第33話.5-7
空中に浮いた。足は地面を離れた。下に落ちる感覚もあった。
後は遥か下方で打ち付けられ、死ぬ。
そのつもりだった。
しかし、まだ死んでいない。
どうしてだろう。
疑問に思ってヒロは目を開けた。目の前には、学園祭のテーマが記された垂れ幕。そして気付く。誰かが腕を掴んでいる。死なせないと誰かが言っている。
声は上から。
見上げると、左手で欄干を掴み、右手でヒロの片腕を掴むケイの姿があった。しかしその顔は苦悶。いつ力尽きてもおかしくない様子だった。
「ケイ、なんで……なんで?」
「なんでもクソもあるか、馬鹿!」
ケイは怒鳴る。
「自分は言いたいことだけ言ってさよならかよ! 俺の気持ちは無視か! ならもう俺も言いたいことを言ってやる! やけくそだ、コラ!」
不思議そうに見返すヒロに、ケイはずっと抑えつけていた言葉を吐き出した。
「はっきり言ってやる! お前の母親は馬鹿だ!」
「なっ!」
「怒ったか? ああ、お前は怒るだろうな。でも事実だ。夫を殺して、娘ひとり残して自殺した。これが親のすることか。とても偉いとは言えねえよ!」
「ケイ、あんた……」
「でも、お前のことを愛してた」
怒りに歪んだヒロの表情が、愛という言葉を以て解かれていく。
「きっとお前の母さんは誰よりもお前が大切で、誰よりもお前に愛情を注いでた。そうだろ、ヒロ。俺はそれを尊敬するし、凄いなって思う」
「……じゃあ手を放してよ。死なせてよ、ケイ」
「駄目だ!」
ケイは大きく息を吸い込むと、思いっきり叫んだ。
「どうせ会いに行くのなら、楽しい思い出を聞かせてやれよ!」
「……」
「友達がたくさんいたよって、たくさん遊んだよって、受験頑張ったよって、志望した会社に入れたよって、結婚できたよって、子供も出来たよって、幸せだったよって、そんな明るくて楽しい思い出を聞かせてやれよ!」
「ケイ……」
「いいか、ヒロ! お前の母さんは、謝ってほしいなんて思ってねえよ!」
「――ッ」
瞬間、ヒロは心の何かが砕け散るのを感じた。
まるでガラス細工のように繊細なそれ。
ずっと大切に守ってきたそれ。
それが今、粉々に砕け散ったのだ。
でもそれは、きっと壊れてしまっても良い物だった気がする。
そしてそれを実感したとき、ヒロの瞳から涙が溢れ、口からは弱々しい声が洩れだしてきた。
「いいのかな、ケイ……。私、自殺しなくてもいいのかな?」
ずっと心に仕舞い込んでいた声。
誰に言って良いのかわからず、遂には自分の胸の奥に仕舞い込んでいた本音。
それにケイは優しく答える。
「いいに決まってんだろ」
「でもね、謝りたいよ。お母さんにごめんなさいって言いたいよ……」
「ああ、言えよ。天寿全うして母さんとあの世で再会したら、幸せな人生だったよって伝えた後、ついでみてえに言ってやれ」
「ほんとうに、ほんとうにそんなことでいいのかな?」
「いいよ」
「でも、キイチとスミレは……」
「怨んでる奴と笑い合えるほど、あいつらは器用じゃねえよ。そんなこと、お前も本当は気付いてんだろ」
たぶん、ヒロの告白をすべて聞き終わる前から気付いていた。
ヒロは、本当は死にたくないのだと。
それだけ彼女はわかりやすい。
もしも本当に死にたかったのなら、あんな映画を撮影する必要はない。もっと他の手段を用いてミカを友達として巻き込めば良かったのだ。
なのに映画を撮影したのは、そこに制作者――ヒロの意図が潜ませてあったからだ。
映画と現実。
その二つを照らし合わせると、いろいろと見えてくる。
映画の藤崎ケイは大切な人を失い、事件の真相を知り、犯人を殺すと決めた。
現実の芳野ヒロは母と離れ離れとなり、母の自殺を知り、この世に絶望した。
映画の藤崎ケイは芳野ヒロが望まないであろう殺人をしようとしていたが、結局、それは間違いだと気付いた。だからこそ最後に復讐を遂げたにも関わらず、後悔の慟哭を響かせたのだ。
では、現実のヒロの母親は娘の自殺を望んでいたのだろうか。そしてヒロ自身は自殺が正しいと思っていたのだろうか。
答えは、ヒロの不可解な行動が教えてくれている。
どうしてヒロは、死ぬことになるかもしれないなどと伝えてきたのか。
どうしてヒロは、あの雑誌を渡してきたのか。
どうしてヒロは、映画に仲間内でしかわからないような要素を組み込んだのか。
どうしてヒロは、この屋上に来るよう呼んだのか。
それらの要素を繋ぎ合わせていくと、ひとつの結論へと至る。それこそ星々を線で繋げて現れる星座のように。
ヒロは仲間に気付いてほしかったのだ。
気付いて、止めてほしかったのだ。
