最終章 白い月
第一話 あたえし者
出雲国に戻った
久しぶりの王の帰還を、出雲の民の誰もが喜びの声を上げて迎えた。
彼が邪馬台国の皇子と共に狗奴国と戦い、勝利を収めたことは、すでに民達の中に知れ渡っていた。
長年決着がつかなかった戦いに貢献し、凱旋した王を彼らは心から畏敬の念を持って出迎えたのだ。
そんな笑顔で手を振る人の群れに、覇夜斗は驚きを隠せなかった。
前王の落し
ただ運命であるならば、彼なりに責任を果たそうとしていただけであったのだ。
だがこの日彼を出迎える民の姿を見て、いつの間にか自分が王として認められていることを知ったのだ。
そう思うと初めて、この国と民が無性に愛しく感じられた。
町の中心部にある広場までやって来ると、覇夜斗は手綱を引いて馬を停止させた。
広場でも多くの民が集まり、笑顔で王を出迎えていた。
「狗奴国との戦いは、倭国が勝利を収めた」
剣を空に掲げて馬上からそう言う王に、人々は一層大きな歓声を上げた。
「朝廷を開かれた帝は、この出雲の地を信仰の拠点と定められ、巨大な
それを聞いた人々は、「おー!」という声を上げて目を輝かせた。
渡来人の流入が激しいこの国では、以前より倭人としての誇りが乱れがちであった。
ここが倭国の一部であることを忘れぬよう、信仰心に重きを置いていた彼らにとって、この地が信仰の拠点であると定められたことは、大きな喜びに他ならなかった。
「我々はこれまで以上に神を敬い、倭国を代表する国の者として恥じぬよう、自覚をもって生きていかねばならぬ。神を軽んじ、秩序を守れぬような者に対しては、一層厳しく取り締まるぞ。よいな」
睨みをきかせてそう言い、にやりと笑った王に対し、人々は手に持っていた春の花々を宙に撒き、一層大きく歓喜の声を上げた。
そんな民との一体感に興奮を覚え、満足気に微笑む彼の目に、舞い散る花の向こうから近付いて来る
「おかえりなさいませ」
優雅に腰を落とし、頭を下げた夕月に、覇夜斗は熱い視線を送った。
「長く待たせたな」
馬上から微笑んで見下ろす覇夜斗の瞳を、夕月も愛し気に見つめ返した。
町の喧騒から離れ、森の中に建つ宮殿に足を踏み入れると、覇夜斗は瞳を閉じて、大きく深呼吸をした。
昼間でも薄暗い木々に覆われた宮殿の回廊に立つと、以前と変わらぬ小川のせせらぎが、心地よく旅の疲れを癒した。
目を閉じたまま欄干にもたれかかり、しばらく帰還した喜びを噛み締めている様子の兄の背中を、夕月は黙って見守っていた。
「皆、兵を迅速に
妹に背を向けたまま、覇夜斗はそう言った。
夕月は声を出さずに、はにかんだように小さく微笑んだ。
「私は不満だったがな」
そう言って振り返った覇夜斗は、腕組みして欄干に背中を預け、彼女を軽く睨んだ。
一瞬不安気な表情を見せた夕月の体を、覇夜斗は強く引き寄せた。
驚く夕月に彼は激しく唇を絡めた。
突然の出来事に始め戸惑っていた夕月だったが、じきに目を閉じ、兄に身を委ねた。
「早くお前とこうしたかったのに、お預けを食らったからな」
一旦唇を離した覇夜斗は、夕月と額を突き合わせ、情熱的な瞳を彼女に向けた。
紅潮した夕月の顔に高ぶる感情を抑えきれず、覇夜斗は再び彼女の唇に食らいついた。
そのまま彼は夕月の背中を回廊の柱に押し付け、その首元に顔を埋めた。
「もう、お前は巫女でも妹でもない。私の妻だ」
覇夜斗の言葉に、夕月は目を閉じて恍惚とした表情を空に向けた。
「覇夜斗が、夕月殿を妻に迎えたらしい」
謁見の間で向き合った
濃い紫色の
「少し、複雑な心境なのではございませぬか?」
苦笑しながら様子をうかがうような表情を見せる牛利に、月読は「そうだな」と照れくさそうに笑った。
「だがあの方に出会えたおかげで、私は本当に大切なものに気付くことができたんだ。今は感謝しているし、彼らには幸せになって欲しいと心から思っているよ」
