第四章 晴天の闇
第一話 狗奴国上陸
伊予国を出発して五日目の夕刻、
それまで順調に
日向国の玄関口である港は湾になっており、今いる場所は入江の口に突き出す岬の手前だった。
「しばらくここで休みをとる」
男鹿はそう言ってゆっくりと船を進めながら、右舷側に続く陸を見渡した。
このあたりの海岸線は岩場が多く、大軍の船を止められるような場所は限られていた。
やがて岬を視界に捉える小さな砂浜を見つけた男鹿は、船底を傷めぬよう大きな船を沖に停め、小型船に乗り換えて上陸するよう兵達に指示した。
そうして浜にあがった一行は、馴れた手つきで火をおこし始めた。
流木に腰掛けた男鹿は無言で粥を一気に喉に流し込むと、まだ口にさじを運んでいる
「野猪、お前に頼みがある。私についてきてくれ」
「は、はい!」
野猪は慌てて粥を口に掻き込み、波打ち際へ向かう男鹿の後を追った。
そこに置かれた偵察用の二艘の小舟には、船の操縦に馴れた
男鹿がその内の一艘に乗り込み、彼に導かれて野猪も同じ船に乗り込んだ。
二艘の小舟は帆を夕暮れの風で孕ませ、岬を目指して海上を滑るように走り出した。
野猪は経験したことが無い小型船の速度と、全身を叩き付ける強い風に思わず身を小さく屈め、舟の縁を握りしめた。
しばらくして早さにも馴れ、前方に目を向けると、舳先で風を受けて立つ男鹿の背中があった。
(まだ傷が傷むはずなのに……)
重傷を負っているとは思えない、ぴんと張られた男鹿の背に、野猪は首を傾げながら見入っていた。
「見えるか、野猪」
岬を越え、日向国の港のある湾の入り口まで来た時、男鹿が前方を指差して声をかけた。
慌てて彼の指差す方向に野猪が目を向けると、薄暗くなり始めた空のもと、湾の中央に横たわる巨大な島陰が見えた。
「あれだけの船団を、日中移動させるのは目に付き過ぎる。今夜お前に、兵達をあの島の陰まで率いて来て欲しいんだ」
「私に?」
野猪が思わず自分を指差して尋ねると、男鹿は大きくうなずいて見せた。
「私が先にあの島に渡り、狗奴国の様子を探る。警備が手薄になれば
「は……はい!」
大きな任務を与えられ、顔を紅潮させて野猪が答えると、男鹿は彼の顔を見て軽く微笑んだ。
いつも難しい顔をしている印象だった男鹿の笑顔を見て、野猪は少し驚き、目を丸くした。
(男鹿様、なんだか変わられたな……)
野猪はこれまでも、男鹿には年齢に不相応な落ち着きと威圧感を感じていた。
だが、この時の彼には、大人の男としての余裕が感じられたのだった。
その後、男鹿はもう一艘の小舟に飛び移ると、島へと船を滑らせて行き、野猪は船団を指揮するため、兵士らが休む浜へと引き返して行った。
深夜、監視兵から、島に松明が灯ったとの知らせを受け、野猪は巨大な船団を率いて男鹿の待つ島を目指した。
明晩に新月を迎えるこの夜、空に月は見えず、周囲には暗黒の闇が広がっていた。
だからこそ松明の炎をはっきり見てとることができ、彼らはそれを頼りに島へ辿り着くことができたのだった。
月明かりも無い夜に船を出すなど、当時の常識では危険過ぎて考えられなかったため、狗奴国の警備艇も日暮れとともに海上から消えていた。
狗奴国からすれば、こんな夜に港から死角となる島の陰に、三百隻にものぼる大船団が来るなど、想像もできないことに違いなかったのだ。
島には男鹿だけでなく、一足先に出発していた
再会を果たした彼らは、深夜の砂浜に腰を下ろし、今後の計画を確認し合っていた。
月の無い浜辺は深い闇に包まれ、あたりには波音だけが静かに響き渡っていた。
唯一、暖をとるため熾された焚き火の炎が、緊張した面持ちで向かい合う男達の顔を照らし出していた。
「この島に、なぜ狗奴国は兵を置かぬのだ」
ふと、月読が
