第2話.1-1

 ケイは目を覚ますと、寝ぼけた頭を掻きながらベッドから起き上がり、カーテンと窓を開け放った。太陽が空に燦然と輝いている。しかし秋に入った頃から、太陽は暑さよりも温かさを感じさせるものになっていた。

「そろそろ冷えてきたなあ~」

 夏をTシャツとパンツで過ごしてきたケイだが、今や長袖を着用して寝なければならなくなっていた。窓を閉めて手早く制服に着替え、学生鞄を手に一階の洗面所へ。そこで顔を洗って歯を磨き、寝癖を整えて次はダイニングルームへ。ダイニングはすでにカーテンが開かれ、朝の日差しを受け入れている。その中、母が出来上がったばかりの朝食をテーブルの上へと運んでいた。どうやら朝食はハムエッグにフルーツサラダ、それにトーストのようだ。

「あ、ケイくんおはよう」

 息子の存在に気付いた母のミツコが、陽気に挨拶。

 ケイは挨拶を返すと、鞄を床に置いて席へ。そしてリモコンでテレビをつける。ニュースキャスターが渋面で事件を伝えていた。

 昨夜、会社からの帰宅途中、女性が背中を刺されて死亡したという。刺したのは無職の男性。理由は、彼女が振り向いてくれないから。どうやらその男性、数年前から女性のストーカーだったらしい。女性は警察に相談していたのだが、「実害が遭ってから来てくれ」や「見回りを強化する」などと言われただけで、結局はその「実害」によって死んでしまったということが問題として取り上げられていた。

「最近、物騒ねえ……。そう言えば、すこし前にも似たような事件があったのよ」

 ミツコは記憶を探りながら息子にその事件を話す。

 四年前、とある妻子持ちの男性が、とあるシングルマザーをストーキングしていたのだが、ある日、その女性が友人を伴って抗議にきたため、殺害。その後、何食わぬ顔で生活を送っていたのだが、とある事をきっかけに男性も殺害されてしまったという。

 ケイは「そんなことがあったのか……」と衝撃を受ける一方、心の何処かでは他人事として処理していた。そもそも見ず知らずの誰かが不幸に遭ったからと、心から同情できる人の方が希有だろう。そういう意味で、ケイは正常とも言えた。

 そんなところで、次の事件のニュースへと変わった。

 現場は、ケイの住む街周辺。内容はペットを攫って惨殺し、後日、その様子を撮った写真や映像を飼い主のもとへ送りつけるというものだった。

 実のところ、この手の事件はここ数年、たびたび起きていた。その目的も動機も不明とされているが、どうせまともな理由ではないことくらいは想像に容易い。

 ケイはチャンネルを変えた。朝っぱらから殺し云々などと聞きたくなかったからだ。

 そうして食事をしていると、一人の女性がリビングに入ってきた。

「ふあぁ……おはよー……」

「あらマユちゃん、おはよう」

 入ってきたのは、有名大学の学生にしてケイの実姉である藤崎マユだった。

 野暮ったい灰色スウェットに身を包んだ姿。それだけで、すでに女の魅力を蔑ろにしているのだが、この女の場合はそれだけに留まらない。安価で購入した黒縁の眼鏡には知的の欠片もなく、髪は寝ぐせでボサボサである。

 マユはキッチンで牛乳をグラスに注ぎ、ミツコの隣に座った。

「あ~眠いわ~……あ、ハムエッグのソース忘れた。ケイ、キッチンから取ってきて」

「……知ってたか? 俺、お前の召使いじゃねえんだよ」

「知った上で言ってんのよ、愚弟。いいから取ってきて」

「お前さあ、ちょっとは姉として威厳みたいなものを持てよ。じゃねえと……」

「はいマユちゃん、ソース」

 ミツコが取ってきたソースを渡す。

「ありがとう、お母さん」

「ちょっと母さん、こいつを甘やかすなって。じゃないとこいつ、ずっとこうだぞ」

 ケイは母を親として尊敬しているが、この甘さには溜息もつきたくなる。父が単身赴任で家に居ないだけに、子供達を人一倍大切にしたいだけなのかもしれないが、言うべき時は言ってほしいものだった。