牛利は一瞬、訝し気に月読の顔を見つめたが、澱みのない笑顔がその言葉が本心であることを物語っていた。
「お前はどうなんだ? 式を挙げる予定はないのか?」
思いがけず問い返され、牛利は赤い顔をして左手で頭を掻いた。
彼は
「私達は互いに再婚ですし、もう若くないですからね。今はそのようなことをしている余裕もありませぬし……」
朝廷を開いて以来、太政官の長として忙しく日々を過ごしている牛利を気遣い、月読は眉を寄せた。
「すまないな。戦が終われば、お前には邪馬台で静かに暮らしてもらうつもりでいたのに」
当初、月読は狗奴国との戦いが終われば、牛利を隠居させるつもりであった。
しかし、十年に渡り魏の朝廷を目にしてきた彼の経験は、手探りで始まった倭国の朝廷の仕組みづくりには不可欠だったのだ。
申し訳なさそうな表情を見せる月読に、牛利は左手の平を胸の前で左右に振った。
「とんでもない。歴史に残るような仕事に携われるなど光栄の極みです。なにより、このような体になっても、あなた様のお役に立てることに喜びを感じております」
目を輝かせてそう言う牛利に、月読は逆に救われたような気持ちになり、ほっとため息をついた。
「私は近いうちに一度、邪馬台へ還ろうと思っている。民達にこれまでのことと、これからのことを説明せねばならぬからな」
真剣な目でそう言う月読の言葉を、牛利は大きくうなずきながら聞いていた。
「そして、
それを聞いて、牛利は熱くなった目頭を隠すように深く頭を下げた。
狗奴国への旅が始まったばかりの頃、月読は彼の
半分気休めだと思っていたそんな何気ない口約束を、月読がずっと忘れずにいてくれたことが嬉しかった。
「……
ふと、遠い目をして月読はつぶやいた。
それを聞いて、牛利の表情もにわかに固くなった。
「あの子達には、誰よりも幸せになって欲しいと思っている。だが世の中はうまくいかぬものだな」
「……はい」
牛利も切な気な表情で床を見下ろした。
深く愛し合いながら、今や異国にまで離ればなれになってしまった若い恋人達を想い、二人の男はしばらく黙り込んだ。
「あとは男鹿が、己の力で運命を切り開く他ありませぬ」
牛利はそう言って、思い直すように顔を上げた。
その顔を見て、月読も小さく笑った。
「そうだな」
ため息混じりにそう言った月読の目が、次の瞬間何かひらめいたように見開いた。
「なあ、牛利。私に魏の文字を教えてくれぬか」
「文字を……ですか?」
月読の意図が掴めず、牛利は軽く首を傾げた。
「私の言葉で魏の皇帝に手紙を書きたい。男鹿が倭国にとって必要な人材であり、どれほど皆に愛されているか直接お伝えするんだ。あの者の力になれるかどうかはわからぬが、何もせぬよりましであろう。そうだ、邪馬台への道すがら、各国の王達にも協力を仰ごう」
興奮気味にそう言う月読の顔を見て、牛利は吹き出すように微笑んだ。
「
いつも人の幸せを望み、そのために全力を尽くそうとする月読の姿勢を、牛利は以前より敬愛していた。
「だからこそ、私はあなた様に一生お仕えしようと思ったわけですが……」
目を細めてそう言う牛利に、今度は月読が不思議そうに首を傾げた。
彼にとっては特別なことをしている感覚はなく、牛利が何を取り立てて言っているのかわからなかったのだ。
そんな表情を見て、牛利は堪えきれずもう一度笑った。
夏が近付き始めた頃、月読は邪馬台国に向けて旅立つことになった。
今回の旅は、共に戦った連合国を巡り、謝意を伝えるとともに再び結束を確認しながらのものとなるため、数ヶ月に及ぶことが予想されていた。
その日、狗奴国の港には帝を乗せる大型船と、護衛の兵を乗せる船団が横付けされていた。
再び旅へ出る夫を見送るため、
