第五話 別れのかたち

 河内国王の到着後、ほどなくして張政ちょうせいを乗せた邪馬台の船が港に着いた。

 河内国王らと共に宮殿へ戻っていた月読つくよみは、謁見の間で異国の老人を出迎えた。


「今回の戦は、あなたの協力のおかげで勝てたようなものです」


 向き合って座る老人に、月読は少し緊張した面持ちで軽く頭を下げた。

 邪馬台の宮殿で、何度か挨拶を交わしたことはあったが、この男と腰を据えて対面するのは初めてだった。


「いえいえ。私は狗奴国の状況と、あの日の月の動きを伝えたまで。それをあそこまで組み上げたのは、男鹿おがの力です」


 張政は、想像以上に流暢なやまと言葉でそう言った。

 それは彼が、この国で過ごしてきた長い年月を物語っていた。


「……だから、あの者を連れて行かれるのですか。魏で戦力とするために」


 月読は上目遣いの厳しい表情で、老人の顔を見つめた。

 張政は一瞬言葉を呑み、あご髭を撫でながら大きなため息をついた。


「確かに、圧倒的に武力で劣る倭国が、殆ど味方に犠牲者を出す事無く呉に勝利した。しかもそれが、若干十八歳の青年策士の手によるものとなれば、魏でも話題になるでしょうな」


 やはり……と、月読は憮然とした表情でため息をついた。

 そんな皇子の顔を見つめ、張政は切な気な笑みを浮かべた。


「あの者と、大王とのことを憂いておいでかな」


 月読は言葉で返さず、眉をひそめて唇を噛み締めた。


「あの二人のように純粋に愛し合う姿を、私はこれまで見たことがありませぬ」


「それなら……!」


 二人の仲を認めるかのような思いがけない老人の言葉に、月読は思わず身を乗り出した。


「私は明日、朝廷を立ち上げるにあたって、あの者に太政官だいじょうかんの職を与えようと思っておりました。今回の戦であれだけの功績を残したのです。反対する者は誰もいないはずです」


 太政官とは、朝廷で設置される司法・行政・立法を司る最高国家機関だった。

 その職務の中には、王族の扶助も含まれていた。

 彼は男鹿をその職に就かせることで、せめて二人を近くで過ごせるようにしてやりたかったのだ。

 それが今の彼にとって考え得る最上の策だった。

 月読の想いを聞いて、張政は少し驚いたようにあご髭を撫でる手を止めた。

 そして、頬を紅潮させた皇子の顔を見つめて苦笑した。


「あなた様に、そこまで心を砕いていただくとは……」


 そうして老人は、目を閉じて再びあご髭を撫で始めた。

 つかみ所の無い老人の態度に、月読はいつになく戸惑いを覚えていた。


「しかし、私はあの者を、役人風情で終わらせるつもりはありませぬ」


 そう言って張政は、細く鋭い目を皇子に向けた。


「少し前であれば、あなたの言うように祖国のため、あの者の能力が欲しいと思ったでしょう。しかし、時すでに遅しです。私の見立てでは、今の魏の皇帝の代は、もう長くありませぬ」


 あまりのことに月読は大きく目を見開き、言葉を失った。


「今上皇帝は、わずか八歳で即位され、皇家である曹爽そうそうと、功績を立てることで権力を得てきた司馬懿しばいとが後見人となってお支えしてきました。しかし、ここ数年、司馬懿の血筋である司馬家が大権を握り、皇位さえ脅かすほどになっておりました」


 魏の中枢で繰り広げられている権力闘争については、以前牛利ぎゅうりから聞いたことがあった。

 今回倭国に呉が治める狗奴国を討つよう仕向けたのも、このいずれかの家の者ではないかと推測していたのだ。


「そして先日とうとう、曹爽が謀反の濡れ衣を着せられ誅滅ちゅうめつされました。その上、皇帝に忠義を誓っていた司馬懿が亡くなったことで、司馬家の王朝を乗っ取ろうという動きが、益々あからさまになってきたのです」


 異国の無情な現状に、月読は信じられないという表情で老人の話を聞いていた。

 血を重んじる倭国では、難升米なしめのように王族内で王位を奪おうとする者はあったとしても、王家に縁の無い者がそれを脅かすことは考えられなかったのだ。


「王朝が司馬家のものになれば、いずれ魏という国名さえ塗り替えられるでしょう。そうなれば、金印も黄幢こうどうも効力を失うのです。その前に倭国は、魏から独立できるほどの国力を持たなくてはなりませぬ」


