第六話 巫女の涙

 難升米なしめはその夜、人生最大の喜びを満喫していた。

 これまでも己が実権を握っていたとはいえ、邪魔者であった月読つくよみを失脚させられたのだ。

 酒がうまくて仕方が無い。

 一口飲むたびに侍女に酒を酌ませては、喉を鳴らせていた。


(月読さえ消えれば、倭国は私のものだ)


 王として君臨する己の姿を思い浮かべるだけで、自然に口元がほころぶのを抑えられなかった。


(優れた巫女とはいえ、壹与いよはまだまだ子ども。育て方次第で敵にも味方にもなる。せいぜい私のために働いてもらおうぞ)


 ふと、美しく舞う女達の衣越しに壹与の横顔を眺め、難升米は舌舐めずりをした。

 難升米の指示できらびやかな刺繍が施された魏の衣装をまとい、髪を結い上げた壹与は、いつもより美しく大人びて見えた。


(女としてそばに置くのもよいか)


 難升米は両手に半裸の美女を抱き、広々とした室内いっぱいに響く大きな声をあげた。


「踊れ踊れ。夜明けまで踊り狂い、口々に私の名を叫ぶがよい」




 赤い顔をして美女と戯れる難升米を、壹与はおぞまし気に見ていた。


(月読は、無事に宇多子うたこと邪馬台を出られたかしら……)


 今はそれだけが気がかりだった。

 たとえこの先、己の身に何が起きようと、運命として受け止める覚悟は少女の小さな胸の中にできていた。


「もっと女はおらぬのか! 女は!」


 難升米は醜く寝そべりながら、何度も大声でわめきだした。






 見張りの目を盗み、なんとか屋敷内へ忍び込んだ月読は、そんな光景を戸口の陰から見ていた。


(なんて奴だ。もう天下をとったつもりになっている)


 あまりの難升米の醜態ぶりに月読は呆れた。


(さて、どう乗り込むか……)


 気を引き締めて作戦を練り始めた彼の口元を、背後から何者かが手で塞いだ。


「……!」


 腰の剣に手をかけ、抵抗しようとする月読の耳元で、押し殺した若い男の声がした。


牛利ぎゅうりと行動を同じくする者です。どうかお静かに」


(牛利の……?)


 月読が剣の柄から手を離すと、声の主も彼の口を解放した。


「私は、男鹿おがと申します」


 振り返った月読に、男はひざまずき頭を下げた。

 髪を無造作にひとつにまとめ、粗末な衣をまとったその男は、頭を下げたまま両手で薄い布を月読に差し出した。


「月読様。これを……」


「これは……?」


 月読が布を手にとると、男はすっくとその場に立ち上がった。

 男鹿と名乗ったその男は、立つとすらりと背が高く、切れ長の涼し気な目をしていた。


「勝つためには、まずは敵を欺くことです」


 そう言いながら男鹿が右手を振り上げると、暗闇から白い衣をまとった女達が現れた。

 続いて黒い装束の男達が音も無く現れ、月読を取り囲むようにしてひざまずいた。

 驚きの色を隠せない月読に男鹿が言った。


「皆、あなた様の味方です」





「難升米様、近頃巷で評判の、邪馬台一の美女を連れて参りました」


「なに、邪馬台一の美女とな?」


 難升米は高揚した顔を、戸口に立つ細身の男に向けた。


「早く、早くこれへ」


 鼻の下を伸ばし、急かす難升米の声に答えるように男が軽く手を叩くと、戸口から白い衣をまとった女達が二列に並んで入って来た。

 いずれも勝るとも劣らぬ美女ばかりである。

 室内の誰もがその光景に息を呑んだ。

 女達は列の間をあけ、互いに向かい合って道をつくった。

 間もなく薄紅色の布を被り、顔を隠した女が姿を現し、その道を進み出て来た。

 顔を覆う布の下に、うつむきがちな美しい横顔がわずかに見え隠れしている。

 女は列の最前まで来ると、片膝を立てて深々と頭を下げた。

 その優雅な振る舞いに人々は魅せられ、声を失った。


「もっと……近う……」


 難升米がやっとの思いでそう言うと、女は素直に彼のそばへ進み出て再び膝を落とし、静かに頭を下げた。


「お、お前の……」


 難升米は女の顔を覆う布に手を伸ばした。

 どうしても早く、女の顔が見たい衝動にかられたのである。


「顔が見たい……」


 一瞬、女の目がきらりと光を放った。

 いや、少なくとも壹与にはそう見えた。


(まさか……!)