「私も詳しくは知らぬが、この地を倭国の海人族が治めていた頃から、この島には月の神が祀られているそうだ。そのため、ここに足を踏み入れようとすると、筑紫島内の海人族達が一斉に反乱を起こすゆえ、狗奴国も結局手が出せなかったと聞いている」
「つくづく、月読様は月の神に愛されているようですね」
「我々は夜明けと共に、建の船で狗奴国王の宮殿へ向かえばよいのだな」
だが、月読は表情を変えることなく聞き流し、そう言って男鹿の顔を見た。
「はい。我々は時が来るまで待機しております。それまでどうかご無事で」
「うむ」
真剣な表情で見つめる男鹿に、巫女姿の月読は深くうなずいた。
「戸を閉めないで」
組んでいた指をほどき、祭壇に向かったまま、背後の戸口に向かって壹与は声をかけた。
戸口との間には天幕が下げられ、外の様子は見てとれなかったが、彼女は戸を閉めようとする侍女の気配を感じたのだ。
「まだ冷えますゆえ、お風邪を召されそうで……」
木戸にかけた手を止めて、侍女は天幕越しに心配そうな声色で言った。
「お願い。そのままにしておいて」
体を戸口の方へ向けて座り直した壹与は、白い天幕を見上げた。
夜明け前のまだ青白い太陽の光が、弱々しく宮殿の外に植えられた木々の隙間をくぐり抜け、ゆらゆらと枝葉の影を幕に映し出していた。
「その時がくれば、月の姿がこの天幕に映し出されるらしいの。それを見届けたいから」
そう言って壹与は立ち上がり、天幕の隙間から抜け出すと、戸口へ向かった。
祈祷の間から回廊に出た彼女は、欄干に手をかけ、今まさに昇ろうとする太陽を仰ぎ見た。
壹与には、これから何が起こるのかはよくわからなかった。
ただ、天幕に映る月の姿と、闇に包まれる世界をしっかり見届けておくようにと、出発前月読に言われたのだ。
「神よ。我々に力をお与えください」
壹与は朝日に向かって指を組み、目を閉じると、静かに、強く、祈りを捧げた。
朝霧の立ちこめる海上を、月読達を乗せた建の船は、兵を乗せた数隻の小舟と共に、日向国の港に向かってゆっくりと進んでいた。
頭からすっぽりと麻布を被った月読のそばには、武装した牛利が腰掛け、周囲に鋭い視線を巡らせていた。
夜明け前の海は静寂に包まれており、舳先が波を押しのける穏やかな水音だけがあたりに響いていた。
ふと、霧の向こうに、小舟に乗った人影が近付いて来るのが見えた。
「建様、ご無事でしたか」
狗奴国の港を守る警備兵と思われる入れ墨をした男は、建の顔を見て笑顔を見せた。
「お帰りが遅いゆえ心配しておりましたが、よくぞご無事で」
「馬鹿にするな。ちゃんと戦利品も持ち帰った」
建はあごで麻布を被った月読を指し、強気な表情を男に向けた。
「おお、では噂通り、邪馬台の女王を?」
男は興奮した表情を浮かべて声を上げた。
そんな兵士に、建は気を引き締めさせるように、険しい表情を向けた。
「早く父王のもとへ案内しろ」
「は……はい!」
警備兵は慌てて船を転回させ、港へ向かって建の船の少し前を進み始めた。
「父王とは、狗奴国王のことか?」
声を殺し、牛利が建を睨みつけながら尋ねた。
彼はこのことが引っかかり、建に不信感を抱いていたのだ。
「ああ」
建は無表情に前方の海原を見つめながら、小さく答えた。
「母が妃になっているからな。狗奴国王は私の義理の父ということになる」
そう言うと、建はきつく唇を噛み締め、固めた拳を震わせた。
「殺したいほど憎い男を父と呼び、その庇護のもとにいる。このような屈辱、お前らにはわかるまい」
月読は麻布の隙間から、そんな建の様子を静かに見つめていた。
野猪は不思議そうに、男鹿の様子をうかがっていた。
夜明け前に月読達を見送った男鹿は、船に乗り込み、甲板の縁にもたれかかって胡座を組むと、目を閉じたまま動かなくなったのだ。
(やはり、体がおつらいのかな)
そう思った野猪は、しばらく彼をそっとしておくことにした。
