欠陥だらけの多面体と永久なる人形姫 

吉野茉莉

第1話 クリスマス

「お疲れ様でした」

 少女がお辞儀をする。冬にもかかわらず少し日に焼けた肌が健康的だ。髪の毛は頭の丸さを強調するように頬に張り付いている。丸い瞳は目の前に無言で座っている男に向けられていた。

「失礼しましたー」

 その少女の横にいた、彼女よりも背の高い少女がふわふわとした声で続ける。細い絹糸のような髪は、腰まである重さも感じないほど軽やかだ。少し目尻が下がっているのが、余計にその風貌の柔らかさを強調していた。

 コートを着込んだ二人がドアの側に立っている。

「はい、お疲れ様。気をつけてね。良いお年を」

 少年はキーボードを叩きながら応えた。顔を振り向くのが惜しい、といった感じだ。

「はい、賀茂先輩も、会長も、良いお年を」

 最初の少女が笑顔で言い、そしてドアを閉めた。

 それからしばらくの間、キーボードを叩く音だけがカチカチと響く。

 少年は実は酷く疲れていた。疲れていても仕事は山積みのようにあるし、これを越えない限り明日も学校に通うことになる。

 細長い糸のような目を画面に反射させながら、最近出た液晶画面というのはどうなんだろう、作業効率が上がるのか、スペースの確保だけか、でも今は高いなと、思考の片隅で作業効率を下げつつ考えていた。

 とある地方都市の高校の生徒会執行部の部室に彼はいた。秋に行われた文化祭の後始末と、各部予算の中間執行状況を入力していた。

 あと一人くらい手伝いがいてくれたら、と思わないでもなかったが、今しがた別れの挨拶をした二人を呼びとめるのも気が引けたし、クラスメイトであり同じ執行部の二人の男女に至っては種々の理由からあえて今日は何もせず帰ってもらった。目論見通りだと愉快なのだが、と彼は思う。

 そして、ふいに、視線の奥にいる人間の姿が目に入る。

「ところで、若菜(わかな)」

 若菜、と呼ばれた少女は、一番奥の、他の人よりも大きめの机の前にある椅子に座り、何もせずに黙っている。

「何だ、タケト」

「何しているの?」

 見る限り、彼女が何か作業をしているふうには見えない。緩いウェーブがかかった短い焦げ茶の髪が、揺れている。瞳も同じく焦げ茶であり、色素が元々薄いようだ。

「思考」

 それだけ答えて、若菜は黙りこくった。

「半分、手伝ってくれないかなあ」

「断る」

「……そうですか」

 タケトは、落胆の声を隠さずに、ブラウン管に戻った。

 カチカチと作業の音が一定のリズムで続いていく。

「ところで、思考の邪魔をして構わないかな」

「許可する」

 若菜が即答する。まだ二人は目を合わせていない。会話のポテンシャルを上げるための方法で、話を聞いていないからではない。

「あの二人、付き合っているの?」

 彼は、何となく疑問に思っていることを述べてみた。

 あの二人、とはもちろん今までいた少女達のことである。

 先の少女が、風見唯(かざみゆい)と言い、あとに続いた少女を神楽美咲(かぐらみさき)と言う。どちらも、この生徒会のメンバーであり、若菜とタケトの一つ後輩の一年生でもある。

「交際の定義を教えてくれ」

「うーん、両者の合意、じゃないかな」

「その点では、否だろう」

「ふーん」

 納得したのかしてないのか、適当な声でタケトが返した。

「今の質問の意味は」

「特にない。特にない、っていうのは人生できっと大事なことの一つだ」

 実際、タケトは二人がどういった関係であるのか、根本的な面ではどうでも良かった。

「あの二人、一緒に住んでいるんだよね?」

「珍しく他人に干渉するな。どちらの意見だ」

「少なくとも、タケトではない」

 表情を変えずに、口だけを動かして彼が答える。

「そうか。その質問は、正だ」

「どっちの家に?」

「神楽だ」

「風見君は?」

「両親は事故だそうだ」

「そう」

 やはり投げやりに彼が返した。

「可哀想か」

「いいや、誰かの感情は本人が決めるものだ」

「当然だな」

「タケヒトなら、同情か、共感。タケトなら、無反応」

「わかりやすい」

 簡潔な会話を両者が繰り返す。

 それから二人は無言になった。二人に会話の終了宣言など必要ない。何も言わなくなれば終わりであり、続けば続くのである。

 彼が壁にかけてある時計を見た。

 午後六時。

 何気なく若菜を見たが、やはり何もしていない。時々瞬きをしているくらいだ。

 視線の連続の間に、彼はカレンダーを見た。

「また、思考の邪魔をしていいかな」

「許可する」

「今日が、何日か知っている?」

「十二月二十四日」

「世間のイベント名は?」

「クリスマス・イヴ」

「正解」

 画面に戻り、静かに作業を再開する。

 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、毎年二十四日が、二学期の終業式となっている。そのため、今日は午前で大体の生徒は下校している。