 少女の胸が一気に高鳴った。

 顔を覆う布が取り払われても、女はうつむいたまま無言でひざまずいていた。


おもてを……あげよ」


 難升米が女の顔を覗き込もうとした瞬間、引き締まった腕がその首を締め上げた。


「お前は……月読!」


 難升米はじたばたと抗ったが、見かけは細くとも、力は月読の方が勝っていた。


「私を殺す気か? 邪馬台を出れば、命は助けてやると言った私を」


「嘘をつくな。追っ手を送って、私を亡き者にするつもりであったのであろう」


 月読が刃先を首筋にあてると、難升米はひいっと悲鳴をあげ、額に脂汗を滲ませた。


「汚い奴だ。私はお前を信じていたのに」


 月読の歯が怒りで噛み締められ、ぎりぎりと鳴った。


「壹与! おいで!」


 月読の声に、壹与は一瞬身を縮めた。

 難升米の首筋に剣先を突きつけている月読が、別人のように見えたのである。

 殺気立った月読の表情に、少女は恐怖さえ感じていた。

 その一瞬の迷いを、彼女のそばで様子をうかがっていた兵士は見落とさなかった。


「きゃあ!」


「壹与!」


 細く鋭い目をした兵士が、壹与の首を腕で締め上げた。


「月読様、難升米様をお放しください。この娘の命が惜しければ」


「くっ……」


 壹与の顔が苦しみに歪んでいる。

 兵士は月読が難升米の首から手を離すまで、少女の首を締め上げるつもりなのだ。


「ご存知か? 小娘の首など、もろいものなのですよ」


 両者は互いに人質をとったまま、しばらく睨み合っていた。

 周りの者達も下手に手を出せず、緊迫した時間が過ぎていった。

 だが、不意に月読の口元に笑みが浮かんだ。


るがよい。殺れるものならな」


「なに……?」


「よせ! そいつを殺すな! その娘は切り札なんだ!」


 兵士が腕に一層力を込めようとした瞬間、難升米が叫ぶように言った。


「卑弥呼亡き今、この国を治めるだけの霊能力を持つ巫女はその娘だけなのだ!」


 月読には生死の瀬戸際に立ってもまだなお、支配者として君臨するつもりでいる難升米が、ひどく滑稽に見えた。


「聞こえなかったのか。あるじの命令だぞ。壹与を放せ!」


 兵士は悔し気に舌打ちをすると、突き飛ばすように壹与を月読の方へ押しやった。


「月読!」


 壹与は泣きそうになりながら月読のもとへ駆け寄り、彼の背後に隠れた。

 それを確認すると、月読は難升米の首を締め上げていた腕をほどき、両手で剣を構えた。


「男鹿! 壹与を頼む!」


「はっ!」


 戸口のそばに立っていた男鹿は、素早く駆け寄り壹与を抱き上げると、白装束の女達を連れて部屋を出て行った。

 それに伴い、難升米の侍女達も逃げるように次々と広間を後にした。

 こうして室内には難升米の兵と、男鹿達と入れ替わりに流れ込んできた黒装束の男達が残った。


「難升米、それほどまでに王の座が欲しいのならくれてやる。ただし、私を亡き者にできればな」


 月読は難升米を挑発した。案の定、難升米は腰から剣を抜き放つと、月読に突進して来た。


「貴様など、まだまだ甘いわ!」


 激しくぶつかり合った二つの剣が火花を散らした。

 それと同時に、双方の男達が互いに剣を振り上げた。





 人の叫び声や金属のこすれ合う音が、屋敷の方から聞こえてくる。

 壹与をはじめとする男鹿に連れ出された女達は、草陰から不安気に難升米の屋敷を見つめていた。

 手を合わせて一心に祈っている女もいる。

 夫や恋人があの場所で戦っている者も多いのだ。


(月読! お願い死なないで!)


 不意に壹与は、自分が涙を流していることに気がついた。

 同時に、これまで得体の知れなかった感情の正体がわかった。

 壹与は両手で自分自身を抱きしめ、地面に両膝をついた。


(月読! 月読! 私、あなたが好き!)


 壹与の様子に気が付いた男鹿は、そっと少女の肩を抱いた。


「大丈夫。月読様は大丈夫ですよ」


 壹与は男鹿の胸を借りて泣いた。

 自分でもこんな時に泣くことしかできないことが腹立たしかったが、涙は後から後から流れ出し、男鹿の衣を濡らしていった。


(月読。ずっと好きだったの。だから死なないで!)


