第三話 建国の礎(いしずえ)
血糊のはびこった壁や床はきれいに洗浄され、刃で傷ついた場所は補修された。
そして、ほとんどが呉の兵のものである遺体は、仮の墓地に埋葬され、負傷した者達には敵味方分け隔てなく、宮殿の一角に設けられた救護施設で治療が施された。
「何も呉の人間まで、治療してやることはなかろう」
二人は謁見の間に向かいながら、黙々と作業に勤しむ兵達の様子に目を配っていた。
「暴動でも起こされぬように、呉の人間は根絶やしにしておくのが身のためだぞ」
腕を組んで渋い顔で忠告する覇夜斗に、壁に付いた血しぶきを指でなぞり、月読はため息をついた。
「呉からの移民は約三万人いるらしい。一部の兵士を除けば、その殆どは女子供や老人を含む一般人だ。彼らは戦うためにここへ来たのではない。戦闘が続く母国から、家族の安全を守るため、この地に逃れて来たのだ」
遠くに視線を向けながらそう言う月読に、覇夜斗は「はん!」と鼻を鳴らし、忠告を繰り返した。
「同情は身のためにならぬぞ」
謁見の間では、右の壁際に
月読は張り無く垂れ下がる牛利の右袖に目をやり、表情を曇らせた。
「お前には、大きなものを失わせてしまったな」
牛利の肩に優しく手を置き、悲し気に言う月読に、大男は首を振って肩を落とした。
「私の至らなさの結果です。あなた様をおそばでお守りすることもできず、申し訳ありませんでした」
黙って肩を抱いた皇子の腕の中で、牛利は小さく身を震わせた。
そんな様子を、男鹿は唇をきつく噛み締め、潤んだ瞳で見つめていた。
「男鹿、お前に頼みがある」
上座へ腰を下ろした月読は、心配そうに牛利を見つめる男鹿に声をかけた。
その声に男鹿は素早く皇子に視線を移し、頭を下げた。
「呉の人間の中から、優れた建築技術を持つ者を連れて来てくれないか」
「建築の……ですか」
「この宮殿を建てた設計者や大工がいるはずだ。あと、鍛冶や織物職人なども探し出して来て欲しい」
月読の意図を読みかねて、男鹿は小さく首を傾げた。
「近々、戦に協力してくれた諸国への謝礼として、呉の技術者を送りたいんだ。特に出雲国には、これまで誰も見たことがないような、巨大な
月読の話の内容に、覇夜斗は思わず目を見張った。
戦いへ協力する条件として約束した社の建造に、月読が早くも着手しようとしていることが驚きだった。
しかしそれ以上に、その計画に呉の人間を活用しようとしていることが、彼には信じられなかった。
「確かに呉の技術は優れている。だが敵であった国の者達が素直に協力するとは思えぬ。鞭を打って無理矢理働かせたところで、いい仕事をするとも思えぬしな」
早急に約束を守ろうとする月読の気持ちは嬉しかったが、その計画が現実的とは思えず、覇夜斗は難しい顔をした。
「そうかな……」
覇夜斗の言葉に、月読は天井を見上げてあごをさすった。
その楽観的な様子に、一同は思わず拍子抜けした。
だがそんな周りの空気を気にする様子もなく、月読は男鹿の方へ向き直った。
「まあ、とにかく男鹿、人選を頼む。彼らの説得は、後ほど私からするよ」
「御意」
男鹿は少し含み笑いをして頭を下げた。
あきれ顔を見せる他の者達と異なり、月読らしい国造りへの第一歩が動き出す予感がして、少年の心は期待に膨らんでいた。
その日から早速、男鹿は
彼らは手始めに拘束している狗奴国の元役人から情報を聞き出し、その後は町に出て評判の高い人物を訪ねて歩いた。
そして名の挙がった者達と直接会い、過去の功績から、特に優秀な者を選び出していった。
その日も、技術者との面談のため町を一日駆けずり回り、疲れた表情で帰って来た二人を、宮殿の門で建が出迎えた。
「そんなに動き回って、体は大丈夫なのか」
腕を組んだ建は、眉をひそめて男鹿を見上げた。
男鹿も立ち止まって、夕日に赤く染まる建の顔を真顔で見つめた。
