第四話 それぞれの未来
寒さが和らぎ始めた頃、倭国各国の船団が到着し、
新しくこの地で朝廷が開かれるのに伴い、執り行われる
彼女の隣には
少しずつ近付く港に目を凝らすと、大男とその隣に立つ細身の男の影が見えた。
顔はまだおぼろげにしか見えなかったが、壹与にはそれが
ぴんと張られた背を見て彼の無事を知り、壹与は安堵して瞳を潤ませた。
ふと橘の顔を見上げると、彼女の視線は大男に向けられ、その顔は色を失っていた。
「……腕が……」
橘の瞳は、頼りなく風に翻る男の右の袖を凝視し、つぶやく声は小刻みに震えていた。
「
港に降り立った壹与達を出迎えた男鹿は、みぞおちに手を当てて深く頭を下げた。
約一月振りに目にした愛しい少年の姿に、壹与はときめく心を抑え、努めて女王らしく振る舞った。
それから一行は男鹿に導かれ、宮殿に向かって歩き始めた。
前を歩く少年の背を見つめているだけで壹与の胸は高鳴り、生きて再び会えた喜びに打ち震えていた。
そんな女王の背後を
彼女の視線は相変わらず、男の無くなった右腕に注がれていた。
謁見の間に壹与達を送り届け、牛利が宮廷の庭を歩いていると、橘が正面に立ち塞がった。
一瞬驚いた表情を見せた牛利は、彼女の左腕に目をやると小さく微笑んだ。
「もう、腕の傷は癒えたようだな」
「……」
橘は黙ったまま、牛利の右腕のあるべき場所をしばらく見つめ、続いて彼の顔を見上げた。
牛利は大きなため息をつくと、腰の剣を左手だけを使って少し苦労しながら外した。
そしてそれをおもむろに橘の前に差し出すと、悲し気な表情を浮かべた。
それは、橘が彼に持たせた夫の形見だった。
「これは、お前に返す」
橘は返す言葉が見当たらず、無言でそれを受け取った。
「お前に預けた剣も処分してくれ。もう私には必要ない」
そう言うと、牛利は橘に背を向けて、庭の木のまだ固そうな新芽を見上げた。
「私のことも忘れてくれ。この腕ではもう、お前を守ってやることもできぬ」
絞り出すようにつぶやき、歩き始めた彼の背後で橘が荒げた声を上げた。
「馬鹿にするな。私はおぬしに守って欲しいなど、思ったことは一度もない」
思わず立ち止まった牛利の背中に、橘はなおも訴えかけた。
「ただ、おぬしと支え合って生きていきたいと思っているだけだ」
「……」
「
牛利が振り返ると、涙に濡れた橘の瞳がそこにあった。
「おぬしの右腕は、弥鈴殿が持って行かれたのではないのか。おぬしが二度と戦場にかり出されることがないように。これからは好きな書でも読んで、静かに暮らせるようにと」
橘の言葉と頬をこぼれ落ちる涙に、牛利は戸惑いの表情を見せた。
「……本当に……私でいいのか?」
「おぬししか……いらぬ」
橘の手から剣が地面に落ちた。
そして彼女は牛利の胸に飛び込み、背中に回した手で強く彼の衣を掴んだ。
牛利は胸で泣く女の体を、左腕と見えない右腕で強く抱きしめた。
謁見の間に通された壹与は、上座に導かれた。
彼女と並ぶ位置には月読の姿があった。
皇子と目と目で再会を喜び合い、壹与は腰を下ろすと、広い室内を見渡した。
そこには邪馬台国と共に戦った連合国の王達が、彼女に頭を下げて控えていた。
その多くは旅の途中立ち寄った国の王であったため、面識があった。
だが、一番下座にあたる場所には、彼女にとって見慣れない王の顔が並んでいた。
「奥は、
首を傾げる壹与に、月読が小声で伝えた。
狗奴国を呉から取り戻せたことで、筑紫島内の諸国も邪馬台国の配下についた。
彼らはそれらの国の王だったのだ。
新たな顔ぶれを前にして、壹与は改めて今回の戦いに勝利したことを実感した。
ふと、何者かの視線を感じた壹与は、下座に目を向けた。
彼女を見つめる視線の主は、王の衣装を身に着けた
