第3話 恋人
「採用されたの、
品川香織はそう言って手もとのキャラメルマキアートをひとくちすすった。
使い捨ての容器に添えられた彼女の指は、まるでピアニストのそれのように、見惚れるほど白く細い。その薬指にはクロスをモチーフにしたホワイトゴールドの指環が光っている。
コーヒー・ショップには若者たちがひしめき、ほとんど満席だ。あちこちで談笑の声が響くなかでも、香織の高く澄んだ声はよく通った。
言葉以上にうれしいはずだ。香織は盲学校で働くために、すでに採用が決まっていた普通校の内定を蹴り、大学卒業後も一年近くアルバイトをしながら盲学校の求人を探しつづけてきたのだから。
「ひと足早く社会に出て待ってるからね、後輩。せいぜい、わたしの背中を追いかけたまえよ」
忍足は気のない返事をするほかなかった。彼女の喜びを損ねないよう、精一杯、気を配りながら。
品川香織は――忍足が通う大学の先輩に当たり、在学中は空手道部のマネージャーを務めていた女性である。肌が白く、その肩や腕は心配になるほど薄く華奢で、空手の修練の場にはおよそ似つかわしくない可憐な風貌だった。物腰もおっとりとして慎ましく、人の心を和ませ癒すその笑顔は、彼女が生まれ持ったひとつの才能だとさえ思えた。
一方で、マネージャーとしての仕事は迅速にして的確、部員の考えを先読みするかのように、休憩のタイミングにはすかさず冷たいレモンジュースが振舞われ、救急箱も常に補充が行き届いていたりする。優美な立ち居振る舞いに似合わぬその手早い仕事ぶりは、まるで周囲の時間の感覚を狂わせる、手品のようだった。
或る日のこと、陽もすでに落ち人影もまばらな学生通りを、忍足は走っていた。部室に定期を忘れたことに、駅に着いてから気づいたのである。数百円の電車賃でも、ひとり暮らしの学生であるかれにとっては、無駄にできない金額だ。
自身の不手際を自嘲しながら、駆け足で部室に辿り着く。
そしてノブを握ったとき――なにか違和感を覚え、手が止まった。
鍵が開いていた。
先輩たちが、閉め忘れたのだろうか。
しかし、ガラス窓のむこうに人影がちらついているのが視える。
不審な物音が、わずかにドアの隙間から洩れていた。
そういえば、大学内で置き引き事件が続発していると注意を促すビラが掲示板に貼られていたっけ。
よりによって空手道部の部室を漁るとはいい度胸だ――忍足は口を尖らせた。相手がどんな大男であれ、かれには素手で倒す絶対の自信があった。
物盗りに気づかれないよう、忍足は静かにドアを開ける――薄暗い部屋が、少しずつ露わになる。
その瞬間、かれは言葉を失った。
大男の姿なんて、ありはしなかった。部屋に残っていたのは、マネージャーの品川香織ただひとりだった。
彼女はその白く細い指で汚れた雑巾を絞り、部室の床を無心に磨いていた。埃まみれの床に膝をつき、まるで試合に臨む選手のような真剣なまなざしで。
声をかけることもできず、忍足はドアの前で茫然と立ち尽くした。日々の練習のなかで疲れきった頭では、考えたことさえなかった。なぜ部室や練習場が常に清潔に保たれているのか――たしかに忍足を含む一年の部員が掃除をするにはしていたが、みんな粗暴な荒くれ者ばかりである。細かなところまで、手が行き届くはずがない。
忍足は全国大会でも上位に入る豪傑で、大学でも名の通った存在だった。じっさい、運動部に所属し、しかも優れた成績を残す学生というのは、それだけで免罪符を得たも同然だ。傍若無人な振る舞いも許されるし、ときには足りない単位さえどうにかなる。教授の対応も、ほかの生徒よりも、断然丁重だ。
忍足がいままで格闘技を続けてきたのは、ほかでもない、他人に認められたいという承認欲求ゆえであった。かれは周囲から粗野に見られがちだが、じつは心に非常な脆さを抱えている。じぶんに自信がないからこそ、他人に一目置かれなければ、居場所を作れない。空手の達人だという威風を纏わなければ、他人と関係を築けない。他人に侮辱されないために、軽蔑されないために、ただ強くあるほかなかったのだ。
そんな忍足にとって、だれの目にも触れず、報われることもない、部室の掃除に励む香織の姿は、まったくじぶんとは異質なものに思えた。
彼女は――香織は、おそらく、じぶんのことを無条件で好きなのだろう。じぶんでじぶんを認めているからこそ、忍足のように他人からの賞賛をことさらに求めていない。だからこそじぶんのためでなく、他人のために、なんの得もないのに働けるのだろう。
香織はたしかにとても美人だった――しかしそれだけなら、これほど心を奪われることはなかっただろう。美しいだけの女、華やかなだけの女なら、忍足が通う大学には掃いて捨てるほどいた。