 目を閉じると、傷ついて苦しむ月読の姿が浮かんできた。

 壹与はそれをかき消そうと、激しく頭を左右に振った。


「私、私巫女なのに……。何もできないの。皆を助けることもできないの。何も力が無いの!」


 泣き叫ぶ壹与に、男鹿は戸惑いながらも優しく微笑むと、そっと小さな体を抱きしめた。


「それでいいんですよ。あなたも恋をすれば、普通の女の子なのですから」


 男鹿は子犬のように泣きじゃくる壹与の髪に愛し気に頬を擦り付けながら、険しい顔つきで言った。


「人は、神や巫女にすべてを委ね過ぎなんだ。もっと人は自分自身で考え、行動を起こすべきなんだ。巫女がすべての責任を背負って悲しむ必要も無い。身を滅ぼすこともない。卑弥呼様のように……」





 剣を思うように操れず、月読は少し焦りを感じていた。

 大男である牛利から与えられた青銅の剣は、彼には大きすぎる上に重量もあり、刃を合わせるたびに体力を消耗した。

 それでも若い月読の絶え間ない攻撃に、老いた難升米は追いつめられつつあった。

 あとがないと悟った難升米は不意に声をあげた。


「壹与!」


「!」


 その声に月読が思わず背後を振り返った瞬間、難升米が刃を突き立ててきた。

 再び向き直った月読の顔面に、鈍く光る剣先が迫ってきた。





「月読!」


 急に嫌な予感がして、壹与は草陰から上半身を乗り出し、屋敷の方を見つめた。

 激しい人の声や金属音は一時に比べると沈静化しつつあるように思われた。


(月読が……傷を……?)


 少女の顔から、みるみる血の気が引いていった。


(……まさか……死……?)


 突然、壹与は屋敷に向かって駆け出した。


「壹与様!」


 気が付いた男鹿が慌てて後を追ったが、少女の足は思いのほか速かった。






 月読は体中血だらけになって床に転がっていた。

 顔も、両手も、胸も、真っ赤な鮮血で染まっていた。

 激しく息をつきながら身を起こし、傍らを見ると、仰向けに男が倒れていた。

 難升米である。

 断末魔の苦しみの表情を残したまま、男は既に息絶えていた。


(そうか……。私が殺したのだ)


 難升米の剣が月読の顔面を突き刺す寸前、彼は男の胸を突いたのだ。

 剣の長さが生死を分けたに違いなかった。


(牛利がくれたこいつのおかげだな)