「……魏が、無くなると……?」


 驚きのあまり言葉を詰まらせる月読に、張政は大きくうなずいて見せた。


「大陸では新しい時代が始まる時、過去の産物は焼き払われます。先人が残した貴重な資料や書物も例外ではありませぬ。そうなる前に、それらを男鹿あのものになるべく多く見せてやりたいのです。この国の発展のために。曹家に仕える私が自由に動ける今のうちに」


「……」


「そして皇帝の効力のある間に、私の目的を果たしたいのです。どうかあの者を、私の手に委ねていただけませぬか」


「……目的?」


 疑問を抱き凝視する月読を、張政は真剣な表情で見つめ返した。





 翌日、邪馬台国の女王である壹与いよから、月読へ王位が譲られる儀式が行われた。

 代々王家に伝わる宝剣と勾玉まがたま、そして魏から送られた金印と黄幢が、連合国の王達が見守る中、女王の手から新王に手渡された。

 儀式が終わると、黄金の冠をつけた月読は、広場を見おろす宮殿の回廊に立ち、宝剣を空に向かって高く掲げた。

 広場に集まった兵士や民衆は、その姿に興奮した様子で、一斉に歓声と拳を上げた。

 彼は即位に際して、大陸風の衣装を身に着けていた。

 神の子であることを表す純白の生地に、金糸の刺繍が施された長衣を羽織り、髪は美豆良みづらに結わず頭頂部でひとつにまとめた。

 それは、神を尊びながらも新しい時代が始まることを意識したものだった。

 そして、そんな彼の隣には、皇后となった言葉媛ことのはひめ月世つくよを胸に抱いて寄り添った。

 即位と同時に開かれた朝廷で、君主となった月読は、この日からみかどと呼ばれるようになった。

 倭国で初めて開かれた朝廷では、帝のもとに朝廷の祭祀を担当する神祇官しんぎかんと、国政を担う太政官というふたつの機関が置かれた。

 基本的に政治の仕組みは魏のそれを模したものだったが、神を重んじる国家として、魏にはなかった神祇官が設置されたのが特徴的だった。

 そして、大王の一族を君主とする支配体制を絶対とする反面、官に関しては血縁や勢力にとらわれない人材登用を進め、出自に関係なく、実力のある者には要職につける機会を与えた。