「また、しばらく会えなくなるね」
月読は月世を抱き上げ、愛し気に頬を擦り寄せた。
「ちーち。ちーち」
最近片言を話し始めた月世は、鈴が鳴るような声で父を呼び、その頬を小さな手で撫でた。
そんな娘の仕草に、月読は愛しさを一層募らせ、小さな体を抱きしめた。
その様子を見て、言葉の傍らで橘がくすくすと笑った。
彼女も月読と共に旅立つ牛利を見送るため、ここへ来ていたのだ。
「帝は、
そう言う橘に、言葉は少し切な気に微笑んだ。
橘はそんな皇后の表情に違和感を持った。
「言葉、留守を頼みます」
名残惜しそうに、月世を妻の手に委ねて月読がそう言うと、言葉は小さく微笑んで見せた。
「橘、皇后様を頼んだぞ」
牛利はそう言って、少し険しい表情で橘に向き合った。
この地でまだ知人の少ない皇后の力になるよう、彼は妻に言い聞かせていたのだ。
夫の呼びかけに、橘は力強くうなずいて見せた。
「皇后様、何かお困りの際には、妻に何なりとお申し付けください」
「ありがとう」
牛利の言葉に寂しそうに笑ってみせる言葉を、橘は心配そうに見つめていた。
月読達を乗せた船を見送り、侍女や護衛兵に囲まれて宮殿に戻ろうとする言葉を、橘が呼び止めた。
「皇后様、お茶でもご一緒にいかがですか。私の家はこの近くなのです」
橘は言葉の表情がどうしても気になり、彼女をこのまま帰す気にはなれなかったのだ。
突然の申し入れに最初驚いたような表情を見せた言葉だったが、ふっと笑みを浮かべ、橘の方へ体を向けた。
「よろしいのかしら」
「皇后様をお迎えするには、むさ苦しい処ですが……」
苦笑しながら頭を掻く橘に、言葉は心なしか嬉しそうな笑顔を見せた。
兵を戸口の外に待機させ、橘は牛利との新居に言葉を招き入れた。
太政官の長官となった牛利に与えられた屋敷は、以前呉の大臣が居住していたもので、小さいながらも庭園も設えた石造りの立派なものであった。
橘に案内され、室内へ入った言葉は、壁面の棚にうずたかく積み上げられた巻物を見上げて目を丸くした。
「牛利殿は、これらをみな読んでいらっしゃるの?」
「ええ、朝廷での
そう言いながら、橘はあわてて卓上にまで積まれた書物を脇の棚に片付けた。
「私達の夫は、大変なことをされようとしているのね」
改めて実感したようにそうつぶやき、言葉は大きなため息をついた。
そんな皇后の横顔を見つめ、橘は庭園へと続く扉を開けた。
「気候もよろしいですし、外の
「何か心配ごとでも?」
東屋に場所を移すと、橘は茶を注いだ器を皇后の前に差し出しながら切り出した。
「……」
そんな橘の問いかけに、言葉は黙りこんだ。
「あの方々がなさろうとされていることに比べれば、つまらな過ぎて恥ずかしいことです」
しばらくして、言葉は小さな声で言った。
彼女の視線は、侍女に抱かれて嬉しそうに池の魚を見る月世に注がれていた。
「よろしければ……」
そう言う橘に、一旦言葉を飲み込んだ言葉は、上目遣いの真剣な表情で彼女を見上げた。
「帝にはもちろん、牛利殿にも話さないでくださる?」
橘は一瞬言葉を失ったが、一本立てた指を口元に当てて微笑んで見せた。
「決して、他言はいたしませぬ」
言葉はほっとため息をつくと、恥ずかしそうに橘の顔を見つめた。
「頭ではわかっているの。月がすべてのものを等しく照らすように、帝がたくさんの愛を持ち合わせていらっしゃることを」
「……」
「でも、あの方が今回の旅の中で各地の妻と共に過ごされるのかと思うと、どうしても心が乱れてしまうのです」
橘から顔を背けた言葉の瞳に、涙が滲んでいた。
彼女は父である河内国王を見て育ち、自分自身も
しかし、月読の愛し方は他の男達のように政治的な割り切ったものではなく、常に相手に対して心から愛情を注ぐのだ。