王としての風格を漂わせるその姿に、壹与の胸はとくんと小さな音を立てた。
「明後日、私は帝へと称号を変え、大王から王位を引き継ぐ。それと同時に、この地に朝廷を開く。呪術に頼る
月読の話に、王達は真剣なまなざしを向けて大きくうなずいた。
彼が旅すがら、人の力で災難を回避する術を示してきた国々の王達は、冷静に彼の言葉を受け止めた。
「皆、国に帰れば、巫女を政から解放してやって欲しい。これからは占いではなく、知恵を出し合って国を動かしていくんだ」
月読の言葉を聞きながら、壹与は瞳を閉じて大きくため息をついた。
それは幼くして重責を負った彼女に、数年振りに訪れた安堵からくるため息だった。
王達との謁見を終えて回廊に出た壹与は、男鹿の姿を探した。
とにかく少しでも早く彼に会い、再会の喜びを分かち合いたかった。
邪馬台より南に位置するこの国に吹く風は、微かにもう春の匂いがした。
「大王」
背後から自分を呼ぶ声がして、壹与は笑顔を浮かべて振り返った。
「建……」
無意識に嘆息した壹与に、建は面白くなさそうに唇を噛み締めた。
「いえ、今は
改めて間近で建の姿を見て壹与は微笑み、少し頬を赤らめた。
粗末な衣から美しい刺繍の施された長衣に着替え、髪をまとめた彼は、別人のように立派に見えた。
建は気を取り直して壹与と向かい合うと、大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。
「私はお前を愛している。大王の座を皇子に譲ったら私の妃になってくれないか」
まっすぐ壹与の顔を見据え、建が単刀直入に想いを伝えた。
突然の告白に壹与は大きく目を見開き、しばらく言葉を失った。
「……私は……」
唇を震わせ、壹与は戸惑いの表情を浮かべた。
建はそんな彼女から視線を外すことなく、言葉を続けた。
「小国の王だが、私ならお前のそばにいてやれる。お前を泣かしたりもしない」
建の言葉が、男鹿のことを意識していることは壹与にもわかった。
彼は壹与と男鹿に未来がないことを暗に伝えているのだ。
同時に、王となった今の自分なら、彼女を妃に迎える資格があるということも。
「でも……私は……」
左右に首を振る壹与の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
男鹿との未来を夢見ても無駄なことは、彼に恋した時からわかっていた。
それでも彼女には、男鹿以外の者と迎える未来など考えられなかった。
うつむいて肩を震わせる少女を見て、建は大きくため息をつくと、彼女から視線を外した。
「困らせて悪かったな。お前の心が誰のものかなど、出会った時から知っている」
建は寂し気に笑って、回廊の欄干へ手をかけ、青く澄んだ空を見上げた。
「だが、想いも伝えずに、あいつに負けを認めたくなかったんだ」
苦笑して建が再び壹与に向き直ると、彼女の後ろに男鹿が立っていた。
固まった建の視線の先を追った壹与は、男鹿の存在に気付いて息を呑んだ。
そのまま三人は、互いに視線を外せないまま、無言で立ち尽くした。
「壹与様、月読様がお呼びです」
しばらくして男鹿は、何事も無かったかのようにそう言い、二人に背を向けてその場を立ち去ろうとした。
「待てよ」
そんな男鹿の腕を、建が掴んで引き止めた。
「聞いてたんだろ。私はたった今、振られた」
「……」
「せめて
建に背を向けたまま、男鹿は黙り込んだ。
建は掴んだ腕から、彼の呼吸がいつになく乱れているのを感じとっていた。
「……それは……できない……」
背を向けたまま、男鹿は絞り出すような声で言った。
壹与の顔から一瞬で色が消えた。
「なんだと?」
建は逆上して男鹿の襟元を掴み、正面に向かせると、血走った目で自分より背の高い少年の顔を見上げた。