 神祇官の長官にあたる神祇伯じんぎはくには出雲国王の覇夜斗はやとが就任し、彼が治める出雲国は信仰の拠点と位置づけられた。

 これから国をあげての祭事は、まつりごととは切り離された機関である神祇官によって仕切られることになるのだ。

 一方の太政官の長官には、魏の朝廷をよく知る牛利が任命された。

 彼は今後、帝に代わって政の実務を行うのは勿論、太政官の下に設置された八つの省の統括を担うこととなった。

 朝廷が開かれることによって、邪馬台国は朝廷が管轄する国のひとつとなった。

 これにより、ひとまず大王の座は退いた壹与であったが、月読が筑紫島つくしのしまを立て直し、邪馬台の地へ遷都するまでは王を務めることになった。

 とはいえ三十以上の連合国の頂点に立つ大王であった頃に比べれば随分肩の荷が降り、彼女は安堵した。

 だがそんな彼女の隣に、共に邪馬台へ帰るはずだった男鹿の姿はなかった。





「あいつ、見送りにも来ないのかよ」


 壹与が邪馬台へ帰る日、狗奴国の港へ彼女を見送りに来たたけるは、そこに男鹿の姿が無いことに憤り、舌を鳴らした。


「いいのよ。この前、お別れはしたから」


 寂しそうに笑う壹与の手を取り、建は真剣な表情で彼女を見た。


「気が変わったら、いつでも私のところへ来い」


「……ありがとう」


 涙を浮かべながら微笑む壹与の顔を見て、建は思わず少女の体を抱き寄せた。


「……ごめん。今だけこうさせてくれ」


 壹与は一瞬驚いたが、涙を流して瞳を閉じた。

 建の腕に抱かれ、壹与は彼に惹かれている自分の気持ちに気が付いた。

 だがやはり、それは男鹿へのものほど深い感情ではないと改めて実感した。


「壹与様……そろそろ……」


 二人の背後から、遠慮勝ちに野猪のいが声をかけて来た。

 太政官の役人に任命された彼は、男鹿に代わって、壹与を護衛しながら邪馬台へ帰ることになっていたのだ。

 その声に建は壹与の体を引き離し、軽く鼻を掻いた。


「元気で」


「あなたも」


 ひととき見つめ合い、壹与は建に背を向けると船に向かって歩き始めた。





 野猪に連れられ、壹与が船のそばまで来ると、月読が彼女を待っていた。

 そこには覇夜斗や牛利、たちばななど、馴染みのある人々が顔を揃え、あたたかく少女を迎えた。


「なるべく早く都をうつす。心細いと思うが、それまで邪馬台を頼む」


 月読の言葉に壹与は小さく微笑んだ。


「隣国には、お父様もいてくださるから大丈夫よ」


 壹与は河内国王の顔を見上げ、今度は努めて明るく笑って見せた。

 その顔を見て、その場にいる者達は胸に切ない痛みを感じた。





 月読をはじめとする愛する仲間達と、多くの兵士らに見送られ、壹与を乗せた船は出港した。

 見送りに集まった人々は、士気を高めるため命懸けで戦地を訪れた元大王に敬意を表し、拳を振り上げてその名を繰り返し叫び続けた。

 その声が聞こえなくなるまで、壹与は船の縁から身を乗り出し、大きく手を振り続けた。

 やがて人々の姿が見えなくなり、ゆっくりと手を下ろした壹与は、少しずつ遠くなってゆく狗奴国の港を黙って見つめていた。

 彼女の隣には、父である河内国王がいた。

 父は傷ついた娘の心を気遣って、同じ船に乗って帰ることにしたのだ。

 だが、今にも泣き出しそうな横顔を見ていると、何も言葉をかけられずにいた。


「……おや……」


 小さく叫んだ父の声に気付き、壹与は父の顔を見上げた。


「見てごらん」


 父の指差す方向に目を向けた瞬間、壹与も思わず口元を覆って叫び声を上げた。

 左舷側に見える磯辺に見覚えのある人影があったのだ。


「男鹿……」


 荒波が打ち寄せる岩の上に、白い衣に身を包んだ青年の姿があった。

 遠くて顔はよく見えなかったが、彼が海風を受けながら、彼女らの船をまっすぐ見つめていることは見て取れた。

 彼女の視線がその姿を捉えると、彼はみぞおちに片手を添え、ゆっくりと頭を下げて深く礼をした。

 遠目にも腰からまっすぐ頭を下げた姿は、しなる弓のように美しかった。

 壹与はその姿を、まばたきする間さえ惜しむようにじっと見つめ続けた。

 だが、止めどなく溢れ出す涙で視界がかすみ、最後までその姿を鮮明に見ることができなかった。

 涙を流す娘の震える肩を、父はしっかりと抱いて支えた。

 そうして、彼女達の船が湾にせり出した岩場の影に隠れて見えなくなるまで、男鹿はずっとその姿勢を保ち続けていた。


「きっと彼は、今より大きな人間になって帰って来るよ」


 優しく言う父の胸に壹与は寄りかかり、大声を上げて泣き出した。

 戦地へ赴く時でさえ気丈に振る舞っていた娘が、子供のように泣きじゃくる姿を目にして、父の心は痛んだ。

 そしてその体を抱きしめ、こんな細く小さな体で、どれほどの重責と悲しみを背負ってきたのかと今更ながら哀れみ、また愛しく思った。

 そんな父と娘に吹き付ける海を渡る風は、春を予感させるように優しくあたたかかった。





 壹与を見送り、宮殿へ戻った男鹿は、帝である月読に謁見の間へ呼び出された。

 朝廷が開かれたことで審神者さにわの職はもちろん、大夫たいふの身分も失った彼は、上座に座る月読から遠く離れた戸口付近に座り、ひれ伏した。


「もう少しこっちへ来いよ。話しにくいではないか」


 月読は苦笑して手招きした。

 帝に言われて戸惑いながら少し距離を縮めた男鹿は、再び深く頭を下げた。


「明日、魏に向けて出発するらしいな」


「……はい」


 頭を下げたまま、男鹿は小さく答えた。

 そんな青年の様子をしばらく見つめていた月読は、静かに話を切り出した。


「壹与はお前が魏に行くと知って、無理を言わなかったか?」


 月読の言葉に思わず頭を上げた男鹿は、ゆっくりと首を横に振った。


「……いえ。何も……」


「そうか……」


 月読は口元を手で押さえて男鹿から視線を外すと、少し考え込むような表情を見せた。


「以前あの子は、自分を王家から追放して欲しいと言ったんだ。お前と同じ人生を歩めるように」


「……」


 それまで冷静さを保っていた男鹿の表情が、一気に憂いに沈んだ。

 哀し気に眉を寄せ、膝に置かれた拳は小さく震えた。

 月読は、表情を固めて肩を震わせる青年を見据えた。


「それを口に出さなかったということは、あの子はお前の将来の足かせになりたくなかったのだろう。そんなあの子の気持ちを無駄にしないよう、しっかり多くを学んで来てくれ」