 月読を赤く染めたのは、難升米の血だった。

 急所をひと突きにされた難升米は、胸からおびただしい量の血を撒き散らすと呆気なく息絶え、その場に倒れた。

 血と汗で顔に貼り付いた髪をかき上げると、こめかみに激しい痛みを感じた。

 難升米が振り下ろした剣を避けきれず、少しかすったのだ。

 左の眉の上に横一文字の傷がぱっくりと口を開け、そこから血が頬を伝って流れ落ちていた。

 傷口を片手で押さえながら、もう一方の手で握った剣を杖代わりにして、月読はゆっくりと立ち上がった。

 その時、難升米側の兵士が、己の主の死体につまずき、床に突っ伏した。


「ひい! 難升米様!」


 兵士は自分がつまずいたものを見て悲鳴をあげ、血を浴びた月読の姿に気がつくと、顔を強ばらせてその場にへたり込んだ。


「お前の主は死んだよ」


 今更月読は、その男をどうこうするつもりはなかった。


「これ以上無駄な血を流すこともあるまい。仲間とともにこの場から去り、他の土地で好きな女と一緒になって、新しい人生を歩むがよい」


「……あ……あ……あ……」


 兵士はおびえきった表情で月読を見上げていた。

 男の手の中では刀が小刻みに震え、かたかたと小さな音を立てていた。


「さあ、行け!」


「ひい!」


 月読が声を荒げてそう言うと、兵士は弾かれたように立ち上がり、何度も転びそうになりながら戸口に向かって駆けて行った。

 そんな男の後ろ姿を、月読はしばらく呆然と見つめていた。


「?」


 小さくなった兵士の後ろ姿に、戸口の右手から現れた違う男の影が重なった。

 そしてその影が左手に過ぎると、兵士の後ろ姿は前のめりに崩れて地に伏した。

 やがて左手に行き過ぎた影の主が、月読のそばへ歩み寄って来た。


「やりましたね。月読様」


「牛利」


 山で別れた牛利だった。


「久々に暴れようと思ったのに、もう終盤戦のようですな」


 そう言って屋敷内を見回す牛利の刀と手は、鮮血に染まっていた。

 その血を見ながら、月読は苦笑した。


「これがどうかされましたか?」


「……いや」


 不思議そうに己の手元を見つめる牛利に背を向け、月読は小さくつぶやいた。


「これが戦というものであろう」





 東の山並みの尾根を朝日が縁取る頃には、戦いは終末を迎えていた。

 勝負は月読に味方する者達の圧勝。

 難升米の兵に比べて少数ではあったが、牛利が志を同じくし、腕の立つ者をこの場に集めたのであろう。

 力の差は明らかだった。

 難升米の兵はほとんどが命を落とし、辛うじて生き残った者も散り散りになって屋敷から逃げて行った。

 やがて、屋敷の各所から、戦いを終えた黒装束の男達が月読のもとへ集まって来た。


「月読様、これからどうなさるおつもりですか」


 屋敷内が静かになったのを確認すると、牛利は刀を鞘に収めながらおもむろに月読に問いかけた。

 この瞬間まで壹与を助け出すことしか考えていなかったことに気付き、月読は言葉を失った。

 難升米の策略によることとはいえ、民を欺き追放された彼には、この国に居場所はなかったのだ。


「私に提案があります。聞いていただけませぬか」 


 背後に黒装束の男達を従えた牛利は、そう言って深く頭を下げた。





 戦いの終わりを悟ると、壹与は屋敷の塀の陰から飛び出し、月読の名を呼びながら、その姿を探して屋敷内を駆け巡った。

 そんな彼女の後を男鹿も追って走った。


「壹与?」


 自分の名を呼ぶ少女の声に月読が振り返ると、壹与は泣きじゃくりながらその胸に飛び込んで来た。

 月読の衣は赤く染まり、生臭い血の臭いがした。

 それに何度も擦り付ける壹与の頬も血に染まった。


「こわい思いをさせたね」


 月読も、愛おしそうに少女の小さな頭に頬を擦り付けた。






「壹与、私は旅に出ようと思う」


 しばらくして発せられた月読の言葉に、壹与は涙に濡れた大きな瞳を青年に向けた。


「民を裏切った私はここにいられない。この機に各国を訪れて絆を深め、狗奴国くなこくを平定し、倭国統一を目指すつもりだ」


 筑紫島つくしのしま(九州)を支配する大国狗奴国は、邪馬台国の配下に入ることを拒み続け、長年倭国統一の大きな障害となっていた。

 しかし、大陸で魏と対立している呉が支援しているとも噂されるこの国は、最新の武器を取り揃える強国で、連合国が一致団結しなくては討ち落とすことは難しいと思われていた。

 月読は国を追われたこの機に諸国を巡り、結束を固めた上で狗奴国平定を成し遂げ、倭国統一を目指す覚悟を決めたのだ。


「そしてそこで朝廷を開き、巫女に頼らない国を作り、再びこの地に戻って来ようと思う」


 これは先ほど、牛利から受けた提案であった。

 しかし月読も、民のために無惨な死を遂げた姉卑弥呼と、難升米の独裁に利用されかけた壹与を目の当たりにし、時代に翻弄される悲しい巫女の姿はもう見たくはないと思っていた。

 朝廷とは、魏で行われている人が政を動かす仕組みだ。

 神託に頼らず、人が政治的判断を下すことなど想像もできなかったが、巫女を重責から解放し、姉の悲願であった倭国統一を実現させるために、魏の朝廷をその目で見てきた牛利の提案を受け入れることにしたのだ。


「お前は私が帰る日まで、河内国かわちのくにの父王のもとで宇多子と共に待っていてくれないか」


 大国との戦の旅に同行させるわけにもいかず、月読は壹与の父である隣国の王に、彼女と妻の身の安全を委ねようと考えていた。


「宇多子様は……」


 不意に牛利が口を挟んできた。


「妻として一度は愛した人だ。捨ててはおけぬよ」


 悲し気に微笑んでそう言う月読から、牛利は視線を外した。


「……宇多子様は、自害されました」


 牛利の言葉に、月読の目が大きく見開かれた。


「宇多子が……? なぜ?」


「裏切った者の庇護を受けることより、死を選ばれたのでしょう。あの方はそういう女性です。私が再び牢へ戻ると、既に息はありませんでした。胸を短剣でひと突きにして」


 月読は力一杯壹与を抱きしめ、血が滲むほど唇を噛み締めた。

 そしてしばらくの間、声も涙も出さずに泣いた。

 ただただ、自分がもっとしっかりしていればと悔やみながら。


「……私は邪馬台に残る」


 ふと、彼の胸元で黙って話を聞いていた壹与が小さくつぶやいた。

 月読は力を緩めて少女の瞳を見つめた。


「民達はあなたを追放したけれど、彼らは難升米に踊らされただけ。この国にはやはり、人々を導くために巫女が必要なのよ。神託がなければ秩序も守れない。そんな者達を捨てては行けない。私は彼らの唯一の巫女なのですもの」