「やめて、建!」
壹与が泣きながら建の腕を押さえた。
「巫女が政に関わらなくなれば、審神者の役目はなくなる」
眉を寄せてそう言い、男鹿は悲し気な瞳で建の顔を見つめ返した。
その言葉に、壹与ははっと息を呑んだ。
確かに、朝廷が開かれ、人が政を動かすようになれば、神託を伝えることで民を導く審神者の存在は不要になるだろう。
「……だとしても、
少年を睨みつけながら、建は襟を掴む手に一層力を込めた。
「私の大夫の身分は、審神者になるため与えられたものだ。退任すれば、もとの下衆に戻るだろう。そうなれば、この方のそばにいられる理由が無い」
それを聞いて、壹与はその場に泣き崩れた。
彼女は自分が女王の立場から解放されれば、今より男鹿に近付けると信じていた。
それが真逆な結果を招くなど、夢にも思っていなかったのだ。
「お前……、そうなることがわかっていて、今回の戦に尽力したのか?」
怒りに震えながら、建はつぶやいた。
『たとえどのような立場であっても、あなた様を愛しています』
壹与はふと、伊予国を出発する日、男鹿が言った言葉を思い出した。
「どんな立場でもって……、こういうことだったのね……」
「……」
答える代わりに、男鹿は唇を噛み締めてきつく目を閉じた。
「せめて、邪馬台へ帰り着くまでは、そばにいて……」
両手で顔を押さえ、涙声でそう言う壹与に、男鹿は一層うなだれた。
「それも……できませぬ……」
「なんでだよ!」
建は男鹿の胸ぐらを締め上げ、回廊の柱に少年の背中をぶつけた。
男鹿は苦しそうにむせながら、かすれた声で答えた。
「
壹与は、一瞬で頭の中が真っ白になるのを感じた。
「魏で学問を学び、いつかこの国の役に立ちたいと思っている」
「そんなもの、お前の勝手な大義だ!」
建は力一杯、男鹿の横面を殴りつけた。
「やめて!」
勢いで回廊の床に倒れた男鹿に、壹与が覆い被さった。
それを見て、建は拳を震わせて立ち尽くした。
「やはりあの時、お前を殺しておくべきだった」
瞳を潤ませて二人に背を向けると、建は早足でその場を去って行った。
「大丈夫?」
壹与は血の滴る男鹿の口元に指先で触れ、泣きはらした目で彼の顔を見つめた。
男鹿はその手を振り切るように顔を背け、拳で血を拭った。
壹与は差し出していた手を引き戻し、悲し気に微笑んだ。
「来ないかもしれないと思っていた未来が来てしまったのだもの。仕方が無いわ」
「……」
「私も、この先どんな立場であっても、どこにいてもあなたを愛してる。もう二度と会えないとしても、いつかあなたが魏から帰り、活躍する日が来るのを待ってる」
必死に笑顔をつくろうとする彼女の瞳から、涙は止めどなく溢れ出した。
「……壹与様……」
男鹿は固めた拳を震わせ、気丈に振る舞おうとしている少女の顔を見つめた。
「遠く離れていても、私があなたを想う気持ちは変わらない。それを支えに生きていく。あなたも、同じ気持ちなんでしょ?」
その言葉に触発されたように、男鹿の腕が壹与の体を強く引き寄せた。
そして二人は、互いを支えるように強く抱きしめ合った。
「ありがとう。あなたに出会えなかったら、きっと私は、心から人を愛する気持ちを知ることもなかった」
男鹿の中でも、幼い日から積み重ねてきた想いが膨れ上がり、固く閉じられた瞳から涙がこぼれ落ちた。
「私も……一生忘れませぬ」
男鹿は、今の彼女をあますことなく、記憶に留めようと思った。
なめらかな髪も、染み付いた香木の香りも、細い体も。
そのすべてを胸に刻みつけようと、より強く少女の体を抱きしめた。
翌日、
船が港に横付けされ、陸に向かって板が渡されると、見覚えのある緋色の長衣が目に入ってきた。
「戦への勝利と、帝へのご即位、おめでとうございます」