 耐えかねた男鹿の目から、涙が溢れ出した。

 うなだれた彼の目元から涙はぽたぽたと落ち、床に無数の染みをつくった。


「……はい」


 男鹿は、やっとの思いでひと言、絞り出すように答えた。





 謁見の間を後にして回廊に出た男鹿の前に、今度は牛利が現れた。

 赤くなった目を牛利に見せないように視線を逸らすと、そこにはすらりとした女の姿があった。


「美しい……」


 思わず男鹿の口から出た言葉に、橘は顔を赤らめた。

 兵士のような短い衣から、女らしい裾の長い衣装に着替え、薄化粧をした橘は、別人かと見紛うほどに美しかった。


「親父をよろしくお願いします」


 いたずらっぽく笑いながら頭を下げる男鹿に、橘ははにかんだように小さく笑い、うなずいて見せた。


「女を泣かせるような奴を、息子に持った覚えはないわ」


 鼻息を荒げてそう言う牛利に、男鹿は「よく言う」と、聞こえないように小さくつぶやいた。


「近々、お前の実家のあった場所に、月読様がやしろを建ててくださる。私はいずれ邪馬台へ戻れば、そこで弥鈴みすずとお前の両親の魂を祀りながら暮らすつもりだ。お前の家だ。魏から戻ったら、いつでも帰って来い」


 牛利はそう言って、目を潤ませる男鹿の背を左手で強く叩いた。


「ああ、いたいた」


 その時、覇夜斗が男鹿の背後から近付いて来た。

 その後ろには爾岐にぎがいた。

 男鹿は振り返り、彼らに向き合うと頭を下げた。


「お前とはもっと、戦術について談議したかったがな。まあ、帰国した時の楽しみにするか」


 覇夜斗は腕組みして苦笑した。


「私も戦は好まぬが、あれこれ戦略を巡らせるのは好きだ。魏には優れた策士が残した兵法の書が数多くあるらしい。ぜひ可能な限り読破して、帰ったら聞かせてくれ」


「はい」


 笑顔で答える男鹿の首に、突然覇夜斗は腕を回して顔を寄せた。


「大陸の女にほだされず、早く帰って来いよ。この色男」


 笑いの渦に囲まれ、赤い顔をして苦笑いを浮かべる男鹿の顔を、謁見の間から出て来た月読が見つめていた。

 そんな彼の隣には張政が立っていた。


「不器用なほどに実直なだけなのに、なぜあの者はああやって人を惹き付けるのであろうな」


 半分あきれたような笑みを浮かべてそう言う月読に、張政はくすりと笑った。


「そういうところは、あなた様によく似ていますな」


「私に……?」


 意外そうに月読は目を丸くした。

 張政はあご髭を撫で下ろし、目を細めて男鹿に視線を移した。


「だからこそ、私はあの者を選んだのです」


 そして、だからこそ壹与は、この二人を愛したのだろうと張政は思った。


「……あの者をたのむ」


 青年に視線を向けたまま、真剣な表情でそう言う月読に、張政は大きくうなずいて見せた。






 牛利達と別れ、宮殿の庭を一人歩く男鹿を、建が呼び止めた。


「この前は、殴って悪かったな」


「いえ」


 身分を失い、自分に対して言葉遣いを変えた男鹿に、建は違和感を持った。


「帝から聞いた。なぜ壹与様あのかたに待ってて欲しいと言ってやらなかった」


 つい先ほど、月読から張政が男鹿を魏に連れて行く本当の目的を聞いた建は、居ても立ってもいられなくなり、彼の姿を探していたのだ。


「どうなるかもわからぬのに、無責任なことは言えませぬ」


 男鹿の言葉を聞いて、建は深いため息をついた。


「時には、希望を持たせてやるのも優しさだろう」


「……」


 思いもしなかった建の見解に、男鹿は言葉を失い考え込んだ。


「まあ、お前にそんな器用なことは無理か」


 真剣に思い悩む男鹿の顔を見て、建は苦笑した。


「皆、お前を応援している。必ず目的を果たして帰って来い」


 これまで見せたことのない、穏やかな笑みを浮かべてそう言う建に、男鹿も微笑んで頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ぐずぐずしていると、壹与様あのかたを誰かが妻にしてしまうぞ。まあ、だとすれば、おそらくそれは私だろうがな」


 突然、生暖かく激しい風が二人の間を通り抜けた。

 それを受けて宮廷の庭に植えられた木々が一斉にざわめいた。

 二人の男は同時に木の枝葉を見上げた。

 それは、春が近いことを彼らに知らせる風だった。

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