だから。
ケイはふっと笑みを零した。
「なあ、ヒロ。初めて出会ったとき、お前は未来が見えるって言ったよな。そして次にお前がなんて言ったか、覚えてるか?」
「……うん」
ヒロが申し訳なさそうに顔を伏せ、小さい声で答える。
――私達は恋人になるでしょう――
あの言葉は彼女の計画の一部なのか、それとも本心の言葉なのかはわからない。
しかし未熟な中学生男子にとって、あの言葉は強烈だったのだ。
言われて、自分はその気になっていたのだ。
彼女と恋人になりたい。なろう。
藤崎ケイは、芳野ヒロが好きになってしまったのだ。
誰かの計画のためじゃない。
藤崎ケイが自身の心のままに好きになったのだ。
だから。
「俺はお前を放さない。絶対に放さない」
それは自分に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
だけど、ヒロは微笑んでくれた。
それだけでケイは満足だった。
が。
ふと欄干を掴む左手が僅かに滑った。途端、ヒロに体が引っ張られる。もう保たない。このままでは落ちる。そのとき、下方から悲鳴。見ると、校庭に人が集まり始めていた。その数は十五と言ったところだろうか。
そしてそこに新たな人影が三つ。
キイチ、スミレ、ミカだった。
三人がこちらを見上げ、驚きの表情を浮かべる。
ケイは現状を顧みて、自力での窮地脱出は不可能と判断。叫んだ。
「もう落ちるぞ!」
その言葉に込められた意味は、もう落ちるまでに時間がない。何とかしろ、という無理難題なもの。
しかしミカはそれを正しく理解し、辺りを見回す。なにか利用できる物はないか。そしてそれを見つけると、居合わせた生徒達を伴い、校舎の方へと駆け出した。
垂れ幕。
一階の窓まで隠すほどに長いそれの端――地面に近い方を掴み、全員で一斉に力の限り引っ張ると、垂れ幕は半ばでびりびりと裂け、ゆらりと地面に落ちた。ミカは長い垂れ幕を幾重にも折り重ねると、それの端をその場に居合わせた全員に引っ張らせた。
急ごしらえだが、受け止める態勢は整った。
あとは祈るのみ。
時を同じくして、ずるり。
ケイの体がふたたび中空へと引っ張られる。
もう落ちる。さすがに限界だ。もう左手の握力が利かない。
ケイは落下地点を見下ろした。ずっと下方に見える地面。落ちればおそらく死ぬ。そう思った瞬間、左手が欄干を手放し、ケイの体はヒロの体に引っ張られて中空へと完全に投げ出された。
落下の最中、ケイはヒロを力強く抱き寄せ、強く瞼を閉じた。直後、二人の体が垂れ幕のクッションへと落下。同時に垂れ幕を掴んでいた全員が中央へと引っ張られた。
静寂が流れる。
続いてざわざわと声が洩れ出す。
どうなった。大丈夫だったのか。生きているのか。
そう思い、一同は垂れ幕の中央を覗き込んだ。
皆の視線が注がれる中、ケイはゆっくりと瞼を上げた。そしてぼんやりとした様子で周囲を見回す。
キイチがいる。スミレがいる。ミカがいる。見ず知らずの同校の生徒達がいる。
そこでようやくケイの意識がはっきりとした。
「ヒロは! ヒロはどうなった!」
思い出したように辺りを探す。しかしヒロの姿がない。
「いない?」
ケイは立ち上がろうとして、ずっしりとした感覚に気付く。見ると、誰かが体に抱き付いていた。ヒロが放さぬようにしっかりと抱き付いていたのだ。
「……ヒロ?」
ケイはヒロの顔を上げさせようとして、やめた。
震える彼女の肩。僅かに聞こえるしゃくり声。
ケイはヒロの頭を撫でる。大丈夫だと、もう心配ないと、そう言い聞かせるように。
服の胸の辺りが濡れている気がした。なぜ濡れているのかは、知らないことにする。
なんにせよ助かった。
そう呟くと、ケイは緊張した全身を脱力させ、大きな安堵の吐息を洩らす。
周囲で歓声が上がった。
どうやら無事だったことに対する歓声らしい。
見ず知らずの間柄だというのに、よくもまあそこまで喜べるものだ。
そう斜に構えたことを思いながら、同時にケイは思っていた。
見ず知らずでもここまで喜びを分かち合えるのならば、きっとクラスメイト達とも心から喜び合うことも出来るのだろう。
イベント事のたびに一喜一憂し、そして肩を組んで笑い合えるのだろう。
「そろそろ俺も、乗り越えないとな……」
ヒロが自分のトラウマを克服したように、そろそろ自分もあの小六のトラウマから脱する時が来たのかもしれない。
歓声の輪の中、ケイはひとりそんなことを考えていた。
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