狗奴国との戦い以降、男鹿が人材探しに奔走していたため、彼らがまともに言葉を交わしたのは、伊予国を出発した日以来だった。
居心地の悪い緊張感を漂わせ、無言で見つめ合う二人を、野猪はおろおろしながら交互に見ていた。
「ああ、いつまでも怪我人扱いしないでくれ」
男鹿が穏やかに微笑んでそう言うと、建もほっと息をついて緊張を解いた。
その様子を見て胸を撫で下ろした野猪に、突然建の視線が向けられた。
「野猪、女王をさらった我々を捕えてくれて、お前には感謝している」
「え……? え……?」
建の言葉の意味が理解できず、野猪は戸惑いの声を上げた。
「あのまま狗奴国に着いていたら、
唇を噛み締め、そう言う建の顔を、男鹿は黙って見つめていた。
罪人とはいえ一国の王子に謝意を表され、野猪は恐縮しながら何度も頭を下げた。
「そして男鹿、お前にも感謝している。国だけでなく母をも救うことができたのは、お前のおかげだ」
そう言うと、建は男鹿に深く頭を下げた。
彼が自分より身分の低い者に頭を下げたのは、生まれて初めてのことだった。
照れ臭さと悔しさの入り混じった感情を持て余し、建は頭を下げたままきつく目を閉じた。
「私は何もしておらぬよ。母上を取り戻せたのはお前の勇気だし、
彼の必死の礼を打ち消すように、屈託なく笑いながらそう言う男鹿に、建はちっと舌打ちした。
「とにかく、お前には感謝している。それだけは伝えたからな」
建はそう言うと、踵を返し、足早にその場から去って行った。
「どうされたのでしょう。いつもと様子が違うような……」
小さくなっていく男の後ろ姿を見つめながら、野猪は首を傾げた。
その隣で男鹿は、無言で建の背を見送っていた。
同じ頃、月読と牛利は、宮殿の回廊から夕日色に染まる
「話とは、なんだ?」
潮の香りのする風に後れ毛をなびかせ、月読は牛利の顔を見上げた。
彼は話があるという牛利と、二人きりになるためにこの場所に来ていたのだ。
牛利はためらいを感じ、一旦は皇子から視線を外したが、意を決して切り出した。
「実は、伊予国を出発する前に、
「張政から……?」
「倭国が狗奴国を取り戻すことができれば、あの方の役目は終わります。その後の人生は祖国で暮らしたいと。戦に勝利できれば、あなた様にそれを伝えて欲しいとのことでした」
何事かと少し身構えていた月読は、ほっと息をついて微笑んだ。
「長年、任務のためこの国に留まってきたのだ。余生を故郷で過ごしたいと思うのは、人として当然であろう。遣いの者を付け、魏まで丁重に送り届けるよう手配しよう。魏の皇帝にも、戦への支援の感謝の意を伝えなくてはならぬしな」
魏の意向を担ってのこととはいえ、今回の戦の影の功労者である張政に、月読は言い尽くせぬ感謝の念を抱いていた。
それゆえ、晩年を祖国で過ごしたいという老人に対し、できる限りの誠意を尽くしたいと思った。
月読の表情からそんな心情を読み取り、牛利は再び言葉を詰まらせた。
黙り込んだ大男を見上げ、月読が眉を寄せると、彼は言いにくそうに話を続けた。
「その……。帰国に際し、男鹿を共に魏へ連れて行きたいと……」
「……なんだって……」
月読の顔から、一気に色が消えた。
「皇子!」
その時、背後から自分を呼ぶ声がして、月読は牛利に背を向けて振り返った。
「建……?」
「少し、いいか?」
息を切らせながら、建は月読のそばへ駆け寄り、その目をまっすぐ見つめた。
皇子が微笑んでうなずくと、彼はごくりと唾をのみ、低い声で切り出した。
「保留にしていた、我々が女王をさらった罪についてだが」
「……」
「私は、どんな罰でも受ける覚悟ができている。八つ裂きにでも何でも好きにしてくれ。ただ、弟の
早口でそう言うと、建は月読の足元にひれ伏した。
「実行したのは私だけで、あいつは船を手配しただけだ。熊襲国はそなたが治めてくれればいい。だが、あのような状態の母を、ひとりで置いてはおけぬ。頼む、弟だけは…!」