男鹿は日よけのつもりなのか、大型の盾を陽の射す方向に立てかけていた。
盾に開けられた二つののぞき穴を突き抜ける光が、白い衣を身につけた彼の膝に、二つの小さな円を描いていた。
建を先頭にして、月読達の一行は、狗奴国王の謁見の間を目指し、宮殿の回廊を歩いていた。
朱に塗られた柱や、五色で描かれた鮮やかな天井絵が続く宮殿内のきらびやかさに、月読は思わず息を呑んだ。
渡来人の影響の強い河内や出雲の建物も、邪馬台国に比べれば華やかであった。
だが、これほどの装飾の繊細さや色の鮮やかさは、これまでに見たことがなかった。
回廊に等間隔に立つ侍女らしき女達はみな美しく化粧し、色とりどりの刺繍を施した衣装を身に着けていた。
また、護衛の兵らは鉄と革で作られた頑丈そうな鎧で身を固めており、その腰には大きな三日月型の刀が挿されていた。
彼はこのような様子から、倭国と大陸の文明の差を嫌でも認めざるを得なかった。
一方の宮殿内の者達もまた、建が連れ帰った邪馬台国の女王の姿に目を奪われていた。
彼らにとっては、髪を垂らし、純白の衣装を身にまとった女の存在が異様に見えたのだ。
だが同時に彼らは、その吸い込まれそうな黒い大きな瞳と、潔いほどに自然のままの美しさに圧倒され、ため息をついた。
謁見の間では、狗奴国王が上座で彼らを待ち構えていた。
「建、よくやった。さすが私の息子だ。褒めてやろう」
頭頂部でまとめた髪に冠帽を被せ、あご髭を胸まで伸ばした王は、ひざまずく建をねぎらった。
それに応えるように、建は無言のまま頭を下げた。
「
「倭国の者達が変な気を起こさぬよう、監視させるため置いて参りました」
建の答えに、王は大声を上げて笑った。
「図体が大きいだけの役立たずかと思っていたが、あいつも少しは使えるようになったか」
王の言葉に、建は頭を下げたまま歯ぎしりをした。
月読にも、このやり取りを聞いているだけでも、彼ら兄弟がこれまで、言葉にできないほどの侮辱を受けてきたことが想像できた。
「それが邪馬台国の女王か」
ふと、王が月読の顔に視線を向けて言った。
それから王は、月読の全身をなめるように見つめ、不敵な笑みを浮かべた。
月読は表情を変えずに、そんな王をじっと見据えた。
「噂以上に美しい。大陸にはない美しさだ」
王は立ち上がり、月読のそばへ近づくと彼のあごを持ち上げ、まじまじとその横顔を見つめた。
「巫女など所詮、その姿と怪しい奇術で民を惑わす存在なのであろう。そのようなものに頼っておるから、倭国はいつまでも発展せぬのだよ」
そう言って王は月読の耳元をなめた。
無表情のまま王から顔を逸らした月読は、逸らした先にいる建に目で合図を送った。
それを受けて建はうなずき、王に声をかけた。
「王、この女を新しく妃に迎えるなら、母を私達のもとにお返しいただけませぬか」
なおも月読の顔を愛でながら、狗奴国王は建の問いに答えた。
「ふむ。よかろう。返してやる」
あっさりとそう言う王に、拍子抜けしたように建は口を開けて呆けた。
「あの者を連れてまいれ」
王に命じられ、一人の兵士が胸の前で手を合わせ、部屋を出て行った。
「ところで、その大男は何者だ」
王は月読の肩を抱き寄せ、建の背後に控える牛利に目を向けて尋ねた。
「伊予国で拾ったならず者です。金に困っていると言うので、腕が立ちそうですし、用心棒として買ってやりました」
「ふん。正体のわからぬ者を、無闇にここへ連れてくるでないぞ」
体格がよく、目つきの鋭い牛利の風貌に、王は警戒をしているようだった。
「その者、どこかで見覚えが……」
王のそばにかしずく鎧兜で身を固めた男が、牛利の顔を見ながらあごを手でさすった。
その様子から、王の身を護るため雇われている
だが次の瞬間、先ほど部屋を出て行った兵士が戸口から王に声をかけ、男の視線もそちらに移った。
