意地悪が過ぎた質問だったかも、と彼は反省をした。だが謝る必要がないと言われるのがわかっているので彼は謝らなかった。その点では、おみくじ通り、素直に生きた。

 彼女達は、互いにお守りを買っているようだった。彼も風見に勧められたが、さすがにそこまで買っても家に帰って捨てるだけなので丁重に断った。

 そして、社務所と呼ばれている場所が開放されていると聞き、彼らは休憩も兼ねて立ち寄ってみた。そこでは、甘酒の無料奉仕が行われていたが、アルコール類が一切苦手な彼は受け取らなかった。何も答えなかった彼女は、ほぼ押し付けのように係りのおばちゃんに甘酒の紙コップを渡されてしまった。そのままゴミ箱へ投げ込みそうな気がしたので、彼はそのコップをもらい一気に飲み干した。風見は甘いものが苦手のようで、軽く断り、美咲はきちんとお礼を言って受け取った。

 空いていた中のベンチに腰を下ろし、少しの間彼らは談笑をした。といっても、若菜は相づちも打たないし、彼もアルコールのせいか疲れか眠気があり、風見と美咲が彼と彼女の方を向きながら、二人で会話をしていたようなものだった。

 十数分そうしているうちに、昼に向かって若干参拝客が盛り返してきたようで、社務所の中は一杯になり始めていた。

 それを機に、彼らは別れることにした。

 彼が聞いてみると、彼女達は、これから神楽の家で身内だけで新年の行事があるらしく、思ったほど時間がないことがわかった。彼らのために、時間を割いてくれたのだとわかると、彼はお礼を言った。素直かどうか判断はつかない。

 鳥居のところで四人は半分になった。神楽の家は神社を超えた先の森の中にあるらしい。敷地としてはこの神社も含まれているらしいが、詳しい事情は彼にはわからない。

 風見と美咲が見えなくなるまでぼんやりと空を眺めて、彼と彼女は駅側へ歩き出した。

 確実に、駅へ向かうコースだ。

 彼は、表情の変わらない彼女に、わかりきった質問をする。

「ところで、賽銭で何を頼んだの?」

「何も」

 彼女が即答をする。

「やっぱり」

 予想通りのため、彼も当たり前の返しをした。

「さて、お昼ご飯はどうする?」

「任せる」

 彼女の答えがこれしかないことを彼は十分承知している。それでも彼が聞くのは、人に聞いている間に物事を考えているからである。彼は人込みの中、彼女の手を取ろうとしたが、前に彼の知り合いがいたのでポケットに戻す。できる限り目立つ行為は避ける。それが普段の彼の最も重要なテーマであり、それだけが彼を生き延びさせている唯一の思考なのである。

 大通りを抜けて駅前へと向かう。それに従って人も少なくなっていく。

 そして、いつものように飴を取り出して彼女に渡す。彼女もやはりお礼を言わず飴を受け取った。

 雪は既に降るのを止めていた。太陽が直に全てを溶かしてしまうだろう。彼女のブーツが雪を踏みしめるたびに、小気味の良い音を立てた。彼は彼女の真横に立って歩き、彼女の頭に少しだけ乗った粉雪を素手で払った。彼女は、不意の行動に驚いた様子も見せずに、ペースを変えず歩いていく。

 彼が両手をポケットに入れて、満足気な表情で言う。

「それじゃ、ソバを食べよう」

「ああ」

 彼は彼女の顔を観察したが、嬉しそうには見えなかった。昨日の会話から、ここまで予見していた可能性もある。とりあえず、構わない、と言わなかったのが、実は彼女にとっては相当肯定的だということを、彼は知っている。

「それから、今年もよろしく、若菜」

「去年によろしくした記憶はない」

「決まり文句、だよ」

 同じやり取りを朝もしていた気がしたが、彼は気にしなかった。

 いくつかあるソバ屋は、前日の忙しさと対比して、軒並み休業だった。駅前のデパートは元旦から営業していたので、彼らはソバを買うためそちらに方向を変えた。彼はどうせだから夕食の食料も買うつもりだ。このままだと、あと一泊くらいはしていくかもしれない。彼の家は数駅先だから、着替えを取りに行こうかどうか、悩んでいた。最悪、下着だけを買って、彼女のシャツで代用するという手もある。

 デパートの入り口が見えたとき、思いついたように、彼が彼女の方を向いた。無反応のまま、彼の出方を窺っていそうに、もちろん彼の主観の話しであり、何も考えていないだろうが、彼を見ている彼女に彼が言う。

「今年はよろしく、若菜」

 彼女は、半拍置いて、彼にだけ聞こえるくらいの小声で返す。白い吐息が、彼女の前で小さく対流して消えた。

「ああ、機会があればよろしく」

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