「予定はないの、若菜?」

 彼女は外見も充分人目を引くのだが、それ以上に持っている雰囲気が独特で人を惹きつける素質を持っている。その影響もあって彼女は生徒会の執行部長などという役職についているのである。

 男子生徒のみならず、女子生徒からデートの誘いがあったとしても驚くことではない。

「プレゼントをくれるものはいない」

「あ、そう」

 が、逆にそのカリスマ性からか、声をかける勇気があるものは少ないのである。

「タケヒトは、ないのか」

「あったらこんなところで作業していないよ」

「いくつか誘われたという話を聞くが」

その安穏としてのらりくらりとしている性格が、人当たりが良いように思われるらしい。

「タケトが断った」

 しかし彼には事情があって、誰かと楽しくお喋りをするだとか、ましてや誰かと付き合おうだなどという感情は、欠片も持ち合わせていない。そしてそのことを知っているのは、ここにいる若菜だけだ。

「さて、と。今年の締めはこの程度で終了、と」

 彼が打ち込みの完成したデータをハードに保存し、それから提出用のフロッピーにコピーする。

 つつがなく、終了の手続きを踏んでいく。

 画面がブラックアウトすると同時に電源が切れる。

 彼が使い終わった書類を壁際の自分の棚にしまった。

 彼女は微動だにしていなかった。

 自分の席に戻った彼は、鞄に机の上に残った荷物を入れ始める。

「僕は、帰るよ」

「そうか」

 目を合わせず、若菜が返す。

 彼が、ハンガーに掛けられていた自分の黒いコートを羽織る。

「ところで」

「何だ」

「家に帰るのもあれだから、何か食べていこうかと思っているんだけど」

「そうか」

「さすがに、今日一人で行くのはどうかと思う」

「どちらの意見だ」

「タケヒトなら精神的に、タケトなら物理的に、どちらも肩身が狭い」

「それで」

「一緒に、どこかに食べに行かない?」

 デート、とも取れる発言を彼がする。もし、他の生徒が見ていたら、嘆くものがほとんどだろう。しかし実際には、彼にはそんな気分はない。外で食べるのは、ただ、家に帰っても食べるものがないからで、目の前にいて問題ないと思うのが彼女だからである。

「奢りか」

「それはないな」

 彼女の言葉を、一瞬で彼が否定する。

「ふむ、まあ良いだろう」

「じゃ、行きましょうか」

 コートを着込んだ彼が彼女に促す。彼女も紺の地味なダッフルをハンガーから取る。

 それから彼女が教室を出たのを確認して、彼が鍵を閉める。何を言うでもなく、彼らは玄関へと向かう。身長は数センチほど彼の方が高い。彼は平均的な身長だから、彼女は若干平均よりは高めということになるだろう。

「何が食べたい?」

「任せる」

「焼き肉、とか?」

「構わない」

 下駄箱からそれぞれの靴を取り出す。

「ちなみに、そのあとは?」

「帰る」

「家は、誰もいないよ」

「考えておく」

 冗談なのか本気なのか、わからない会話を二人がする。今の会話を聞いていれば卒倒してしまう生徒がいるに違いない。二人の関係は、何というか、相当適当な関係なのだ。付き合っているのか、という問題を、先ほどの定義でするなら、もちろん否だろうが、普通の恋人ではすることのない経験を、どちらの希望でもなく、何度かしているのだ。

 玄関を出ると、太陽は既に落ちて薄暗い校庭が広がる。生徒の希望か、さすがに今日はどこの運動部も練習していないようだった。

 玄関と校門の最短距離を足で結ぶ。

「あ」

 彼が空を見上げた。思わず手を前に差し出してしまう。

 疎らに、ゆっくりと、小さな雪が舞っていた。

 ホワイトクリスマスである。

 彼女はそれに気にも留めず、一人で先に歩いてしまっていた。駆け足で、彼が彼女に追いつき、また横に並ぶ。

 少し嬉しそうな顔で、彼が言う。

「そうそう、こういうときには何て言うか知っている?」

「メリークリスマス」

 間髪を入れずに、彼女が答えた。

「そう、メリークリスマスだ」

「下らない」

 そう言いながら、彼には、彼女が微笑んだように見えた。もちろん、そう見えたのは彼の勝手な認識であり、多分微笑んでなどいない。

 彼はポケットに手を入れて飴を取り出す。差し出された飴を彼女はお礼も言わずに受け取って包装を破り口に運んだ。それを見てから彼も自分の飴を舐める。

「下らないのも、たまにはいいものだよ」

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