しかもそれは、女に対してだけではなく、民や家臣など性別や立場に関係なく、彼に関わる全ての者達に対してそうなのだ。
勿論、彼が妻として自分のことを愛してくれていることもわかっていた。
しかし、同時にその愛情が自分だけに向けられているものでないことも知っていた。
いくらそれが神の子と言われる者を夫にした自分の宿命だと思っても、彼女の中で例えようのない寂しさが消えることはなかった。
その表情から彼女の想いを汲み取った橘は、円卓越しに言葉の手に自分の手を重ねた。
「私は帝のような方を愛したことがありませんから、あなた様の悲しみはわかりませぬ。けれど愛する人の心を自分だけのものにできない苦しみなら、私にもわかります」
「……」
言葉は少し驚いたような表情を浮かべて、涙に濡れた瞳を橘に向けた。
「私の夫にとって、亡くなった前の妻は特別な方なのです。ですから、あの世では夫をあの方にお返ししなくてはいけないかもしれないと思っています」
橘は少し寂しそうに表情を曇らせた。
彼女は牛利の心の中に、今も弥鈴が息づいていることを知っていた。
そのため、言葉の行き場のない悲しみが、理解できるような気がしたのだ。
「けれど少なくとも
いたわるようにそう言う橘に向けられた言葉の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
ゆっくりと立ち上がった橘は、言葉の背後にまわり、その肩に優しく手を置いた。
「帝は帰られる場所を、あなた様と決められたのです。自信をお持ちになって……」
橘の言葉に、言葉はうつむいたまま何度もうなずいた。
「そうね。そばにさえいられない壹与達に比べれば、私は贅沢で身勝手だわ」
涙を拭きながら微笑んで見せた言葉のそばに、侍女に抱かれた月世が近付いて来た。
「皇后様のご様子が、気になられるようで……」
遠慮気味にそう言う侍女から、今にも泣き出しそうな顔をした月世を受け取り、言葉は愛し気に抱きしめた。
「ごめんなさいね。母ももっと強くならなきゃね」
涙声でそう語る母を慰めるように、月世はその胸に頬を何度も擦り付けた。
「あなた達は、子供は……?」
不意に言葉に尋ねられ、橘は顔を赤くした。
「私達は、もう若くないですから……」
「あら、あなたはまだ若いでしょう?」
確かに、牛利と少し年の離れた橘は、まだ子供を望める年齢だった。
頭を掻きながら視線を泳がせる橘に、言葉は月世の頭を撫でながら語りかけた。
「夫が狗奴国に向けて旅立ってから、私は毎日泣き暮らしていたの。でもこの子が生まれ、その成長を見ているうちにいつしか涙を流すことを忘れていたわ。これでも、この子のおかげで少しは強くなれたの。愛する人の子を産み育てることは、女にとって代え難い喜びよ」
言葉の言葉に、橘の腹の底が疼いた。
「そうですね」
橘はそうつぶやき、改めて思いを巡らせた。
牛利は男鹿を我が子のように育て、橘も少年兵を多く育ててきた。
二人とも子どもが好きであったが、年齢を考えてなんとなく子を持つことを諦めていたのだ。
だが、こうして目の前で母親に甘える幼子を見ていると、息が詰まるような切なさが込み上げてきた。
「持てたらいいですね。いつか」
一層顔を赤らめ、ぼそぼそと言う橘の手を取り、言葉は微笑んで見せた。
「またこちらにお邪魔してもいいかしら。あなたになら、何でも話せるような気がするの」
「喜んで。いつでも歓迎いたします」
橘も微笑み、言葉の手を握り返した。
彼女も皇后に対し、同じような思いを抱いていたのだ。
手を取り合って微笑み合う彼女達を、月世は母の膝の上で、不思議そうな表情を浮かべて見上げていた。
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