「うん、決めた。私、将来はお母さんと結婚するわ」

「なに言ってんの、お前。我が姉ながら頭湧いてんじゃねえの?」

「まあまあマユちゃんったら」

「母さん、そこは照れるところじゃねえよ」

「っで、ケイくんは? ケイくんはお母さんと結婚してくれるの?」

「……もしかして、俺にも言えってこと?」

 幼稚園児ならまだしも、高校一年の身分でそれは冗談でも御免こうむる。

「どうして答えてくれないの? もしかしてケイくん、もう心に決めたがいるんじゃないでしょうね? いるのね! そうなのね! もう結婚まで考えてるのね!」

「いや、さすがにそこまでは……」

「そこまでは? じゃあなに? 結婚目前までは考えてるってこと?」

「いやいや、そこまでも考えてないと言うか……」

「じゃあどうしてお母さんと結婚するって言ってくれないの!」

「どうしても何も……」

「何処の馬の骨とも知れない小娘に、うちのケイくんは渡しませんからね!」

 まくし立てる母親をどう対処したものかと困り果て、何気なく時計を確認。なんと喜ばしいことに、ふだん家を出ている時間帯を指していた。

「時間だし、学校に行ってくる!」

 ケイは母の制止の声を振り切り、鞄を手に家を飛び出したのだった。


 家を飛び出してしばらく、ケイは走りを歩みに変え、のんびりと進んだ。

 住宅街を抜けると、車の行き交う大通りが姿を表す。歩道には最寄り駅を目指すサラリーマンから学生が流れを作っている。

 その流れに乗って歩道を進むこと一〇分、最寄りの駅に到着。そこから電車に乗って三駅。下車後、徒歩でふたたび一〇分、学校に到着。そのまま校舎に入って下駄箱へ。

 そんなところで。

「おはよー藤崎」

 背後の下駄箱。

 ケイと背中合わせの形で靴を履き替える女子生徒――杉島すぎしまアヤが言った。

 ケイと同じクラスで、風貌は天真爛漫という言葉を彷彿とさせるもので、いつも意味もなく笑っている。性格はその笑みと同じように明るい。

 その隣には、もう一人の女子生徒の姿があった。

 進学科の鹿島かしまスズ。話によると、杉島アヤとは幼少の頃からの友人らしい。見た目から控えめな性格が滲み出ている小柄な少女である。

「おはよう、鹿島さん」

 ケイが挨拶すると、彼女はぺこりと頭を下げた。その動作、人形のようである。

 基本的に友人を名で呼ぶケイだが、スズだけは姓で呼んでいた。どのような呼び方をしても、彼女は感情の変化を見せない。そのために無難な形に落ち着いたのだ。

「ちょっ――私に挨拶は? 藤崎、私を無視するな!」

 アヤが抗議を込めて声を荒げる。が。

「え、なに? ごめん、何も聞いてなかった」

「だからおはよーって挨拶したじゃん。返しなよ、礼儀としてさ!」

「ああ、そうだね。キイチならちゃんと返してくれるもんね」

「え、いや、別に浅見くんは関係ない――って、待ってよ!」

 ケイは教室に向かって歩き出し、アヤは慌てて追い掛け、スズは静かに続いた。

「いや、浅見くんは関係ないから! 私はほら、礼儀的な話をしてるのであって……」

 ああだこうだと言葉を紡ぐアン。

 そんな彼女と話すようになったのは、高校生活が始まって二ヶ月ほどしてからだった。唐突に彼女の方から話し掛けてきたのだ。「三木さんって、誰かと付き合ってたりするのかな? 例えばなんだけど、進学科の浅見くんと付き合ってたりとか」。ケイは「ないない」と否定。すると彼女は胸を撫で下ろしたのだ。その様子を不審に思い、後日、スミレにそれとなく確認してみると、彼女は「見ればわかるでしょ」と呆れていた。そこまで来てようやく、ケイはアンの真意を悟った。