建は回廊の木の床に額を擦り付け、叫ぶように皇子へ訴えかけた。
そんな彼の頭を、慈愛に満ちた手が優しく撫でた。
見上げると、彼の前にひざまずき、穏やかな微笑みを見せる月読の姿があった。
「お前はもう処分を受けている。我々と共に命懸けで戦ってくれたではないか。お前の協力がなければ、今回の計画は成り立たなかった」
しばらく呆けたように皇子を見上げていた建の瞳に、涙が滲み出した。
「これからは兄弟支え合って母上をいたわり、熊襲国をしっかり護っていくんだな」
唇を震わせる建に、月読の隣で二人の様子を見守っていた牛利も優しく語りかけた。
「勇を軟禁したのは、あの者は心が弱く、戦で命を落とす可能性が高かったからだ。月読様は、お前の唯一の弟を守るために、あのような処置をされたのだ」
それを聞いた建は、目を丸くして改めて皇子の顔を見上げた。
月読は照れたように小さく笑うと、すっくと立ち上がり、西の山並みの陰から現れた三日月を仰いだ。
茜色と群青が混じり始めた空のもと、白く輝く美しい横顔を見つめ、建は肩を震わせて再び身を低くした。
「……ありがとう……ございます……」
「これからが大変だぞ。熊襲国王、建よ。新しい国造りにも、そなたの力を貸して欲しい」
未来を見つめるように夕空に目を向けたまま、月読は微笑んだ。
皇子に王と呼ばれて建は一瞬驚き、目を見開いた。
しかしすぐに涙で濡れた頬を手の甲で拭うと、皇子に笑顔を見せた。
「……はい!」
茜色に輝く建の瞳を見て、月読は満足そうに何度も首を縦に振った。
だがふと、彼は牛利から聞かされた張政の要望を思い出し、空に浮かぶやせた月を見上げて、深いため息をついた。
数日後、呉の技術者達が宮殿の広場に集められた。
三百人近く集められた人々の中には、土木、建築、織布、鍛冶、医学など、様々な分野に長けた者達がいた。
倭国によって占拠された宮殿へ呼び出された彼らは、これからの自分達の運命を憂い、青ざめた顔を見合わせていた。
戦に負けた自分達は、捕虜にされるか、
そんな彼らの前に、白い衣を身につけ、
大陸では白は喪の色であったため、技術者達はその姿に一瞬、不吉なものを感じた。
だがそれと同時にその姿は、俗世の者が近付けない、貴き者として彼らの目に映った。
「私は邪馬台国の皇子、
その名を聞いて、技術者達はその場にひれ伏し、身を震わせて額を地面に擦り付けた。
彼らの脳裏には、呉が倭国に敗れたあの日、いたる所に現れた月形の光と、太陽が消えた光景が恐怖と共によみがえっていた。
あの時、彼らは初めて倭人の恐れる神という存在を意識したのだった。
そして、そのことを予言するかのように、
「今日お前達に集まってもらったのは、ある選択をして欲しいからだ」
「……?」
皇子の言葉に、技術者達は眉をひそめ、首を傾げた。
「この先、倭人として生きるか、呉の人間として生きるかの選択だ」
一斉に広場がざわめいた。
それを見て、後方で彼らを見張っていた爾岐が、
「静かに聞かんか!」
大男の野太い声に一同は再び押し黙った。
「国に帰りたい者は帰ればよい。船は用意してやる。この地に残りたい者は、どちらの国の民として生きるか選ぶんだ」
月読はゆっくりと技術者達の顔を見渡しながら、遠くまで通る声で語った。
戦で乱れた母国を捨てて来た彼らに、帰国するという選択肢はなかった。
つまり必然的に彼らにとって今回の選択は、二択に絞られたのだ。
「呉人として誇りを持って生きていくという者は、自分達の特技を活かして好きに生きていくがよい。ただし、生活に困ったとしても、我々は手を差し伸べない。それでこの国で生きていけないと言うなら本国へ帰す。また、いかに優れた技術を持っていたとしても、倭人と同等の権利や地位は与えない」
「……」
「倭人として生きる決意をした者には、住む場所と仕事を与える。倭人としてしっかり働き、