地上に降り立ち、月読に向かい合った河内国王は、以前と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべて頭を下げた。
月読もそれに答えるように深く頭を下げた。
そして、次に姿勢を直した時、彼の目に懐かしい女の姿が映った。
「
それは、約一年半振りに会う妻、言葉媛だった。
布にくるまれた赤ん坊を胸に抱き、媛は潤んだ瞳で月読を見つめていた。
今回、河内国王を即位式へ招待するにあたり、月読は媛も連れて来て欲しいとの要望を添えていた。
だがこんな遠方まで、彼女が本当に来てくれるのであろうかと不安に思っていたのだ。
それだけに、その姿を目にした彼は、喜びと驚きで言葉を失い、その場に立ち尽くしてしまった。
河内国王が彼らの間からそっと身を引くと、二人は向かい合い、少し離れた場所から無言で見つめ合った。
「あああ」
突然、赤ん坊が愛らしい声を上げ、母親の胸で身をよじらせた。
「これ、
言葉媛は月読から視線を外すと、少し慌てた様子で赤ん坊をあやした。
「月……世?」
「あ……。勝手にあなた様のお名前からいただいて、申し訳ありませぬ」
言葉媛は顔を赤らめて月読に頭を下げた。
月読が二人に近付くと、月世は笑いながら彼の方へ手を伸ばしてきた。
月読が恐る恐る手を広げると、言葉媛は戸惑いながらも、彼の腕に赤ん坊を預けた。
ぎこちなく月世を胸に抱いた月読は、初めて対面する我が子の顔を照れくさそうに見つめた。
「新しいあなた様の時代と、この子の人生が末永く続くよう、祈りを込めて名付けました」
そう言って言葉媛は、危なっかしい手つきで月世を抱く月読の腕に優しく手を添えた。
月読は愛し気に我が子を抱きしめ、甘い匂いのする小さな頭に頬を寄せた。
彼の腕に抱かれると、月世は嘘のように大人しくなった。
「私はこの地で朝廷を開き、しばらくここで筑紫島の立て直しに力を注ぎます。それが一段落すれば、邪馬台に都を遷し、それより北の諸国をまとめていくつもりです」
言葉媛に語りかける月読の胸で、月世はうとうとと眠り始めた。
そんな娘の様子を見て、二人は顔を見合わせて微笑み合った。
だが次の瞬間、月読の表情が真顔に戻った。
「倭国をひとつにする計画は、まだ始まったばかりです。そのため私は、常にあなた方のことを一番に考えているわけにはいかぬのです」
言葉媛は、黙って夫の顔を見つめていた。
月読は切な気な表情を浮かべ、彼女の瞳を見つめて言葉を続けた。
「勝手は承知しています。けれど、それでもあなたにそばにいて欲しい。私の正妻として」
思いがけない皇子の言葉に、言葉媛は両手で口元を覆い、驚いた表情を見せた。
だが間もなく、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
「……私で……よろしいのですか……?」
言葉を詰まらせる媛に月読は小さくうなずき、はにかんで微笑んだ。
それを見て、言葉媛は月読の腕に寄りかかるように手を添えた。
「あなた様が私だけのものでないことぐらい、最初からわかっています。でも、この国を変えていかれるあなた様の姿を、一番間近で見ることができるなら、これほど幸せなことはありませぬ」
月読は月世を片手に抱き直し、もう一方の手で妻の肩を抱き寄せた。
そして彼女のこめかみに頬を寄せ、愛しそうに何度も擦り付けた。
「ああ……。私の家族だ……」
両手に妻と我が子を抱き、月読は目を閉じて幸せそうにつぶやいた。
生まれてすぐに両親を失った彼にとって、両手に伝わるぬくもりは、初めて感じる家族のあたたかさだったのだ。
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