 つまり俺はキイチとのパイプ役に抜擢されたんだな、と。

「ちょっと藤崎! 私の話を聞いてる? いやほんと、違うからね!」

「なんの事ですか? 僕はなにも言ってないですよ」

「いやいや、そのあからさまな言葉遣いされたら、余計に不安になるから」

 そんなところで、ケイは思い出したように言った。

「そう言えばアヤってさ、まだキイチに告白してないの?」

「なっ――」

 思いもよらぬ発言だったのか、アヤはぴたりと静止。ケイは立ち止まって彼女の顔の前で手を振る。意識の有無。どうやら駄目のようだ。仕方ない、放置しよう。そう結論づけた次の瞬間、アヤに胸倉を掴み上げられる。

「なんで! なんで私が浅見くんのこと好きだって知ってんの?」

「そりゃあ、お前を見てればわかるって」

「じゃ、じゃあ! 浅見くんも知ってたりするんじゃ……。どうなの藤崎! 浅見くんと仲が良いんだから、知ってるでしょ!」

「いや、あまりそういう話はしないから、本人に確認しないと……。それよりお前、さっきから大衆の面前で暴露してるぞ」

「え?」

 アヤはようやく周囲に目を向けた。集約する周囲の目。その視線に気付いた途端、瞬間湯沸かし器を連想させる湯気がアヤの頭から噴き上がるのを、ケイは想像で補完。彼女は一瞬で赤面し、一目散に走り出した。

 遠くへと消えていく少女。

 アヤがいなくなったことにより、周囲の視線はケイへと移行したが、誤魔化すような苦笑いを浮かべると、興味が失せたように散らばっていった。

 早朝から何かと騒がしいことだと吐息を洩らし、さて教室に向かおうとしたとき、ケイは視界の端に入った黒い影にびくりと浮き上がった。黒い影の正体はスズだった。ずっと背後から付いてきていたのに、今しがたまで忘れていた。そうなってしまうほどに彼女の存在感は薄いのだ。

「びっくりしたあ……。鹿島さん、アヤを追い掛けなくていいの?」

「はい。どうせすぐにケロッと戻ってくるんで」

「さすがはよく知った仲。よくわかってるってことか。……じゃあ俺、こっちだから」

 軽い調子で別れを告げ、ケイはふたたび自分の教室を目指して歩き出した。

 その背後では、メイドさながらの礼儀正しさでスズが頭を下げていた。


 ケイは教室に入ると、席に腰を下ろして鞄を床に置く。

 鞄の中には教科書どころか筆記具すら入っていない。それら勉強道具は教室の後ろに並んだロッカーに詰めて放置している。それが良い事ではないと理解していても、持ち帰るのは面倒なのだ。実際、クラスメイトのほとんどが持ち帰らずにロッカーに放置。進学科ならばいざ知らず、普通科の勉強意欲などその程度なのだ。

 ちなみに進学科とは、一定の成績以上の志願者のみで編成されたクラスである。ケイの学年には一〇のクラスがあり、その内の二つが該当する。

 ふと、教室の後ろへと振り返る。

 一〇月の下旬から学園祭に向けての準備が始まり、十一月に入った頃から本格的になってきた。クラスの出し物と、クラブでの出し物。人によっては学園祭当日のために暗くなるまで作業を続けていた。

 そしてケイの教室にも、クラスメイトの努力の結晶が立て掛けられている。学園祭に使う看板。その数はまだまだ増える予定。と言うのも、ケイのクラスの出し物は屋台。市販の冷凍唐揚げを解凍し、それを串に刺して売り出すらしい。通称、唐揚げ串。

 果たしてそれが利益を生み出すのか。

 それはケイの知るところではなかった。

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