「お妃様をお連れしました」
兵士は小柄な女の肩を抱えるようにして、室内に入って来た。
「母……上……?」
建の目は、女を見たまま硬直していた。
その姿は、彼の幼い頃の記憶の中の母とは、あまりにかけ離れていたのである。
支えられ、よろめきながら現れたその女は白髪の老婆だった。
うつろな瞳は黄色く濁り、骨と皮だけにやせ細った手は皺だらけで、異様なほど血管が浮き出ていた。
昔美しいと内外に知られていた母の面影は、そこには微塵も残されていなかった。
「ここへ連れて来た直後気が狂れ、一晩で白髪になりおった。情けで何度かは抱いてやったが、もう長く女としては役に立たぬ」
忌むものを見るように顔をしかめて語る王に、建の膝の上に置かれた拳は、わなわなと震えていた。
「勇猛と恐れられていた
建の目には涙が滲み、震えるその手は腰の剣を握りしめていた。
「もっとも、お前達にはもう帰る国もないがな。今頃は我が兵が熊襲に侵攻しているはずだ」
「なに……!」
怒りが頂点に達し、思わず立ち上がりかけた建の腕を、牛利が掴んで引き止めた。
『何を見ても、何を言われても、じっと耐えろ』
ふと、伊予国を発つ前に聞いた男鹿の言葉が、建の脳裏をよぎった。
(あいつ、このことを知っていたな……)
我に返った建は血が出るほど唇を噛み締めた。
それから一息ついた彼は、ゆっくりと立ち上がると、兵士に支えられて立つ母に近付き、その手を取った。
「母上、共に帰りましょう。私達の国へ」
涙に濡れた瞳を向けると、母の目も濡れていた。
そして母と子は、支え合うように抱き合いながら、その場に腰を下ろした。
「倭国の巫女は、神に舞を捧げるそうではないか。私のために、舞って見せてみろ」
月読の肩を抱き、耳元でささやくように王が言うと、月読はこくりとうなずいた。
すっくと立ち上がった彼は、広く間をとられた部屋の中央まで音もなく移動すると、腰に下げていた剣を抜いて構えた。
それを見て王は一瞬目を見開き、不安気に建の顔を見た。
「邪馬台国の巫女が得意とする剣の舞です。あれは儀式用の剣ですので、ご安心を」
母の肩を抱いてそう言う建に、王は焦りを隠すように傲然とした態度で胡座を組み、月読を指差した。
「よし、踊ってみせろ」
再びこくりとうなずき、腰を落として顔の前で剣を構えた瞬間、月読の表情が変わった。
剣の刃のように鋭い視線を向けられ、王はぞくりとしたものを背中に感じた。
やがて月読は、目線の高さに剣を掲げて舞い始めた。
体が回転するたびに、柄に結ばれた長く赤い組紐が、彼の顔の前を駆け抜け、美しい目元を彩った。
次第に舞の範囲は広がってゆき、壁際に貼り付くように座る王の家臣や兵達のすぐそばまで、剣の軌跡が走った。
一瞬刃が近付く恐怖と、その直後に見せる女王の微笑に誰もが翻弄され、夢中になっていった。
王にしても例外ではなく、剣と共に差し向けられる鋭い視線と、交互に現れるこの世のものとは思えない美しい微笑みに目と心を奪われていった。
日が高い位置に達し始めた頃、それまで伏せられていた男鹿の目がゆっくりと開いた。
「いよいよ始まったな」
自分の膝を見つめてそうつぶやく男鹿を、野猪は眉を寄せて見つめていた。
「いったい、何が始まるのです?」
首を傾げる野猪に、男鹿は笑って盾の覗き穴が膝に描く光の円を指差した。
「よく見てみろ」
野猪は男鹿の傍らに腰を下ろし、顔を近付けてその光の円を見た。
「これは……?」
真円に見えた光は、よく見ると月のように少し欠けているようだった。
「月が太陽を覆い始めたんだ」
そう言って男鹿は立ち上がり、空を見上げた。
「準備しろ。そろそろ出発だ」
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