人として扱われることさえ諦めていた呉人らは、努力次第で身分まで与えられると聞いて、一気に色めき立った。
そんな緩みかけた彼らの緊張を再び引き締めるように、月読は強い口調で言葉を続けた。
「だが、この国は神の国だ。神を敬う心を持たぬ者は、倭人として認めない」
押し黙った呉の人間は、神を敬う心と言われて理解に苦しんだ。
彼らにとって神とは、まだ天変地異を引き起こす恐ろしい存在でしかなかったのだ。
「今はわからなくとも、倭人としての心は時とともに身に付いていくであろう。時に神は人に厳しい試練を与えられる。だが、大いなる恵みを与え、堪え難い現実から心を救ってくださることもある。そのすべてを受け入れ、感謝して生きていくのが我々倭人の心だ」
皇子の話を聞いて、呉の人々も神が無慈悲なだけの存在でないことを、漠然と感じ始めたようだった。
「ただ我々倭人は、これまで神にすべてを委ね過ぎた。神に頼るあまり、自分達で努力することや工夫することを放棄してしまっていたのだ。そのため、お前達の国に大きく遅れをとってしまった。だが、狗奴国がそうであったように、大国と同等か、もしくはそれ以上の技術を持たなくては、今後この国は守れない」
自戒を込めてそう語り、月読は改めて技術者達の顔をゆっくり見渡した。
「そのためにお前達の力を貸して欲しい。この国の発展のために尽力してくれないか。倭人として」
皇子の言葉に驚き、技術者達は息を呑んだ。
優れた技術を持っていたとしても、本国でも、呉に治められていた狗奴国でも、彼らの立場はあくまで労働者であり、その地位は低かった。
いつでも時の権力者に命じられ、理不尽に働かされてきたのだ。
それゆえ、力を貸して欲しいという月読の言葉は、忘れ去っていた彼らの自尊心を刺激した。
「ただし、罪を犯した者や秩序を守れぬ者、国益に反することをした者は倭人同様厳しく罰する。それについては、呉人であることを選択しても同様だ。この国の安泰を脅かす輩は、何人であろうと容赦はしない。それだけは覚えておけ」
穏やかな顔から一変し、彼らを厳しく見据えて言う皇子の言葉に、呉の技術者達はごくりと喉を鳴らし、再びひれ伏した。
「今日のところは一旦家に帰り、家族と今後のことをじっくり話し合え。周りの者達にもこの話を広く伝えよ。そして倭人になることを選んだ者を連れて、明日以降再びこの場へ集うがよい。その者の技量によって仕事を割り振り、倭国の各地に派遣する」
皇子の話が終わると、呉の技術者達は早速そばにいる者同士で今後についての討議を始めた。
遠目にもその顔は、どれも未来への希望とやりがいに満ちているように見えた。
「ふん。結局血を流すことなく、大陸の技術を手に入れおったな」
少し離れた場所から月読を見つめ、覇夜斗が鼻を鳴らして笑った。
それを聞いて男鹿も大きくうなずいた。
月読は何一つごまかしたり、大袈裟に話したりはしない。
ただ、真実と自分の想いを淡々と語るだけだ。
なのに、なぜ彼の言葉がこれほど人の心を掴むのか、男鹿には不思議だった。
だが、その語り口と美しい姿が、いつも人々の心を捕えて離さないことは事実だった。
おそらく今日この場にいる者達が親戚縁者などにこの話を熱く語ることで、皇子の想いはあっという間に呉人の間に広まるだろう。
倭人が語りかけるより、同じ呉の人間が話す方が信頼性を持って受け入れられるに違いない。
月読が意図的にそうしているかはわからなかったが、結果的に彼はこの場にいない者達の多くをも自然に味方につけていくだろう。
「よく見ておけ。これからこの国は大きく変わっていくぞ」
覇夜斗は背後に立つ男鹿に振り返りそう言うと、青く晴れ渡った空を見上げた。
男鹿は覇夜斗の肩越しに月読の姿を見つめ、その存在の眩しさに目を細めた。
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