 そう言い切った少女の口元は微かに震えていた。

 見た目は十三歳の少女であったが、その瞳の持つ力の強さは、誰の目にも一人前の巫女のものに見えた。

 白い頬を光るものが滑り落ちたが、その表情は神々しいまでに艶やかであった。


「あなたは狗奴国を平定して巫女に頼らない新しい国家をつくり、いつか私を迎えに来てください」


 小さな白い手が月読の手をとった。

 握りしめたその手にも力が込められ、小さく震えていた。


「私、待ってますから。きっと待ってます。そしてその日が来たら、最後の巫女として邪馬台国の終末を見届けますから」


 もう月読に甘えまい。

 頼るまい。

 心の中で壹与は幾度となくつぶやいていた。

 月読の背中でいつも小さくなって隠れていた自分も、つい先ほど悟ったばかりの幼い恋心も、すべて次の言葉に押し込めて生きていこうと心に決めていた。


「さよなら。月読」


 背を向けて神殿へと続く道を歩き出した少女の後ろ姿には、他の者を寄せ付けない神聖な空気が感じられた。


「まるでお前は、姉上の生まれ変わりのようだよ」


 月読はそんな背中を見つめながら、小さくつぶやいた。

 そして、かつて少年の日に、姉の姿を見て同じような思いに駆られたことを思い出して苦笑した。


「壹与!」


 小さな背中がびくりと動いた。


「必ず待っていろよ!」


「……」


「強大な朝廷をつくり、きっと迎えに来るからな!」


 結局、最後まで壹与は一度も振り向かなかったが、月読にはひとつ、大きな目標が見えた気がした。





 太陽が頭上高く昇った頃、月読は山中の牢に来ていた。

 日中でも暗い洞窟の中に、短刀を片手に握り息絶えた宇多子が倒れていた。


「あわれな……」


 月読はその傍らに膝を付き、手を合わせて目を閉じた。

 彼とともに西へ旅立つ者達は麓で待たせてある。

 月読のそばには牛利と男鹿がいた。

 三人は見晴らしのよい小高い丘の上に、宇多子の墓をつくった。

 土を掘り、宇多子の遺体を寝かせて土をかぶせようとしたとき、月読が作業を中断させた。


「形見にいいかな」


 彼はそう言って、宇多子の髪に挿された櫛を抜き取り、懐に納めた。

 そしてかわりに、自分の胸に下げられていた勾玉の首飾りを宇多子の首にかけ、二人に向かってうなずいた。

 そうしてその後土が盛られ、石を積み、墓らしいものが完成したが、なお月読はその場を離れ難い様子だった。


「月読様、そろそろ……」


 遠慮勝ちに牛利が促すと、ようやく彼はうなずき、微笑しながら言った。


「……未練かな」


 男鹿が答えた。


「愛ですよ」





 三人が山を下りると、壹与と供の者達が彼らを見送りに来ていた。

 巫女の装束に着替え、美しく化粧をした壹与はいつもに増して輝きを放っているように見えた。

 その姿は、まさに在りし日の卑弥呼を彷彿とさせた。


「邪馬台には金印がある。魏がお前達を護ってくれるよ」


 月読の言葉に、壹与は微かに笑っただけだった。


「じゃあ……」


 壹与達に背を向けて、月読達の一行は最初の目的地、河内国に向かって歩き始めた。


「月読様」


 背後から男鹿が月読に近付き、横に並ぶと声をかけた。


「私は、壹与様と共に……」


 月読は少し驚いたような表情を見せたが、優しく微笑んで男鹿の肩を軽く叩いた。


「よろしく頼んだよ」


「はい!」


 そう答えた彼の顔が意外に幼く、月読は目を見張った。

 振り向くと、華奢な少年が、若い巫女のもとへ駆けて行くのが見えた。


「奴はずっと、壹与様を慕っていましてね」


 牛利がそんな光景を見ながら、父親のような優しい表情を浮かべて言った。


「あなた様はお気付きでしたか? 壹与様のお気持ちを……」


 再び歩き始めた月読は、暮れかかってきた空に遠いまなざしを向けていた。


「あんなに一途な瞳を向けられて、気付かずにおれるものか」


 そう言ってから、月読は思わず吹き出してしまった。

 そんな彼につられて、牛利も笑いだした。


「それもそうですな」


 事情のわからない他の者達は、突然笑い出した二人を不思議そうに見ていた。

 笑いながら月読は、妹のような、恋人のような、我が子のような壹与を、誰よりも愛おしいと思っていた。

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