だけど香織ほど献身的な女性は――豊富とはいいがたいにせよ、かれの人生経験のなかで、ほかにひとりたりと、出会ったことは一度もなかった。
「忍足くん、まだ帰ってなかったの?」
忍足が見惚れる当の本人は、さえずるような声で忍足に声をかけた。
忍足は、名まえを呼ばれたことを意外に思った。入部して間もないじぶんの名を、憶えられているとは思っていなかったのだ。
「忘れ物? よかった、夜の学校、怖かったんだよね。忍足くんがいてくれたら、安心ね」
そんなおどけた物言いにも、忍足はただ子どものように頷くほかなかった。感謝を伝えたくとも、礼もいえないじぶんが情けなくもどかしかった。香織は気にするようすもなく、ただ笑っていた。意識していないのだろうが、彼女は無愛想で他人から敬遠されがちな忍足にも一足飛びで心の距離を詰めてくる、天性の明るさ、朗らかさを備えていた。
忍足が想いを打ち明け、ふたりが交際に至るまで、それからそう長くはかからなかった。
上品とはいいがたい音を立てながら、冷めてきたラテをすする。じぶんには、こんなコーヒー・ショップもこんな飲みものも不似合いなんだがな――と自嘲しながら。
香織と付き合うようになるまで、若者が集まるおしゃれな店なんてものは、忍足には無縁の場所だった。汗の臭いしかしない殺伐とした道場やジムだけが、かれの生きる世界のすべてだった。不似合いな場所、不釣り合いな恋人――居心地はたしかに悪かった。でも、その居心地の悪ささえもが、幸せだった。
「あまり、喜んでくれてないみたい、ね? あたしの内定、さ」
彼女の笑顔が一瞬曇ったようにみえた。慌てて忍足は弁解する。どうも、思っているよりも、じぶんは感情が顔に出てしまう
たしかに、そうだ。
忍足にとって、香織の内定は、けっして喜ばしいことではなかった。香織は忍足より二歳年上で、可憐な容貌に似合わないしっかり者だ。忍足さえ驚かされるほどの芯の強さも持ち合わせている。だけどそれでも、その細く白い指、硝子のように華奢な肩に目をやれば、締めつけられそうなほど心が痛む。できれば、不要な苦労をしてほしくはなかった。香織が夢見続けてきた盲学校の教師が――忍足にとってはまったく未知の世界だったが――普通学校より、ずっと苦労の絶えない職場であることだけは、想像するに難くなかったから。
「あたしのお母さん、目が不自由でさ」
香織は飲み終えたカップとストローを弄ぶ。指環の輝きが、優美に揺らめいた。
「子どものころは、そんなお母さんが嫌だった。なんでじぶんのお母さんはよそのお母さんとはちがうんだろう、って思ってた。どこにも連れて行ってくれないのもさみしかったし、白い杖をついて歩くお母さんの姿も、なんだか恥ずかしかった。あたしが七歳のときだったかな。お母さん、強盗に襲われたの。知ってる? 視覚障害者って犯人の人相もわからないし、抵抗もできない。だから、狙われやすいのよ。バッグをよこせって、犯人はいった。お母さんは抵抗したわ。痩せっぽちで目も視えないお母さんに、敵いっこないのに。けっきょく、刃物に刺されて、病院行き。バッグも奪われて――数時間後に、病院で息を引き取ったの」
胸の痛む、陰惨な話だった。忍足には、なにもいえなかった。香織はかまわず、さらに続ける。
「強盗に盗られた額ってのも、たいした金額じゃなかったのよ。二万円か、三万円か、そこいらで。馬鹿よね、お母さん……それぐらいのお金、あげてしまえばよかったのに。……でもね、お母さん、あたし名義の口座を作って、毎月少しずつ稼いだお金を振り込んでくれていたらしくて……そのとき守ろうとしたお金も、その口座に振り込むためのお金だったらしくて。あたしが高校三年のとき、教師になるために大学に行きたい、っていったとき、お父さんがそう教えてくれてね」
香織は顔を上げてまっすぐに忍足の目を見た。その美しさに息を呑み、忍足は視線を逸らす。
「お母さんが遺してくれたお金を入学金にして、あたしは大学に行くことになった。無駄にはできないし、目標もないまま通えない。あたしが進んだのは社会福祉学部。もちろん教職課程も履修した。べつに、お母さんへの恩返しのために盲学校の教師になろうだとか、そういうわけじゃないのよ。死んだ人にできることなんて、なにもないもの。ただ、学校の教師になろうと思ったときに――じぶんがなるなら、盲学校の教師しかないな、ってそう思ったの。自慢のお母さんに胸を張れるような、自慢の娘になりたいなって、そう思ったのよ」
香織は眼を細めてにこりと笑った。忍足は、もうなにも口を挟めなかった。
それはだれの干渉も許されるはずのない、やさしい決意に裏打ちされた笑顔で――、
そして、忍足が目にした、彼女の最後の笑顔だった。
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